連載小説 新


    10

 明くる朝を迎え、一日を淡々と過ごし、長い風呂に入ってまた次の日を迎えた。曜子はもう『アトリエ』へは向かわなかった。痛みのコントロールをどうにか出来ないものかと考えていたが、ありもしない子宮は曜子の考えに関係なく痛んだ。そのたびごとに、どこかの誰かの未来が幻となって現れた。何者かの未来を見ようと望めば、その何者かの未来が見えるが、望まなければただ痛みがやってきて、むやみで無作為な誰かの未来を曜子は見なければならないらしかった。自分の未来を積極的に見たいとは思わなかった分ましだったが、見知らぬ誰かが蜂に刺され病院へ行かねばならなかったり、生まれたばかりの赤ん坊に不治の病が見つかったり、学校給食で集団食中毒が起こったり、そんな不幸な未来ばかりが予兆もなく眼前に現れることは曜子を甚だ消耗させた。見張り塔からずっと眼下を見下ろし、そこから人々の未来をチェックしているかのようだった。その塔には階段はなかった。高い高い塔だった。世界の大半を見渡せるような高さだった。曜子はチェックした未来を誰にも伝えられないし、そこから永遠に降りられもしない。なんのために、誰がその塔を建てたかわからなかった。誰もが見張り塔を疎んじているはずだった。未来を知りたい欲望は誰にでもあり、それでいて、未来を知ることは脅威に繋がると人々は知っているのではないか。だが、誰も見張り塔を破壊しようとはしなかった。代わりに見張りを一人立て、永遠に降りられないようにしよう、人々の動向は見張り一人に押しつけて、それで済んだことにしよう、そっと梯子を外しておくだけで、我々は未来を未来の中に留めておくことができる。曜子はその人身御供のようだった。
 スバルがそんなことを聞いたら、こう一蹴するだろう。
 「論理的じゃないね」
 そうだ、論理的ではない。原因も結果も、なにもかも繋がりなく、てんでばらばらなのだ。そして、それがすべて同時に起こっている。おおよそ論理には回収できない。スバルはそれを笑うだろう。「論理で太刀打ちできなければ、信じることさえできないじゃないか、だから、それは虚無だよ。信じても、信じなくてもいい類のものだ。たとえそこに痛みがあっても、それを信じなければ、いいだけの話だ」
 そうであれば曜子も救われる。だが、確かにあるこの痛みを自分はどう感じればいいのだろうか。曜子は今までスバルの未来を見ようと思わなかったことに気づいた。曜子は下腹部に力を溜めた。スバルの未来というものに集中した。痛みはやってきた。開店後の『アイス』が見えた。椅子が並べられ、客が数人座って、おもいおもいの酒を傾けていた。カウンターにはスバルの他にもう一人立っていた。それは曜子自身だった。スバルの仕事を手伝いながら、グラスを洗い、拭いていた。なんということはない、静かな時間の流れの中で、二人はバーを営み、一日を終え、扉に鍵をかけて帰路についた。そこで幻は終わった。その未来がどれくらいの後訪れるか、曜子の予見ではいつも分らなかったが、おそらく、二人の仕草や表情から、遠い未来ではないように思った。下腹部の痛みが引け、曜子は少し呆れた。期せずしてスバルの未来に自分が含まれていることを喜んでしまう自分に腹が立った。ムギの話を聞いた後、曜子は胸がずっとむかついていた。スバルをそのような人間だと一番理解していたのは曜子のはずだが、改めて二人以外の他人からスバルに対する嫌悪感を突きつけられると、歯がゆい思いがするのだった。それはまだ自分自身がスバルになにか影響を及ぼせると思っているからに違いないと曜子は思った。
 曜子は出かける支度をした。『アトリエ』のある裏街へではなく、『アイス』のある表通りへ行くために曜子は家を出た。
 人波の中を曜子は歩いた。本格的な寒さが始まっていた。年末をひかえた人々の足取りは浮かれている様子だった。駅からかつて通ったビジネススクールへの道を、遠回りせず、最短の距離で進んだ。その途中のビルの二階に『アイス』はあった。大通りの角を曲がり少し行くと、不意に曜子は、ビルとビルの間の細い隙間に窮屈そうに手をかけ今にもうずくまりそうな髪の長い女を見た。誰にも気がつかれず、息苦しそうに呼吸を整えるその女を助けようと曜子は咄嗟に声をかけた。
 「どうしました」
 「いえ、大丈夫、予定はまだ先だもの」と一人合点する女の前に廻ると、彼女が身重なことがわかった。曜子が背中に手をあてると、女はふうっと長く息をつき、心を落ち着かせた。腹の大きさから妊娠後期であることがわかった。
 「大事になるといけませんよ」
 曜子が言うと、女はにっこり笑って、「ありがとう。でも本当に大丈夫。この子がそう言ってる。まだ出てきたくないみたい」
 曜子が一瞬眉をひそめたことを女は見ていたようだ。
 「おかしいでしょ。でも、あなたもそのときがきたら、わかるわよ。何ヶ月も一緒に過ごしてると、お腹の子のことくらいわかるようになるものよ」
 「そんなものですか」
 「ええ、だから、心配しないで」
 自分のことも、そして曜子の未来についても心配するなと女が言ってくれているようで、曜子はなんとなく安心した。あいにく、自分がお腹に子供を宿すことはないと伝えようと思ったがやめた。それこそ、目の前のお腹の子が心配するかもしれなかった。
 それまで脂汗をかいていた女は嘘のようにけろっとして、曜子と反対側へ歩き出した。荷物を抱えているような足取りだが、決して重さは感じなかった。
 しばらく歩くと曜子はアルファベットで『ice』と書かれた木製の看板を見つけた。吊り下げられた看板の下をくぐり、階段を上るとうっすらと音楽が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのあるピアノとバイオリンと管楽器の曲だった。大きなガラスが嵌った木枠の引き戸の脇に控えめに『bar ice』とあった。把手に手をかけ、横に引くと扉は想像していたよりも軽く開いた。その瞬間、オーケストラがそこにいるかと聞き紛うばかりの音が曜子を圧した。客はいなかった。その代わりに数台の巨大なスピーカーから叙情的な音楽が鳴り響いていた。壮大に弦楽器とピアノが高鳴り、スバルが曜子に気づくと、音楽は終わった。
 「いらっしゃい、どうぞ」と、カウンターの中でスバルは言った。カウンターをかざすライトの傘にかざされ、スバルの表情は薄暗がりに落ちていた。バーテンダーの存在感を極力抑える工夫かもしれなかったが、逆に暗闇に存在する幽霊のように、存在感は増していた。
 曜子はカウンターの中心からずれて、右から二番目の椅子に腰かけた。その椅子の座面が少々つるつるしすぎているようで、曜子は長くこの椅子に腰かけ続けられるか不安になった。
 「これが、ファネットチェア?」
 スバルは首をかしげ、すぐに思い出したように笑った。
 「ああ、そうだった。そんな話もしたね。あれが最後の会話だったものな。違うんだ。その椅子は、ただの何でもない椅子だよ。ファネットチェアはね、間に合わなかったんだ。リプロダクトのものもあったんだけど、それじゃ意味がないしね。開店するのに、椅子のないバーなんておかしいだろ。だから、ひとまず間に合わせるために、中古家具店で見繕ったものさ。けどね、あなどってたけど、なかなかいいのさ、こんな椅子も。客だって、それで満足してる。というか、椅子に拘泥する客は、ひとまず今までだれ一人いなかったんだからね。それに、僕が座るわけじゃない」
 「そうなんだ」
 スバルは手際よくトールグラスに見た事のないボトルから酒を注ぎ、曜子にはよくわからない液体を足した。最後にレモンをグラスのふちにくるりと塗りつけると、陶器製のコースターを曜子の前に置き、その上にカクテルを乗せた。曜子はひとくちだけ口に含んだ。まず舌先がグラスのふちに触れ、さわやかな酸味が拡がり、続いて注がれるカクテルは、味わったことのない果実のジュースだった。アルコールをかすかに感じた。おそらく口当たりの良さに飲み続ければ、三杯ほどで酔ってしまうのだろうが、それほどの重さは感じなかった。
 「わからないから聞くわ。これはなに?」
 「ただフランボワーズリキュールにオレンジジュースを混ぜただけだよ」
 「それだけ」
 「それだけでもないけどね。フランボワーズは、マスネのオードヴィ。オレンジジュースは、毎日生のオレンジを絞ってる。っていうか、大学の連中の誰かに会ったんだね」
 次の言葉を続ける前に、もう一度目の前のカクテルを飲んでみた。曜子は、それを『アトリエ』のマスターが作る酒とはなにかが違うと感じていた。経験や所作ではない、経験に対して『アトリエ』のマスターに引けを取らない技術をスバルは持ち合わせていると保証できた。たぶん、それは、思いやりとか、そんな曜子でも幼稚だと感じるような、使い古されてぼろぼろな言葉で説明できるなにかだと思った。風邪を引いた客が来たら、『アトリエ』のマスターは、彼に見合った酒をつくるだろう、スバルは風邪を引いた客に出す酒はないと、丁重にお引き取り願うかもしれない、どちらにもそれなりの思いやりがある。だが、スバルのそれは、少々厳しい。
 「ムギに会ったの。偶然ね。その時、事の次第を聞いた」
 空になったグラスを見て、他に何か飲むかと、スバルは聞いた。曜子は、「まだいい」と答えた。
 今の曜子には、カウンターを挟んだ向こう側にスバルと共に立つという未来が来るとは、どうしても信じられなかった。それほど、今のスバルを曜子は嫌悪していた。けれど、来るべき決定している未来のために、自分はなんとかスバルへの嫌悪を消さねばならないと焦った。どのみち、必然の未来が自分を待っているのだから、現在にどうあらがっても仕方のないことなのだが、曜子は納得してみたかった。納得した上で、スバルと並んでカウンターの中に立ちたかった。
 「傲慢だよね。わからないことは、自分に聞けって。ちょっと聞いただけではわからないけど、本当はすごく傲慢、傲慢でいやらしい」
 「バーテンダーは、いつも正しい。知ってるかな、この言葉。誰が言い出したかわからないけど、ずっと長い間、バーで使われてきたルールだよ。半分冗談さ。けど、半分は本気だよ。バーでは、立っている人間が一人だけいる。バーテンダーさ、彼には傲慢さが与えられても、僕はなんら差し支えないと思うね」
 「けど、お客さんが来ないバーなんて、お笑いにもならないわよ」
 「おもねってまで、来てくれとは思わないね」
 「強がりだね」
 「本心なんだよ。おいしい酒がありさえすれば、客は来る。今はわからないだけだ。いずれ客は気づく。ここでしか飲めない酒が、ここにはあるって」
 「そのここでしか飲めない酒を、誰も求めてないとしたら? 人間は、本心から本当においしいものをいつも求めてないという可能性はない? おざなりで、やすっぽいお酒に酔うことが最良だとしたら?」
 「それを、曜子はわかっているのかい? 本当に人間は、曜子の言う通りのものを求めていると、どうしてわかる? ここでは、わからないことは、僕に聞いてほしいと、言っている。不確定なことで、議論することは禁じられているって、ムギに聞かなかったかい?」
 「不確定なことが大切なんだって、今の私はすごく思う」
 思い改まり、スバルは口をつぐんだ。不毛な議論に自ら参加していると気づいたのかもしれなかった。
 「少し、失望した。君のペースに乗って、喋ってる自分にも。君がそんなにいろいろなことを思い切って口にしてしまうようになったことも」
 「私に意見されることが、腹立たしい?」
 「君は、いつも、心の中でしか、僕に本当のことを言わなかっただろ。だから、僕は、いつも君に意見を求めたんだよ。本当のことを言おうとして的外れなことを言うやつばかりだよ、それよりか、君はかなりましさ。本当は、よく思ってない、でも、どうしてよくないかわからない、だからひとまず良いと言っておこう、そんなふうに考える君は、君が思ってるよりも、ずいぶん素敵なことだ。物知り顔で、知ったふうな口を聞く連中より何倍もね」
 「でも、わたし、そういう人間じゃなくなったの。スバルと別れてから。率直で、抜き差しならない、本当のことを求められ続けたの」
 「それが、かけがえがなくて、間違いじゃない本当のことなら、いいじゃないか。というか、曜子も、そんな正解を導けるようになったんだね、どうやって? そんな短い間に」
 そう言って、すぐにスバルは「いや、やめよう」と、打ち消した。


(つづく)



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