考えるアッシ


二週間に一度、図書館へ行く。息子を連れて、二人で本を借りることにしている。最寄りの図書館は小規模なので、読みたい本が必ずしもあるというわけではないが、ともかく少しでも身になりそうな本を借りる。児童書・絵本の類は充実しているから、休日は親子で賑わってはいる。

先週のこと、息子と本を選んでいると、職員に向ってクレームをつけている母親の姿を見かけた。彼女は娘を連れているようであった。
なんだかおもしろそうなので、それとなく耳を傾けた。曰く、「この雑誌を撤去しろ」と職員に迫っているのである。
その図書館の構造について少々説明する。雑誌を置く棚は点在している。カウンターの隣にも一つ、小さな棚があり、数種の雑誌が並んでいる。その書棚は通路を挟んで、児童書コーナーと接している。ちなみに、陳列されている雑誌は、鉄道雑誌と、アニメ雑誌である。まあ、いかにもオタク向けのラインナップではある。
そして、母親は、児童書コーナーに接しているその書棚の雑誌を撤去しろと、職員に迫っているのである。
僕は首をひねった。この母親、気狂いかなと思った。
もう少し近づいて様子をうかがった。母親は、雑誌を手に、ページを開く格好で、職員に言い募る。
「子供が手に取れる場所にこういう雑誌があるのはいかがなものか」と、しきりに言い募る。やや、くどい。
『ああ、なるほど』と僕は思った。ようは、アニメ雑誌を手違いで(別に手違いでもなかろうが)娘さんが、手に取り、少し性的な描写のあるページを見ていたのであろう。それで「教育上、よろしくない」と母親は、ヒステリーを起こしているのだ。
(言っておくが、この雑誌は、正真正銘のただのアニメ雑誌である。エロ本ですらない)

僕は、頭に血が上った。息子そっちのけで、間に割って入り、「教育上、よろしくないので、その雑誌を撤去しようとすることをやめてもらえますか」と言おうかと思ったが、なんだかややこしそうなので、やめた。しかし、逆上したのは本当である。
僕は、この手の「いかがなものか」と「よろしくない」が苦手である。もし叶うのなら、この世からなくなってほしい。その母親の娘さんが、アニメ雑誌を間違って手にとってしまうような世界がなくならないでほしいと本気で思う。
しかし、なぜそう思うのか、なぜ年甲斐もなく頭に血が上ってしまうのか、少し考えさせられてしまった。

もうだいぶ前だが、知人と話していて、こんなことを聞いた。
「東京オリンピックが決まって、コンビニからエロ本がなくなるらしい」
ふむ、エロ本がなくなることと、オリンピックの相関がいまいち想像しにくい。知人によるとこういうことらしい。
「オリンピック開催時、東京には外国人が多く来日するだろうが、コンビニで堂々とエロ本が買える街だと彼らに思われたくないと当局は考えている」
僕は思わずうなった、先ほどの母親よりもさらに数段、動機が捻じれている。頭に血が上るというより、もはや呆れる。

なにも、おおぴっらにエロ本を買える社会がよいと言っているわけではない。もちろん、そういうみだりなものは、世間の目をそっと避けるように存在している方がよろしい。
だが、そういうみだりなものを徹底的に排除した先に待っているのは、おそらく、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」よろしく、漂白された揺らぎのない世界に違いない。僕はこれをものすごく恐怖する。
だから、世間様に顔向けできないでいるような、それでいて、どうしても存在してしまうような猥雑なものは、差別を甘んじながらも、そこに在った方がよろしい。

僕は、普段シナリオを書いているが、これに関しては、芸能の端くれであると自認しているところがある。
芸能は、工業や医学のように役に立たない。が、しかし、工業や医学よりもずっと古くから人間に関わりがある。つまり、人間にはなくてはならぬものだったし、まあ、これからも深くかかわるだろうとなんとなく高を括っている。
藝能の発生は折口信夫の『日本藝能史六講』に明るい。
曰く、『まれびと』なる人ならざるものを鎮めたり、力を借りたりする神事がルーツだという。饗宴や相撲や踊り念仏などが、それである。
これは、神事であるから、神聖さがある。
それが時代を下ると、なかなかに猥雑なものになる。
小沢昭一氏の『私のための芸能野史』が興味深い。門付けに始まり、萬歳、女相撲、浪花節、トクダシに至るまで、氏独自のフィールドワークで詳細に描かれる芸能の数々、いかがわしいことこの上ない。
けれど、このいかがわしさは、折口信夫による藝能の神聖さに、不思議と似ている。当り前のことである。小沢氏による芸能はすべてかつて神事として行われた藝能の変奏であるから。
そしてそれら猥雑なものは古今差別されながら、しかし確かに日陰を連綿と歩いてきた。
我々が、この世界を揺らぎのない世界とならぬようそれを許してきた。
だが、今はどうやら勝手が違うらしい。

相撲一つとっても、思うところがある。人は八百長をよろしくないという。確かによろしくない。しかし、相撲を格闘技と規定するところに、この「よろしくない」の源泉を求めてはいけない。
揺るぎない勝ち負けにのみ相撲は存在していない。ならば、力士の皆が皆、四股など踏まなくてよいではないか。勝ち負けに掬い取られない余剰が相撲にはある。たとえば、なぜ四股を踏むかといえば、野見宿禰(ノミノスクネ)が当麻蹴速(タイマノケハヤ)を踏み殺したからだ。だから力士は野見宿禰という神さまのモノマネをしている。神になりきり地の精を踏み抑えるわけだ。(加えて言うと我々がモノマネを見て喜ぶのは、ここらあたりに源泉がある)
折口信夫によれば、これは一種の演劇と規定される。確かにそう思えなくもない。相撲は、立ち合いにのみ筋書きがないという体で行われる演劇のような神事というわけだ。
ただ、こんなルーツは、覚えておかなくてもよろしい。我々が堅苦しさを苦手とするのは、今も昔も変わらない。相撲から、神事的な堅苦しさを抜かし、神事にカコつけて憂さを晴らすため、興行という側面を拡大させると、やがて猥雑な花相撲や女相撲となる。これらには、人間の欲求がみだりな形であるが、純粋に表れている。
しかし、これが先述のように、みだりな方向ではなく、純粋な勝負という正論めいた方向に行くと、堅苦しいことを避けたはずが、雁字搦めになる。八百長は異論なく悪という正論がまかり通ってしまう。

話が横道にそれてしまったが、とにかく、エロ本である。
ぐぬぐぬ書いてきたこの藝能を「性」に置き換えても、だいたいことは成り立つ。
性行為は、一応、建前上は神聖である。けれど、神聖なだけの性行為は堅苦しい。これは誰もが同意するところだと思う。堅苦しいだけでは、性行為は成立しづらい。するとそこに余剰が生まれてくる。エロ本はこの余剰の一部であろう。
誰にでも恥部があり、それはみだりな形で世の中に存在させられる。それがエロ本であり、きわどいアニメ描写であり、芸能である。もちろん、それは、教育上よろしくないし、日陰者の宿命を負わせておくのが適当だと思う。
しかし、それはどうしようもなく存在してしまうものである。それらを徹底的に否定することは、自らの一部を徹底的に否定することに似ている。なきものにしてしまうのはよほど人間的ではない。ましてや、そんな態度を子供の前で見せるのは、エロ本を見せるよりもたちが悪い。

僕が子供のころにも、すでに兆候があったが、昨今は、以前に増して、ある種の猥雑さを漂白してしまおうという風潮が強い。しかし猥雑さはいくら覆い隠しても存在する。その点は安心している。だが、注意しなくてはならないのは、窒息させてしまうくらい覆い隠すと、猥雑さは邪悪になる。犯罪や悪意という形で噴出したりする。だとしても、別に覆い隠した連中の自業自得だからどうってことはないのだが、ただ、僕は、どうしようもなく憂さが溜まった時、ふと日陰に佇んで見る猥雑さが好きである。それらが、なくなるのは、いかんともしがたいと思うだけだ。

(いながき きよたか)


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