連載小説 新


    12

 曜子は大通りまで男に付き添われて歩いた。大通りに出ると、曜子の知らない種類の外国車が停まっていた。助手席には『アトリエ』で見た男の手下が座っていた。車の前まで来て男は曜子を車に乗せようとした。身の危険を感じ、「電車で帰ります」と出来るだけ騒がず伝えた。
 「心配するな、もう少し、話がしたい。車の中なら、気兼ねなく話せる。誰にも聞かれないからな」
 助手席の運転手まで出て来て曜子を後部座席に乗るよう促した。曜子は観念して、皮張りのシートに収まった。
 「うちはどこかな」
 男は穏かに言った。
 「話が終るまで、走ってください。話が終わったら、そこで降ります」
 男が笑った。運転手が車を走らせ始めた。込み合う三車線道路の右端にあっという間に車線変更すると、Uターンして、東へと走り始めた。
 「職業柄、しっかりと確認しなければならないんだ。もう一度聞く。占いはできないんだな?」
 「はい」
 乗用車に乗っていることに曜子はまだ少し緊張していた。最後に父と二人で乗って以来、曜子は乗用車に乗る機会を作らなかった。だが、男の手下の運転は身をゆだねてもよさそうな安心感を曜子に与えたし、男が本当に曜子に危害を加えようとしているわけではないと思い始めていた。
 「なるほど、もしそれが本当なら、喜ばしいことだな」
 「そうでしょうか」
 「君にとってはそうじゃないかもしれないが、少なくとも、私にとっては喜ばしいことだ。労力を使って、君を監視せずに済むし、私への依頼者たちだって、誰かに出し抜かれることを心配しなくて済む」
 「私、ずっとこんなこと、いやだって思ってました。未来を先取りして、見てしまうなんて邪魔なことでしかありませんでした。でも、ちょうどあの警察の人が私に占いを依頼してきた頃から、そうじゃないかもって思うようにしたんです」
 「した?」
 「したんです。私、ずっととりえがなかったんです。人に自慢できるような。父にもちいさいころそう言われました。お前はとりえがないから、せめて勉強くらいはできるようになれって。別にそれでも全然構いませんでした。あの、さっきのバーテンダー、知り合いかって見抜きましたよね。私、あの人と恋人でした。でも、別れました。別れてから、私がそれまでしてきたことって全部あの人に関わることしかなかったなって思って、なにかを見つけようとして、学校に通い始めました。そしたら父が死にました。事故に巻き込まれて。最後に、父が『お前にはとりえがある。それは』って言いかけたら、車につっこまれて、それきり。それってなんだろうって思い続けてました。だから、予知能力みたいなことを、とりえだと思うことにしました。恋人みたいに別れたり、あたらしく現れたりしない、自分に宿ったものだと思ったから。でも、こんなにあっさりなくなるものなんですね。髪の毛みたいなものか、美容院で切ってもらったら、それでおしまいみたいな」
 「邪魔だが、なきゃ困るか」
 「いや、別に、新しいとりえをさがせばいいだけの話なんですけど」
 車はどんどんと繁華街を離れて行った。郊外を貫く大通りを東へ東へと進んだ。曜子は自分が男に完全に心を許していることが不思議でならなかった。警戒することを諦めてしまっただけかもしれないと思った。運転手は、『アトリエ』のバーテンダーよりも存在感を消していた。後部座席で話す男と曜子の言葉を明日になれば本当に覚えていないかもしれないと思うくらいに、無関心を装っていた。だからと言うわけではないが、曜子はこれまでのいきさつを脈絡なく男に向って喋った。母のこと、子宮摘出手術のこと、手術中に見たはっきりとした予知のこと、幻肢痛のこと。男は、右手を何度も握ったり開いたりしながら考え込んでいる様子だった。曜子の言葉を反芻しているようには見えなかった。
 「こうは考えられないかな。君は子宮を無くし、代償として予知能力を授かった。幻の子宮はおそらく、幾人もの未来を孕んで痛みと共に産出させた。だが、その幻が急になくなった」
 車が急ブレーキに揺れた。横から無理矢理割り込んだ車のせいだった。運転手が「どうしますか?」と聞いた。男はそれには取り合わなかった。それきり黙りこくり、運転手は割り込んだ車を追いかけもせず、何事もなかったように、ハンドルを回した。しばらくして、男が話し始めた。
 「本音を言えば、怖いんだ。君に占われた人間は全員そうだ。なにが怖いかと言えば、未来をすでに知っているということだ。知らないうちは喉から手が出る程それを求めたくせに、知った途端に怯えるんだ。私もその一人だ。君が初めて占ったスポーツ選手がいただろう。彼は今年のペナントレース最終戦でじん帯を断裂させた。君が占った通りにね。他にも君が占った人々は、次々と既に知っている未来を経験している。けれど」と言葉を切って、男は嘲笑した。
 「バカにしないで聞いてほしい。もし、君の幻の子宮が未来を宿していたのなら、その子宮の幻が今なくなったのだとしたら、未来もまた別の可能性に向って動きだしてるんじゃないか」
 自分でも訳のわからないことを言っていると男は充分理解しているようだった。曜子につられ、思いついたことをそのまま言葉にしていることを省みるようにシートに座り直し、男は懐のポケットから名刺を出した。そして、しっかりとした口調で、
 「お互い今話したことは、忘れてほしい」
 「覚えていたら、また、あなたがやってきて、わたし、羽交い締めにされたりするんですか?」
 男は笑った。
 「いや、公式な依頼ではなく、ごくごく個人的なお願いだ」
 そして、曜子は名刺を受取りながら、
 「これは?」と聞いた。
 「これは、公式なものだ。もし、再び子宮が痛んだら、真っ先に連絡してほしい」
 「わかりました。間違って、あなたに連絡する前に、占いでもして、ややこしいことになりたくないから、私、真っ先にあなたに連絡するようにします」  男は頷いた。

 男は約束通り話し終わった場所で曜子を降ろした。歩きながら、改めて『アイス』での出来事を思い出すと寒気がした。予知できていたら、自分はどうなっていただろうか。男に連れられ、スバル共々粛清されただろうか。男ならやりかねないと思った。
 名刺を見た。『宇山正幸』という名前の後に携帯電話の番号が載っているだけの簡素な名刺だった。「うやままさゆき」と曜子は口に出して言ってみた。それが男の本当の名前かどうかわからないが、一旦名前を得ると彼の事を少し身近なものに感じた。
 バスと地下鉄を乗り継いで最寄り駅から自宅までの道を歩いた。歩きながら曜子は宇山が言っていた、「未来の別の可能性」ということについて考えた。歩道はやがて住宅街の静かな道へと続いた。曲がりくねって、街路樹も絶え、建設途中の建売住宅の資材の影から飛び出した猫に驚かせられながら、「未来を孕む子宮」とは一体なんなのか考えていた。
 曜子が予見したまだ起こっていない未来は、曜子の幻の子宮の消滅と共に別の可能性に移行したと宇山は言いたかったのだろうか。何を根拠にそんな都合のいい想像をしたのか曜子にはわからなかった。
 自宅にたどりついても、宇山との短いドライブのことが頭を離れなかった。ソファに腰掛け、ふと手を置いた下にちょうど下腹部があった。ふとあることを思いついた。夜が明けたら病院へ行こうと曜子は決めた。
 翌朝、連絡もせず曜子が来たことに病棟の看護婦は渋い顔をした。だが必死に食い下がり手術を担当した医師と会えるよう懇願すると、看護婦は頼むだけはしてみますと、曜子を待合室の椅子に座らせどこかへ消えた。そのまま長い時間が過ぎ、昼食の配膳も終わるころ、疲弊しきった様子の医師が現れた。
 「すいませんね、予定外の手術が立て込んでまして、外来患者も診なきゃならないでしょう、なかなか体があかないんです」と言い訳する医師は、それでも努めて煙たそうな表情は見せなかった。
 「その後、体調はいかがですか?」
 曜子へのガンの告知が初めて行われたカンファレンスルームに再び通され、医師の方から話を切り出した。
 「体調そのものは良好です。でも、前に話した症状が収まりませんでした」
 「そうですか、困りましたね」
 「いえ、それが、昨夜から落ち着いたように感じて、そのことで来たんです」
 首をかしげ、言葉につまる医師が「というと、どういうことですか?」と怪訝な顔をした。
 「私の勝手な想像なので、変なこと言ってたらごめんなさい。摘出した私の子宮はまだありますか?」
 医師は神妙に息を吸った
 「なぜ、そんなことを?」
 「理由を話せばきりがありませんし、ただ、気になったとうか」
 「わかりました。結果から言うと、あなたから摘出したガンの病理標本は作成しておりません。本人の同意なしに標本を作ることは倫理指針の適応外な訳です。当院の方針として、同意を得るというのが原則です。ですが、一定期間標本としてではなく、患者ご本人の診療記録として残す可能性はありますね。その場合期間が決められています」
 「まだありますか」
 「あると思いますよ」
   「見せてください」
 医師は明らかに渋ったが、患者の権利を拒否するわけにもいかず、曜子と共にカンファレンスルームを出た。
 地下までエレベーターで降り、廊下を何度も曲がり、セキュリティに守られた扉を医師は専用のカードで解錠した。やがて曜子と医師はコンクリートがむき出しになった広いいくつも扉のある場所へ出た。明らかに患者が来る場所ではないことがわかった。空気が乾き、温度も低く、辺りは曜子の嗅いだことのない臭いで充ちていた。
 「ここで待っていてください」と、医師が曜子をそこに留め、一室へ入って行った。辺りは人が待つようなよりどころもなくいたたまれなさを感じていると医師が部屋から出てきた。
 「ちょっと、待っていてください」と曜子から離れ院内携帯で医師は電話を始めた。専門用語の羅列の中に曜子の氏名が時折聞こえ、おぼろげながら内容が曜子にもわかった。
 「すいません。今、確認しました。担当医として、確認不足だったことを謝ります。あなたから摘出されたガン組織はすでに廃棄されていました」
 「そうですか。それはいつですか?」
 「昨日の事だそうです。それまでは、この部屋に確かにありました。それは私が保証します」
 医師に連れられ、再び地上階へ戻ると、曜子は丁寧に礼を伝え、病院を出た。既に陽が傾きかけていた。正門を抜けるとバス停までの道に様々な商店が立ち並んでいた。八百屋の前で曜子は足を止めた。並べられた果実の中に柚子を見つけたのだった。八百屋の店主が曜子に声をかけた。
 「柚子湯でもいかがですか」
 それで曜子はその日が冬至であることを知った。曜子は柚子を三つ買い、バスに乗り込んだ。
 父の死以来、時節や暦のようなものを意識しなかったことをなぜか恥かしく思った。予見する未来よりも、規則ただしくやってくる折々の節気の方がどれだけ確かかわからない、曜子は柚子の香りを嗅ぎながら、そう思った。


(つづく)



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