考えるアッシ

『共同脚本』というのは、よくよく考えてみれば、「ライターには個性がある」ということを示唆している。当り前といえば当たり前である。
個性がより多く執筆に参加することによって、脚本の質が向上すると見る向きもあるし、翻って、決して向上するとも限らないと見る場合もある。
では、一体、『共同脚本』とは、どんな場合に行われるのか、それは妥結の産物なのか、それとももっとポジティブな執筆の形態なのか、このところそんなことを考えている。

というのも、現在、僕は久しぶりに、初めての形態で『共同脚本』の仕事をしている。ゆえに、『共同脚本』について考えることが多い状態にあるのである。その概念としても、また、実質、どのように共同で執筆を進めるかという実践においても、である。

これまでも、『共同脚本』という形態の仕事を、僕はかなりしてきた方である。中にはクレジットされていないものさえある。
そして、『共同』の相手が同じ場合を除いて、どの共同作業も一つとして同じものはなかった。それはライター同士の個性が違うという意味においても、更には執筆の進め方という実践においても、同じにならない。
しかし、ある一定の『憲法』が『共同脚本』にあってもしかるべきかとも思う。
(その『共同脚本憲法』ともいうべきものの一形態が記された名著『複眼の映像』橋本忍著があるので、もしかしたら、『共同脚本』について考えを深めるには、まずそちらを参照する方がよいかと思われるが)ともかく、まずはこの複雑怪奇な『共同脚本』についての序の口をしたためてみようと思う。

実際、『共同脚本』の実態はわかりにくい。仮に、それに興味があるとして、素人の方はもとより、シナリオを必要とする映像に携わるプロたちさえも、おそらく、その実態を計れないでいると思われる。
『共同脚本』を実感するのは、当事者とプロデューサー、時として監督くらいのものである。

『共同脚本』にセオリー無しと見ておいて、おおよそ見当違いにはならないと先に結論付けておいてから、一応、ある種の傾向をひもといてみようかと思う。
一つ、最も顕著な形態は、『監督と脚本家』による共同脚本である。

これをひもとく前に、言っておかねばならないことがある。ただのメモをしてシナリオと呼ぶ場合さえあるので、『脚本』というクレジットについてはいろいろな考え方があってしかるべきであるが、ひとまず僕の暫定的な規定を述べておく。
それは『脚本』とクレジットされている場合、その人(達)が、『書いた』という意味である。逆を言えば、『書かなかった』人は、『脚本』と決してクレジットされない。さらに言うと、ごくたまに『書いた』人でもクレジットされない場合もある。
いずれにしろ、この『書かなかった』人はクレジットされないという規定が重要であり、この規定を外れる場合は、まさしくイレギュラーで、なんらかの力が働いていると見てよい。

『共同脚本』の『監督と脚本家』型に話を戻すと、つまり、監督も『書いた』わけである。
理屈をこねて、正しく書くならば、『監督と脚本家』型は、『脚本も書いた監督と脚本家』型の『共同脚本』である。
著名な例は、『小津安二郎と野田高梧』や『溝口健二と依田義賢』である。
全く一概に言えないが、もし無理に言うとするなら、この型の特徴は撮影稿への一番の近道と言えるかもしれない。なぜなら、撮影を統括する監督が脚本家と共に書くからである。
ここで論理的に考えるなら、一番の近道ではないという意見があってしかるべきである。それは監督が単独で書く場合があるからである。それは、まったくその通りである。が、上記の著名な監督らは、一人で書くよりも脚本家と『共同』で書くことを好んだという事実がある。僕は、監督ではないので、なぜこの型の『共同』を好んだのか、推し量れないが、おそらく、あまりに撮影に寄り添いすぎたシナリオになることを恐れるからではなかろうか。
昔、先輩の脚本家が、『脚本家は無責任である』と言ったことがあるが、まさに言い得ていると思う。つまり、撮影と脚本家の距離は、監督のそれよりもよほど遠いのである。ある種意図的な無責任さをもって完成させたシナリオをスタッフに預ける傾向が脚本家にはある。これが、撮影の事情に拘泥しない、いい意味で縮まらなさのあるシナリオにつながると思われる。そうした脚本家の生理というか資質を、監督は要求するのではなかろうかと、推測する。
よって、『監督と脚本家』型は、『共同脚本』の本質である『異個性の同居』の個性の部分を更に細分化し、『監督としての個性』と『脚本家としての個性』の同居として求めた型であると言える。

そして、この型は、えてして、監督が脚本家を指名することが多い。逆に脚本家が監督を指名して『共同脚本』になることは、まずありえない。ありうるとすれば、それは、この型の一番破滅的帰結だが、結果として、『監督と脚本家』型になってしまった場合である。
例えば、脚本家単独執筆のシナリオに、後に監督が勝手に筆を加えるという場合がそれであろうし、途中まで脚本家単独執筆だったが、監督ないし他の権限ある職務の人間が、それを気に入らず、脚本家を排し、書き加え、さりとてクレジットせぬわけにいかず、結果として『監督と脚本家』型になったもので、(まれに逆の場合もある)、これらは、おおよそ作品として不幸になる場合が多いと思われる。ただ、物故した脚本家のシナリオに、監督が書き加える場合はこの限りではない。
つまり、この型は、他の型にもまして、監督と脚本家の間によい連絡がなければならないと言える。

ちなみに、この型の傍系に『監督と脚本家×n』型がある。
nは任意の値を取る。橋本忍さんが参加した黒沢組などが著名な例である。
黒沢明作品で、nが最多なのは、『悪い奴ほどよく眠る』で、4である。
総勢、監督を含め5人で執筆していたことになる。ちなみに、脚本家を列挙すると、小国英雄、菊島隆三、橋本忍、久坂栄二郎、黒澤明である。目もくらむほどの名前が五人も並んでいる、さぞ、鉄壁のシナリオ執筆だったろうと思うが、どうだったのだろうか。

僕も、これまで、何本か、『監督と脚本家』型の経験がある。
よい連絡がとれた作品は、充分な結果が得られたし、逆の場合はその限りではなかった。 ともかく、監督と緊密な関係を築いた上でシナリオを書くときは、いつも、緊張を強いられる。それは心地よい緊張である。
先ほど細分化された個性と書いたが、監督と共に書く時は、強烈な異個性を強く感じることが少なくない。作家同士は作家の生理で言を尽くさずとも通じ合うことしばしばだが、監督が相手ではそうはいかない。
監督とは、明確で、その人にしかない強烈なイメージを持つ人種である。ちなみにそれはイメージであり、言葉ではない。
元来、言語は通じぬことを前提としているにも関わらず、さらに言語を媒介にして、言語ならざるイメージを文章として定着させなければならない。
経験で培った手癖や小手先が通用しない、つまりは、監督と共に書く場合は、常に緊張せねばならないのである。
功を奏すると、予想の何倍もの結果が得られる。それが、『監督と脚本家』型の『共同脚本』と言えると思う。

(『共同脚本考』(二)につづく)

(いながき きよたか)


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