考えるアッシ

この『本棚』を始めて、一年半ほどですが、まだあまりシナリオ
について書いていませんでした。書きたくないというわけではな
いのですが、書くことについて書くことは、どこか気恥ずかしさ
が付きまといますし、なによりも『本棚』という場くらい、そこ
から少し離れたことを書きたいと思っていたからです。

しかし、やはり、常日頃何くれ無く考えるのは、シナリオの事で
す。
ちょうど、今まさに新たなシナリオを書いていますし、だいたい、
執筆を始めると、他事にあまり気が回らなくなるので、そこから
離れたことを書くにしろあまりネタがないのも事実。ちょうどい
い機会なので、少しシナリオについて、改めて考えてみてもいい
かなと思う次第です。

恥ずかしながら、僕は十分に勉強もせずシナリオを書き始めまし
た。お仕事として書くようになってからも、言わばだましだまし
書いていたような節もあります。
通常は、(シナリオライターにただの一人も通常はないような気
もしますが、それでも)、シナリオスクールに通うなり、一昔前
では、師匠に付くなり、または撮影所の企画部や脚本部で丁稚的
に働くなりして、シナリオを書き始めるものかもしれませんが、
僕はどの道も通っていません。ですから、僕の場合非常に亜流と
いうことになるかもしれません。
ですから、シナリオについての考えを書くといっても、それ自体、
非常に亜流のものになるかもしれません。
ただ、一つ言えるのは、僕のシナリオの先生は、いつもご一緒す
る映画監督やプロデューサー、スタッフの方々だったような気は
します。映画を作るまさにその現場で、たくさんのことを学びま
した。
もう一つの先生は、なんと言ってもシナリオについて書かれた書
物ということになるでしょうか。
ですので、大変、現場よりな、なによりも独学としての、「シナ
リオ考」です。

まず、なぜ選んだものがシナリオだったかと言うと、少し語弊が
あるかもしれませんが、「僕にも書けるかもしれない」と思った
からです。
この考えは同時に反する二つのことが含まれています。半分は、
高を括っていたことになりますし、もう半分は僕の安易な考えが
当たっていた、ということです。
ともかく、シナリオは、主に文芸の中でも非常に敷居の低いもの
であるという考え方は、ある意味では当たっているのです。

およそ名だたるシナリオライター達が書いた指南書のほとんどは、
まず、シナリオの入り口を容易いと紹介します。
少し長いですが、高名なところで参照しますと、
『シナリオなどというものは、少しばかりの文才と、少しばかり
の映画的感覚さえ持ちあわせていれば、いや、映画的感覚などは
全然欠けていても、多少とも映画の習慣に馴染んでさえいれば、
誰にでも一応らくらくと器用に書いてのけられるものであり、
(中略)もっと乱暴な云い方をすれば、ペンと原稿用紙さえあれ
ば、シナリオなどは屁の河童だといえるかもしれない。』(野田
高梧「シナリオ構造論」より)
とさえ言われるほどです。
まだまだ素人に毛が生えたような駆け出しのころの僕などは、ず
いぶんこの言葉に救われてしまいました。
小津映画のエンジンとも言うべき野田高梧をして「屁の河童」と
言わしめるシナリオは、まさにチョロイもんなのではないかなど
と。
しかし、本当は、救われている場合ではなかったのです。

確かに、シナリオは、ある種の手続きや方法を身に着ければ、明
日にでも、書けるようになるものです。
先年亡くなったシド・フィールドの教則本や、その他あまたある
教則本のどれか一つを読みそのメソッドに従ってもいいですし、
各学校で教えられているシナリオの先生の言うとおりに、練習す
るのもいい、そうすれば、始まりから仕舞いまで、シナリオを書
き切ることは、まったく困難ではありません。(ほぼ脳足りんだ
ったこの僕がそれができたというのが、何よりの証左です)

しかし、野田高梧さんは、「屁の河童」と喝破しておきながら、
注意深く次を続けます。
『だがしかし、そういう類のシナリオに果たして正鴻(原文ママ 
註:おそらく『正鵠』)なシナリオ的感覚があるであろうか。男
の煩悶といえばすぐに酒を呑む場面を思い浮かべ、夜更けといえ
ばすぐに犬の遠吠えを空想するような、こんな陳腐な有り合せの
映画的感覚なら、むしろ持ちあわせない方がましである。』(同
じく「シナリオ構造論」より)
つまり、シナリオを書くこと、それ自体は、屁の河童だが、屁の
河童で書かれたシナリオは陳腐であるというのです。

僕が、高を括っていた部分は、まさにこの部分でありました。陳
腐なシナリオを書きたくない限り、僕はこの『正鵠なシナリオ的
感覚』を身につけなければなりません。
しかし、一体『シナリオ的感覚』とは、どんなものなんでしょう
か。

男の煩悶=酒、夜更け=犬の遠吠え、これら陳腐として紹介され
た事例を、「紋切型」と呼びます。
『ボヴァリー夫人』の著者:フローベールの著書に『紋切型辞典』
というものがあります。陳腐を集めまくった末に、いかに我々が
恣意性に包囲され身動きが取れないでいるかという現実を突きつ
けてしまう恐ろしい本です。恣意性に敏感でなければ、我々は陳
腐に包囲されてしまうというのは、映画的感覚にも言えることで、
ともすれば、「紋切り型」を恥ずかしげもなくさらしてしまう危
険がある、そのことをして、野田さんは、そんな映画的感覚なら
ば捨ててしまえと言うのです。
ですが、なるほど、陳腐な映画的感覚の事例はわかりました、で
は、そうではない映画的感覚、特に、その中でも野田さんが銘打
つ「シナリオ的感覚」とは、一体なんなのか、それがわかりませ
ん。

曰く、『「シナリオ的感覚」というものは、シナリオを構成する
文字と文字との間、行と行との間、節と節との間に、溌剌と躍動
すべきもので、これなくしては真のシナリオは書けるものではな
く、この感覚が枯渇したが最後、その作家はそれつきり一つとこ
ろに膠着してしまうものだと云っていい』(同じく「シナリオ構
造論」より)
ですが、忌憚なく言わせてもらえば、この「シナリオ的感覚」に
ついての叙述は、「屁の河童」という描写より、少々歯切れが悪
いのではないかと思う次第です。『文字と文字の間に溌剌と躍動
すべきもの』だそうですが、やはり、その実態はよくわかりませ
ん。
『シナリオ的感覚がなければ、真のシナリオは書けない』この意
見については、まったくその通りだと思います。少ないキャリア
ながら、何本かシナリオを書いた身としては痛いほど共感させら
れます。ですが、僕自身が「シナリオ的感覚」は何かという問い
に、満足な答えを用意できるか、いや、できないかもしれないと
いうことを、今は、問題視したいのです。

少し、敷衍するためにも、話を横道に逸れたいと思います。
先ほど、ある種のメソッドに従えば、シナリオは比較的容易に書
けると言いました。この言葉から読み取れることの一つに、つま
り、シナリオには原理的な規則なり法則なりが少なからず存在す
るのではないか、ということがあります。
しかし、実は、このことも、『そうであって、そうでない』とい
うダブルバインド状態に置かれているのではないかと思います。
確かに、シナリオには厳密な規則があります。それらを一つ一つ
ひもとくのは、またの機会として、ともあれ、他の文芸よりも、
シナリオには約束が多いということは事実としてあります。この
「約束が多い」ことが、すなわちシナリオのとっつきやすさに結
びついているといえますが、しかし、かといって、約束をすべて
守れば、立派なシナリオになるかというと、まったくそうではな
く、反対にとてもつまらないシナリオになるでしょう。
こういった具合に、シナリオの原則・方法の話になっても、上記
の野田高梧さんが行ったシナリオの原理についての言説に非常に
近くなってくるようです。
つまり、シナリオとは、容易いが困難で、近くて遠い、柔と剛が
相俟つようなものなのかもしれません。

例えれば、僕は、常日頃、シナリオは、料理のようなものだと感
じています。
昔、「料理の鉄人」というテレビ番組がありましたが、あれによ
く似ています。
同じ材料をとり、名シェフが料理を競うというあれです。
シナリオも同じで、同じ材料を、違うやり方で、料理する、そし
て、その料理の過程をつぶさに見てみれば、各シェフごとに、独
自の出汁や隠し味があって、その分量やバランスが的確にまた個
性的に計算されているのではないかと思います。もしかすれば、
この料理における出汁、隠し味、分量、バランスなどが、シナリ
オにおける「シナリオ的感覚」に近いのかもしれないなと思った
りします。

ここで、改めて、シナリオを作る上で最も大事な「シナリオ的感
覚」とは、一体なんなのかという問いに戻りたいと思います。し
かしながら、やはり、それを短い言葉で活写することは到底困難
であると僕は言わざるを得ません。
というのも、実は、それこそが、規則や法則に還元できない感覚
だからです。
ですが、今のところ、足りない言葉をかき集めて精一杯まとめる
とすれば、次のようになるでしょうか。
誰も疑わないが、考えてみれば、論理的必然性の伴わない「紋切
型」、「お約束」や「慣習」、「習慣」に置き換えてもいいです
が、そういうものから跳躍してしまえる、新たな発明をシナリオ
上で次から次へと繰り返し行えるような生理的反射を指し、「シ
ナリオ的感覚」と言うのではないか、と、今のところ考えていま
す。

シナリオは書けば書くほど奥が深く、底が知れないというのが実
感です。このシナリオ的感覚及びシナリオそのものについても、
余儀多くの側面が残され、改めて、この紙面で、シナリオ考を続
けられればと思っているところです。

(いながき きよたか)


mail
コギトワークスロゴ