考えるアッシ


最近、妙に「ノルウェイの森」のことが気になっていました。
言わずと知れた村上春樹さんの大ベストセラー小説ですね。
別に、ノーベル賞発表があったからでも、ハルキストだからでも
ないのですが……、では、いったいなぜいまさら「ノルウェイの
森」なんでしょうか。

実は、自分の中では『村上春樹』的なものに対する暫定的な「答
え」を、もうずいぶん前に用意し終えた感があります。
この「答え」というものはある種のメタファーであり、単純に
「深い分析をし終えた」ということではありません。ごくごく個
人的に『村上春樹』的なものに一定の理解を与え、もうこれ以上
は触れなくてもいいものとして、そっと心の奥の方の戸棚にしま
ったという意味です。
探求心の欠如と映るのも致し方ありませんが、ただ単にそれ以上
探求すれば、その瞬間に最高潮を迎えているセンチメンタルな気
分が損なわれてしまう場合もあると思います。理解の深度よりも
センチメンタリズムの瞬間冷凍を優先したでも言いましょうか。
しかし、「答えが出た」というくらいですから、人並みには熱心
に、かつての一時期を捧げたという実感はあります。
それにしても、十代の終わりから二十代の前半にかけて、よほど
熱心に村上春樹さんの小説を読み、そして、「もう、いいか」と
答えを出し、それ以来触れてこようとしなかったのに、なぜ今更
引っ張り出してきて、それも、わざわざ村上春樹の中でもややこ
しい部類の「ノルウェイの森」なんかが気になり始めたのか、い
まいち理解に苦しみます。

話は変わりますが、僕は記憶力に問題があるようで、映画でも小
説でも、観て読んでしばらくするとすぐに内容を忘れます。その
代り、著者やタイトルは定かではないがパンチライン的文章だけ
を覚えていることがよくあります。
改めて思い返してみると、頭の中にパンチラインの残滓がたくさ
ん残っています。
「ああ、美しい。今があたしの頂点みたい」
気になり、調べてみると、これは古井由吉の「杳子」でした。
「こいつは勃起させるぞ!」
これは大江健三郎の「われらの時代」ですね。(読み返してみる
と「われらの時代」は全文キラーセンテンスで彩られてますね。
「インポテ!」)
こうしたセンテンスは、そのときどきの精神状態に呼応して都合
よく脳内から引き出されるようです。

先日、ドキュメンタリー番組を見ました。タイトルはたしか『デ
モなんて』というものでした。
ある内向的な大学生の女性が、もともと「デモなんて」と思って
いたけれど、今はデモにのめりこんでいる、そこに至った過程と
現状、デモによって救われる女性自身の自意識を追ったドキュメ
ンタリー作品でした。
あらかじめ言っておくと、僕は東日本大震災以降のデモ、特に今
年に入ってからの本来社会運動であるはずのデモに少々懐疑的で
した。
「デモなんて」でとらえられる女性は、表向きは社会運動をして
いるようですが、僕には内面的欲求の実現を目指しているように
見えて仕方ありません。もちろん、デモに参加する人々すべてが、
この女性のような動機ではないことは重々承知ですが、今起こっ
ているデモでは、社会の変革より、内面的な自意識の実現が先ん
じているように僕の眼には映ります。
けれど、これはこれでいいのかもしれません。「デモが起こる社
会」は圧倒的に悪い社会ですが、「デモが行える社会」というの
は、比較的いい社会のはずです。(さらに言えば一番いいのは
「デモなど起こす必要がない社会」で、そして一番悪いのは「デ
モさえ起こせない社会」です)
だからデモをそれまでうつろだった自分の自意識を実現する場と
して機能させて悪いはずがありません。
ただ、それは、デモが一応のテーマとして掲げている「情況の変
革」という結果につながるとは限りません。結果を得るなら、や
はり自己実現というよりは、たとえ克己しても変革を獲るべきだ
ろうと思いますけれど。
そればかりか、自己表現としてのデモは、時に社会変革から遠ざ
かることもあるのじゃないかとさえ、僕は考えています。
現に、暴走を起こしているような国家権力に対して社会変革を望
むが、自己実現を目的とするような表現態度を取ることは望まな
い人々はたくさんいます。「社会変革を望むならデモに来てくれ」
と表現するデモ側の人間の大きな声は圧倒的に正しく響き、その
自意識から発せられた響きは、社会変革は望むが自意識による自
己実現は望まない人々を、さらにいっそう隅に追いやる力を持っ
てしまうような気がするのは、気のせいでしょうか。

わかりました。僕が「ノルウェイの森」が気になっていたのは、
こんなモヤモヤを抱えていたからだったのです。そして僕の脳は、
「ノルウェイの森」のパンチラインを引き出します。
『この連中の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思
った』
こんなセンテンスが頭に浮かび、僕はセンチメンタルを封印して、
実に二十年以上ぶりに「ノルウェイの森」を開きました。
どんな文脈で使用されていたかと確認してみると、時は1969
年、まさに学生運動華やかなりしころ、主人公の大学生ワタナベ
君は欝々とした学生生活を送っています。周囲は政治の季節、け
れどワタナベ君は政治よりも恋に夢中(セックスにも)。恋も政
治もどうせ青春のはずなのに、政治にかかわる連中の方が正義面
して幅を利かせている。そんな苦々しい学生時代のことを、20
年後のルフトハンザに乗りこんだ僕が思い出しながら、言い放っ
た言葉なわけでした。

「ノルウェイの森」は、村上春樹さんの小説の中でも、比較的高
を括られることが多いものだと思います。
ハルキストさんたちからは、ベタの烙印を押されてしまいそうだ
し、反ハルキ派の人々からもやり玉に挙げられたりしました。
確かに、再読してみると、あからさまに主人公の全能的世界でし
か事象が繰り広げられません。
(ワタナベ君はそんなことしないだろうけど)たとえ、ワタナベ
君がウンコを漏らしたとしても、周囲の魅力的な女の子たちは
「不思議なことするコね」とかなんとか言って、ウンコを拭いて
あげて、再びセックスに耽ってしまうようなそんな全能的世界で
す。
そこに嫌悪を感じるのもやまやまだと思うのですが、再読してみ
ると、ただ自己愛にまみれてセックスばっかりしていた勘違い野
郎の告白譚だけにとどまらない素晴らしさも「ノルウェイの森」
にはちゃんと存在することに気づきました。
それはワタナベ君的全能世界に耽溺していた十代のころにはわか
らなかった時代の綾のようなものです。

僕が「村上春樹」的なものに包囲されていた時期は、ちょうど1
990年代的日本の気分と軌を一にしていました。
1995年辺りを頂点とする文化に対してひどく肯定的で高揚し
た日本の気分です。
「ノルウェイの森」が刊行されたのはたしか87年のこと。文庫
化が91年です。それ以降、あたかも現実社会が、小説世界をト
レースしていくがごとく、ワタナベ的全能世界を是とする雰囲気
が漂っていきます。
このワタナベ的全能世界の成立には、先ほどのウンコの話は卑近
な例としても、なによりも教養の内面化が必要になると思われま
す。
簡単に言えば「教養の高い人はかっこいい」という価値観が絶対
的な是とされる世界です。
変な話、90年代は、音楽に詳しかったり、レコードをたくさん
もっていたり、美術活動に没頭したり、文学や思想哲学に秀でた
りしている人は、かっこいいとされました。文化に対してひどく
肯定的で高揚した気分というやつです。
そして「ノルウェイの森」は、教養がなければ決して書けないよ
うな表現にあふれていて、反対に教養を退けるばかりに無為な人
生を送る人々に警鐘を鳴らしています。
この教養は、僕は、想像力と言い換えていいと考えます。つまり、
『この連中の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思
った』わけです。

しかし、00年代に突入したころを境に、この価値観は突如収束
し、反転してしまいました。教養のある人々はかっこいいと思わ
れるどころか、最近は冷遇されるようにさえなりました。ある種
の成果主義の皮肉な結果なのかわかりませんが、いつのまにか想
像力に基づく地道でささやかな声は、ただ声の大きな人たちの叫
びに蹂躙されるようになりました。
なぜなのか、本当にわかりません。
「教養が高い人はかっこいい」という価値観が間違っていたのか、
それとも人々に想像力の欠如を促す強い力が働いたのか、僕には
わかりませんが、これだけは言えます。
どうやら社会がより悪い方に傾きだしたとき、それをよりよい方
へと方向転換させるためには、教養と想像力が必要だ、と。
しかし、アンビバレントにこうも考えてしまいます。教養や想像
力は、デモなどを起こす必要がない社会でしか醸成しないのかも
しれない、と。
この背反する二つのテーゼを両立させるには、「ノルウェイの森」
に描かれるような90年代的価値観の復興がわずかにでも行われ
なければいけないような気がしています。

(いながき きよたか)


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