考えるアッシ

実はまずいなぁと思っていることがある。それは世の中から『わかりにくい』ものがなくなりつつあるんじゃないかということだ。
シナリオを書いていると、否応なくそれを実感させられてしまう。今の作り手の多くは『わかりにくい』恐怖症にならざるを得ない。なぜなら受け手がどうやら『わかりくさ』を極端に憎悪しているらしいからだ。
別に観客が憎悪していても、作り手が善悪の価値基準を『わかる』-『わからない』に置かなければいいだけの話だが、ことはそう簡単ではない。
今は幸か不幸か観客の憎悪がびしばし作り手に届いてしまうのである。
それに、悲しいことに人間の憎悪は祝福よりも伝播力が高い。一度でも、たかだか少数の観客に『村八分』の烙印を押されただけでその作品はだいたい右ならえでほとんどの観客からそっぽを向かれる。そっぽを向かれるだけならまだいいが、時には息の根を止められかねない。傾向として『村八分』の烙印を押される作品は『わかりにくい』ものだ。
「わかりにくい作品を作るのはオラたちに奉仕してくれてない証拠だ!オラたちにやさしくやさしーく奉仕してくれない映画やマンガや音楽やドラマやアイドルやその他政治家もなんでも徹底的に村八分にしてやるだ!」
こりゃ作り手が『わかりにくい』を恐怖するわけだ。
さらに悪いことに、昨今の制作環境には時々この『オラたち』目線の作り手さえ誕生してしまう。
『オラがわからねえもん作るべからず!作ったクリエーターは打ち首!』てなもんである。こんな立て札が至る所に立っている。恐ろしすぎる。

いつからこんな息苦しい世界になったのか、僕は社会学者じゃないからこんな風になってしまった原因を追究できないし、別にするつもりもない。ただ、少しでも『わからない』作品という絶滅危惧種保護に努めたいだけだ。
もちろん、わからない作品にダメな作品も多い。わかる作品がすべてダメとも思わない。ただそんな正論はどうでもいい。とにかく『わからない』がこうも排撃される風潮が続く限り断じて文化の未来は暗いのである。

僕が若いころ、90年代は『わからない』がけっこうかっこよかったりしたものだ。と、ジジむさいことも言ってみたりしたくなる。
もちろん、当時からこんな言説もあった。
「小難しい言葉で説明するのはだれでもできる。ほんとに頭のいい人は難しいことを簡単な言葉でわかりやすく伝えるものだ」
「ケッ!」てなもんである。若い僕はこんな正論に論破されかかったものが、今では動じもしない。難しい事柄は説明する言葉まで難しくなるなんてことは当たり前じゃないか。それを理解できるか否かは作り手じゃなくて、読み手にかかっている。そして極端に言えば別に理解できなくてもいいではないか。えてして難しい言葉の羅列は意味を越えて時に詩的な時もあるもんだ。その詩性それ自身を楽しむのもこっちの度量。頭の出来不出来ではない。
なぜ理解できなければそれが意味のないものになってしまうと思わねばならないのか。きっと自分がバカだと言われているようで悔しいのかもしれない。でも悔しいから殺してしまえという行為は、文化の死を意味する。

そうなのだ、『わからない』はバカと言われているようでみんなイヤなのだ。でもほんとは違う。『わからない』を楽しむことでしか人間は発達しない。当り前の話だ。
子供を見ているとそれが手に取るようにわかる。
子供にとっては世界のすべてが『わからない』。そして『わからない』を楽しむことで発達する。
岸田秀が言っていたように、人間は『バナナ』という言葉を知って初めてバナナを食べることができる。「この黄色くてねじ曲がったものはなんだ! わからない! わからないなら憎んでやるのみ!」では、バナナの甘さを味わうことは一生できない。
やがて『バナナ』が映画になり音楽になり文学になり哲学になる。あらたな『わからない』を発見したとすれば、それはとてもラッキーなことだ。そこに楽しむ余地が残されている証拠だから。

じゃあ、『わかる』ものは楽しめないのかというと、そんなことはない。
『A LONG VACATION』(以下ロンバケ)という大滝詠一さんのアルバムがある。おそらく40年弱の僕の人生で一番長く聴いたCDアルバムだ。一時期カーステレオからはこのアルバムしか流れていなかった。
発売されて今年で35年、一度もチャートの一位を獲得していないにも関わらず通算200万枚以上を売り上げているとても奇妙なアルバムである。つまり『ロンバケ』はとても『わかりやすい』ものとして受け入れられている。事実、大滝さんは売れるものを作ろうとした。一般大衆に広く受け入れられることを主眼に『ロンバケ』を作り、そして結果受け入れられた。ただ、その作り方は緻密そのものだった。受け入れられるだけではない、真にエヴァーグリーンなものにするために大滝さんの細工はまさに流々だったのだ。
なぜこんなに長い時間『わかりやすい』ものが楽しめるのか僕には疑問だった。
そして最近その理由が判明した。
実は『ロンバケ』にはとても『わかりやすい』音楽の背後にかなり『わからない』要素が詰め込まれているんじゃないだろうか。
きっと大滝さんは、聴く人にそんな『わからない』部分はわからなくていいと言うだろう。けれど、にもかかわらず大滝さんはかなり音楽に精通しなければ『わからない』要素をたくさんたくさん『ロンバケ』に詰め込んだ。いまだに『ロンバケ』がエヴァーグリーンな輝きを放っている謎は、そこにあると思う。
実は『わかりやすい』素晴らしい作品のほとんどは『わからなさ』を内包している。ビートルズでもいい、映画で言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でもいい、小説で言えば『村上春樹』でもいい。それらは単なる『わかりやすい』にとどまらない多面的要素を持ちあわせているはずだ。

こうして考えてみると、本当に文化を殺すのは、『わからない』を憎む観客じゃない。徹底的に『わかりにくさ』を排除し、予定調和しか生まない『わかる』だけの作品を生み出し続ける作り手なのだ。『わからない』を折りこむことを怠る作り手なのだ。それはある意味観客をバカにした行為だとも言える。自戒をもって肝に銘じたいものだ。

結論、『わからない』は結構面白い。

(いながき きよたか)


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