連載小説 新


    11

 「わかれてなにがあったか聞くなんて、最低で馬鹿らしいことだ。やめとこう」
 「なにがあったかなんて、言わない。結果だけ、教えてあげるわ。私、未来が見えるようになったの。それで、占い師になった。というか、自ら望んだことじゃなくて、ある人がそうしろと言ったから、そうしただけだけど。とにかく、占い師になって、何人もの未来を見てあげた。未来を見てほしいって人間に、お茶を濁すことなんてできなかった。だから本当のことを教えてあげた。この先、こんな未来があなたを待っていますよって」
 思わず笑い声がスバルから漏れた。ばかばかしくて、さも聞くに堪えない話だと言わんばかりに、首を振った。
 「僕が一番気に入らない類の話だね。占いなんて非論理の極みだよ。弱い人間が、弱い人間を搾取するときの常套手段だよ。君を巫女に仕立てた人間は誰だい。僕はそいつに意見したいね。いわば、君は被害者だ。そんな連中とは、早く手を切ることをお勧めするね」
 「心配しないで、もう関わろうにも関われないんだから。でも、確かに、予知は起こるの。抵抗したって無駄なの。私だって、したくない」
 「君は、知らない間に、おかしな人間になったみたいだな」
 自分の思考の範疇に収まらないものを、それがとるに足らないものだからだという理由で昔からスバルは切り捨て続けてきた。大方それは正しかった。けれど、今ここで行われようとしている、スバルから曜子への断罪は、おそらく彼がする初めての間違った行いだ。曜子は、二重の意味で彼に断罪されたくはなかった。一つは、自分をとるに足らないものとされないために、もう一つは彼に間違った行いをしたという汚点をつけさせないために、曜子はスバルにとっておかしな人間になるわけにはいかなかった。
 「スバル、あなたにはわからないことが沢山ある。そして、それは、ここに来る人間とまったく違わない。だから、他人に、わからないことがあれば自分に聞けなんて言うことは、ひどく傲慢で幼稚。だから、お客さんも来ない。だって、そうでしょ。目の前で、そんなに違わない人間に、やけに物知り顔されてみてよ、居心地が悪いわ」
 「誤解してるね。わからないことは沢山ある。けれど、比較の問題だよ。僕には君たちよりもわかることがたくさんあるって言ってるだけだ」
 「そんなことない。私は、スバルにわからないことを沢山わかってる」
 「だから、それは、非論理的で、証拠がない」
 「証明できることだけが、本当のことじゃない」
 言ってから、思いもよらず語気が荒いことに気づいた。もうあとには引けない、今、スバルの目の前で、未来を予知する以外方法はないと曜子は自分を追い詰めた。今日は、その予知が、強制的に巫女にしたてあげられた女のたわごとに終わったとしても、できるだけ近い未来に彼に起こることを、今日この場で宣託するべきだと思った。そうすれば、来るべき時にそれが真実だったとスバルに対して、証明できるはずだ。非論理の勝利を目の当たりにすれば、スバルの気持ちに変化が生まれるかもしれない。カウンターの内側にスバルと二人で立ち、『アイス』を盛り立てていく未来にも、自信が持てるかもしれない。そう思っていると、スバルは、「その一杯はおごるよ。今日は、もう帰った方がいい」と、そっとグラスを下げた。
 「帰るわけにはいかないの。私、この場で、あなたの未来を占うわ。いや、占うんじゃない。本当に起こる、未来の出来事をあなたに教えてあげる」
 スバルは、それ以上取り合いたくないとばかりに音楽をかけ、ボリュームを上げた。重々しく壮大な管楽器の音が鳴り響いた。そのドラマチックな交響曲に負けぬよう目を閉じ、曜子はへその下に力を入れた。未来永劫自分が子供をもうけることはないが、もしお産をするならこんな感じだろうかと曜子は思った。いきむと、下腹部に熱さが宿り、ないはずの子宮が痛み始めるのだった。それと同時にスバルについて思いを巡らした。それが何人もの未来を占う間に身につけたコツだった。
 フルートと弦楽器の掛け合いに調子を狂わされたのか、それともどこかに見落としがあったのか、なかなか痛みの兆しが見当たらずにいた。スバルは横を向いて、顔を伏せたまま目を閉じているだけの曜子を疎ましく思うだけで、追い出すわけにもいかず居心地の悪さだけを感じていた。
 「もう、やめろよ」
 スバルは、まるで追いつめられたみたいに言った。だが、曜子は無心で集中した。だがどうしたことか、あれだけ拒んでもはりついて離れなかった幻肢痛は、その予感さえやって来る気配がなかった。はしかみたいなものだ、しばらくしたら、予知は可能になると自分に言い聞かせながら、痛みをはらめないまま、曜子は顔をあげた。扉が開く音が聞こえたのだった。
 「チャイコフスキーですか、表まで丸聞こえですよ。まあ、ここらで聞くのもおつなものですがね」
 曜子の胸が裏返った。それは曜子が最後に占いをした男だった。自分への占いを最後に、曜子の占いを禁じ、そう遠くない未来に殺人教唆とあまたある余罪で収監されるはずの男は、この界隈にいくらでもあるバーの中から、わざわざ『アイス』を選び、スバルに促されるまでもなく悠然とカウンターの左隅へ腰を落ち着かせた。
 「少し、ボリュームを絞りませんか」
 音楽にかろうじて負けないくらいの声の大きさで男は言った。
 「うまい酒を出すと聞きました。しかし、さすがにどんな美味い酒でも、この迫力には負けてしまいませんか」
 スバルは男の言葉をもっともだと思ったのだろうか、少々恥じ入りながら、男の言う通りにボリュームを絞った。満足したように、にっこりと笑み、そのまま曜子に向って会釈をすると、スバルが曜子を見た。それはカウンターに同席した者同士が交わす単なる社交辞令にも見えたし、既に顔見知りの者同士の親密な視線のやり取りにも見え、スバルを混乱させた。
 「スコッチでもいただきましょうか。銘柄はお任せします。ああ、チャイコフスキーを聞きながら飲むなら、ウォッカの方がいいかな」
 「ストリチナヤでいいですか」
 と、冷凍庫からボトルを出しショットグラスに注ごうとすると男は、「いや、ロックにしてもらえますか」と、制した。
 「それに、水もください。今日はあまり酔いたくもないので」
 曜子にぐずぐずしている暇はなかった。懸命にスバルの未来について集中し、痛みを引き起こそうと必死になった。カウンターの端に額がつくほど前に屈み、丸まった姿勢でいきんだ。スバルはそんな曜子に触れたくないらしく、ただ氷の入ったグラスに注ぐだけの酒を注意深く作りあげ、男の前に出した。男は、ウォッカを口いっぱいに注ぎ込むと、苦しげに喉に流し込み、曜子の方に指を向けながら、
 「大丈夫ですか、彼女。苦しそうですが」と、スバルに言った。
 「いいんですよ、ほっておけば」
 「それは、また無慈悲なことを言いますね。バーテンダーなら、客の体調まで気にしないと。彼女を助けてあげた方がいい」
 そういって男が立ちあがると、
 「本当にいいんです。彼女は体調を崩してるわけじゃないんですから。ただ自らすすんでああやっているだけです。すこしお見苦しいですが、すぐに退店していただきますから、ひとまず耐えてお酒を楽しんで行ってください」と、スバルは男を気遣うように言った。
 「立ち入った物言いですが、お知り合いですか?」
 「昔の友人です」
 「なるほど、しかし、じゃあ、なおさら、止めさせた方がよくありませんか。彼女のためにも、あなたのためにも、よくないような気がします」
 二人の会話に、なにか釘を刺そうと思ったができなかった。それほど、まったく痛みがやってこないことに愕然としていた。スバルは、男の言葉の真意を知らない。曜子は自分と男の間柄に関わらない方がスバルのためだということはわかっていた。だが、そんなことよりも、曜子はスバルに未来をどうしても伝えたかった。
 男は業を煮やした感じで立ち上がり、スバルが「ああ、お客さん」と言う間もなく、曜子の背後から手を回した。
 「女性が苦しんでいるのを、放ってはおけないたちでしてね。大丈夫ですか、なにをしているか、私にはわかりませんが、自分を追いつめるのはよくないですよ」
 弾かれたように曜子は男の体をはねのけた。
 「やめて、触らないで」
 スバルは溜りかねてカウンターから出て来て、暴れる曜子を捕えようとしたが、逆に男にそれを制された。男は素早く動き、曜子の背後から右肩と首に両腕を巻きつけ曜子を拘束すると、「忘れたか?」と曜子の右耳につぶやいた。あっけに取られ、たたずむだけのスバルの真上のスピーカーから、チャイコフスキーの交響曲が流れていた。「忘れたか?」と尋ねられた曜子は声が出せなかった。男は、締め上げる両腕に、かろうじて首を振るだけの余地しか残さないよう力を込めていた。曜子は首を振った。
 「そうだろう。だが、なにをしようとしていた」
 男は、少し喋られるだけ腕の力を弱めた。
 すると曜子は、動く方の左腕を大きく上に掲げ、それを下腹部に向け振り下ろした。拳がへそ辺りに当たり、鈍い振動が男の体に伝わった。もう一度、振り上げ、曜子は子宮摘出手術で出来た傷の上辺りを叩いた。低い音が今度はスバルの耳にも届いた。
 「痛まないの。どうして? スバルに、あなたのルールは間違ってるって、分かってもらいたいのに。どうしてかわからないけど、痛くならないの」
 「どういうことだ」
 男は聞いた。
 「予知は、痛みが起きるからできてた。でも、もう、痛みがない。私の子宮が痛まない」
 そう言いながら、何度も曜子は腹を殴った。男は左腕を解き、曜子の左手首を持って、それを止めた。
 「もう、予知はできないってことか」
 「わからない」
 「わかることだけ、説明しろ」
 「きっと、もう出来ない。そう感じる」
 男は曜子に絡めていた腕を解いた。そうして、あせった様子で財布から金を出しカウンターに置くと、スバルを睨んだ。
 「今日のことは忘れろ。いいな」
 スバルは、なんとか頷いてみせた。男が憔悴しきった曜子を脇に抱え、店を出て行くと、スバルは呆然とステレオのスイッチを切った。するとウソのように静まり返った店内に、自分だけが取り残された。この数週間、客がいないことの方が多かった『アイス』に一人きりでいることは珍しくなかったし、それをなんとも思わなかったが、無性に淋しさに襲われ、スバルは男が残した半分残っているストリチナヤを一気に飲んだ。熱さが食道を伝い腹に落ちるころ、やはりこのウォッカはロシア農民が好んで飲む安酒だと思った。


(つづく)



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