考えるアッシ

8月4日付で更新した原稿、『手当ての意味』を振り返り少々考えるところがあった。それは「当事者である」とはいかなることか、ということだ。

もともとその原稿はいわゆる緩い「障害当事者」である僕が先に起こった障害者施設におけるジェノサイド(と言ってよかろう事件)の報に接し抱いたある居た堪れなさに端を発したものだった。
展開した随筆は概ね確からしいものだったように感じる。が、後にこの確からしさに一抹の不安を覚えるようになった。
その不安は、「当事者の言説が他の言説を圧倒しすぎないか?」というようなものだった。

先日、Eテレ「バリバラ」という番組が放送された。元来僕はこの番組が好物である。その中で紹介された「感動ポルノ」というワードが現在何かと話題のようだ。奇しくも(?)24時間かけて行われるチャリティ番組の裏の時間帯にそれは放送された。
確かにこの「感動ポルノ」という定義は、今まで障害者を「かわいそうなもの」としてしか扱ってこなかった我々に疑義を抱かせた。障害者の克己=感動はまさしく思考停止スイッチであり、そんなプロットを提供するメディアは怠慢以外のなにものでもない。

しかし僕は番組内で発せられた何気ない一言にはっとした。
その言葉は「障害当事者」という言葉だった。
なぜ僕ははっとしたのだろうか。
それは僕自身が今まで「障害者」を「障害当事者」だと思っていなかったこと、「当事者」というワードが加わることによって『強み』のようなものがそこに宿ること、そういうことを思い浮かべたからだった。
加えてこうも思った。「当事者」という言葉が持つ意味の何割かの成分もまた思考停止スイッチの役割を果たしているのではないか?

どうやらこの「当事者」という言葉は社会学的タームでもあるらしい。恥ずかしながら僕は知らなかった。
そこで手始めに岩波新書、中西正司、上野千鶴子著『当事者主権』を手に取ってみた。
『当事者主権』……、聞きなれないこの言葉の論旨をやや乱暴に要約すれば以下の通りである。
『自己選択、自己決定は、客観的定義より尊い。
障害、性、高齢、病、その他、なにがしかの問題、否、ニーズを持った者たち=「当事者」の自己選択、自己決定は専門家(統治者などとパラフレーズしてもよい)たちの意見より尊ばれ実現されるべきであり、実現できない場合はその社会制度設計が不十分なのである』といったところだろう。

僕はこれをとても正しいと思うと同時に強烈な違和感も覚える。
例えば、次のような例を思い浮かべるのである。

今麻疹が流行の兆しにあるのだそうだ。
専門家は麻疹のワクチン接種を奨励している。これは専門家の意見である。疫学等の知識がない者にはこういった専門的知識の正当性を吟味する余地がないので一応確からしいと捉えられるはずである。
かたや1998年、イギリス人医師ウェイクフィールド某が麻疹を含む三種混合ワクチンには自閉症を発症する副作用があるという論文を発表した。
これを鑑みワクチン接種当事者は予防と同時に危険性もあるワクチンを接種するか否か、専門家の意見をうのみにせず自己決定するべきであるかもしれない。これは『当事者主権』の標榜する定義に近い。
しかしである。専門家によればウェイクフィールド某の論文はねつ造だということがわかったそうだ。自己顕示欲に駆られた真っ赤な嘘だったのである。さらに麻疹ウィルスの根絶には人口の95パーセントほどのワクチン接種が望ましいともいう。もし専門知識をないがしろにし、嘘を鵜呑みにし、ワクチン接種を主観的理由で拒む当事者が増えれば、根絶できるはずの麻疹は生き残り続ける。よしんばワクチン接種者には感染しないのだからよいと言っても、公共性という観点からは少々逸脱している感が否めない。
つまりいついかなる時も当事者性が専門性に先んじると規定するには無理があるような気がするのである。
もちろん著書では専門性をすべて否定されていない。が、およそ当事者の専門家はその当事者自身であると結論付けてある。
(付け加えておくが、先日実際医師に麻疹のワクチンについて聞いたところ、事実上麻疹は根絶状態なのだそうだ。しかしイギリスで起きたようにウェイクフィールド論文によって反ワクチン主義者が生まれ、一時ワクチン接種が60パーセントを切るような事態になればその限りではないだろう)

確かに長年、当事者はないがしろにされてきた。当事者がないがしろにされる世界観には「当事者主権」というイデオロギーが必要であり、それによって現実を変革する必要があるかもしれない。けれどいついかなる時もイデオロギーが正しい、ということはない。

また、こうも思うことがある。『当事者主権』という運動(イデオロギー)に接するまでもなく僕たちは当事者との摩擦らしきものを時々感じずにはいられない。
かつて、僕がシナリオを書き始めた時、先輩のライターさんにこう言われたことがある。 「子供ができたら、シナリオが変わるよ」
おそらく何気ない言葉だったはずだ。しかしその言葉には「子供を持たねば、真に迫った親のセリフは書けない」というメタメッセージが含まれていたはずだ。
これは親という当事者とそれ以外の人々の摩擦であり、無意識に取られる排外的態度であるかもしれない。もしかしたら、「障害当事者」としてこの種の圧迫的言葉を喋っているのではないかと、僕は不安になる。

例えば、障害者Aがいるとしよう。ある種の専門知識を持った者がAに助言するとする。このリハビリ方法が障害克服のためになると。しかし障害者Aはそのリハビリ方法が気に入らない。その時Aは「当事者でないものに私の障害のことがわかってたまるか、私のことは私が一番わかっているので構わないでくれ」と言う。果たしてこの言葉は適当だろうか。

見渡してみれば実は当事者と非当事者との軋轢に我々は日々見舞われているのかもしれない。
当事者は、なにも障害、性、病、高齢等の世間的に問題と思われているニーズを持った人々だけに限らない。
例えば、僕はシナリオライター当事者である。例えば、シナリオライターではないある種の専門家に「おもしろくもないシナリオを書きやがって」と言われて自尊心を傷つけられたとする。そこで僕が「なら、あなたが書きなさい」と言うことは果たして適当だろうか。

当事者の自己定義/自己決定は尊い。当事者にしかわからないことがたくさんある。当事者としての彼ら/我々のニーズを社会が提供できるようにしていかねばならない。
ただ、当事者の言葉は魔力を持つ。圧倒的でさえある。そんな魔術的言葉を持つ彼ら/我々が『専門家』をないがしろにし、「これでいいのだ」と安易に連帯した時、ムラができる。これを当事者ムラとでも名付けよう。
そしてムラ人は言う。
「当事者でないものになにがわかる。のこのこ入ってきてつべこべ言うな」
つべこべ言わず必要なものを用意せよと言われた時、ニーズのない非当事者たちは鼻をつままないか。当事者に関わらないでおいた方がどうやら身のためだと思わせないだろうか。 そもそもその時、ムラは立ち行くのか、よしんば立ち行くとしてとても閉鎖的で外に向かう力のないムラが出来上がりはしないか。

僕はこう思う。
非当事者は当事者の自己定義/自己決定を尊ぶべきである。同時に当事者は専門家の言葉にも耳を傾けるべきである。

(いながき きよたか)


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