連載小説 新


     9

 仲間の一人が誕生日を迎えた夜、ムギ達は彼を祝うために『アイス』に集った。スバルは酒や料理を待たせぬよう手際よく注文をさばき、ムギ達はスバルが作る酒を片っ端から平らげた。酒がまわるにしたがって、誰もかれもが、大声となり、『アイス』は笑い声と嬌声で満たされた。スバルは時折なにか喋ったが、いつも一定の音量を保とうとするその声は誰にも届かなかった。
 ムギから少し離れた席で、その日誕生日を迎えた友人がみんなにからかわれ始めていた。些細なことだ。久しぶりに出来た恋人の器量が悪いやら、勤めている会社の評判が悪いやら、話が長いやら、挙句の果てには大学時代の恋愛まで持ち出され、彼がいかに女子に不人気だったかを披露され、皆が彼を笑った。彼らなりの祝福だったし、酔っていなければその日の主人公である彼も一緒に楽しめたかもしれない。だが、その日の彼は少し虫の居所が悪かった。一緒に笑っていたかと思うと、次の瞬間、彼は隣に座る友人の肩を押した。冗談ではなく、本気で力をこめて彼は突きとばしたのだった。押された友人は、壁に身体をぶつけ椅子から転げ落ちた。不穏な音が店内に響き、一瞬誰もかれもが口をつぐんだ。すると、誕生日を迎えた彼が口を開いた。
 「うんざりなんだよ。子供のころからそうだよ。からかわれても、笑ってれば、皆が喜ぶから、そうしてただけで、俺はこんなのちっとも面白くないんだ。面白くないどころか、うんざりなんだよ、うんざりで、むかついて、むかむかして、友達づらしてるのがやっとなんだよ。楽しませてくれよ、今日くらい、褒めてくれよ、馬鹿にするなよ、今日くらい」
 そうして、カウンターに突っ伏した。
 起きあがった友人は、それでもまったく彼を許す気はないようだった。立ちあがると、襟首をつかんで引き起こし、誕生日の彼の顔ぎりぎりまで自分の顔を近づけて罵った。
 「てめえごときになんで俺が突き飛ばされなきゃなんねえんだよ」
 そう言いながら、何度も肩を小突いた。誰もがどちらの側に味方すればいいかわからず黙ってただ見守っていると、やがて罵る言葉は薄汚くなり、小突く力も強くなった。みかねて、ムギが後ろから止めた。
 「もういいだろ」というムギの言葉を聞くと、いくぶん冷静さを取り戻したのか、ムギの手を振りほどき、口汚く罵った友人はタバコに火をつけた。とたんに誕生日の彼が顔をゆがめると、しゃくりあげ、声を上げて、泣き始めた。『アイス』は白けきって、立ち上がっていた誰もが、椅子に腰を下ろした。スバル一人だけ、立ったまま、薄い笑みを浮かべていた。
 「君が悪いよ」
 スバルは泣いている彼に向って、静かに口を開いた。店内をあれだけ満たしていた笑い声が収まっていたせいで、それは思ったよりも深く響いた。
 「別に彼を押し倒したことを悪いと言ってるんじゃなくてね。そんなことはどうでもいいんだよ。それより、君が笑い続けなかったことを悪いと言ってるんだよ。だって、そうだろ? 本当のことだもの、君の恋人の器量が悪いのも、君があらゆることにおいて出来損ないなのも、女の子から人気がないのも、すべてほんとだよ。それを笑われるのは、全然うんざりすることじゃない。そこで、君が出来ることは、一緒に笑うことだけだよ。友達づらできないんだったら、友達なんかできないよ、君は。友達が友達でいてくれる状態をありがたいと思わなきゃ」
 その言葉はやけにムギの癇に障った。思わず声を出してしまった。
 「スバル、その言いまわしなんとかならないかよ」
 「ならないよ。他にベストな言い回しなんかないから」
 酔いが友人たちのスバルに対する嫌悪感を更に増長させた。だが、口答えする気は誰にも起きなかった。いかに言い返しても、同じ調子でぐうの音も出ないように、やり込められることは目に見えていた。
 「あと、皆に言っておくけど、たった今から、このバーに、ルールを作ろうと思うんだ。簡単だから、ちゃんと、覚えてください。『もし、わからないことがあったら、バーテンダーに聞いてください』」
 一同は、それを聞いても、すぐには意味がわからなかった。
 「どういうことだよ」と、ムギが聞いた。
 「そういうこと。わからないことがあったら、バーテンダーに聞くってのはまさにそういうことだよ」
 「正解は、すべて、お前にあるってことだな?」
 「ムギ、もうルール違反するつもり? わからないことをあてずっぽうで言っちゃだめって言ってるんだよ。違うんだよ、正解は、僕の中にあるんじゃない。正解は、至るところにあるんだよ。真実と言ってもいいかな。真実は善とか悪や好むと好まざるに関わらず、存在するんだよ。それに至っていない未熟な状態なら、ひとまず僕に聞いてほしいと言ってる」
 「俺らが未熟だって言ってるつもりか?」
 「いいね、ルールがわかってきたね。つもりか?ってバーテンダーに聞いてるんだね。そう、未熟なところがあるね」
 そう言われると、ムギの右手が震えた。怒りを感じるとムギは身体が震えるのだった。そんなムギの癖をスバルは大学生のころから知っていた。
 「どうして怒りを感じなきゃなんないかわからないね。わからないことがある未熟な状態でいることを選んだのは自分だろ。あ、なるほど、自分が歯がゆくて怒りを感じるわけか」
 やがてばかばかしくなって、ムギは怒りを感じることさえなくなった。力をこめた右手を解き、カウンターに手の平を乗せた。銅製のマグカップに入った琥珀色の冷えたモスコミュールが手の先にあった。自家製のジンジャービアで作られたそのカクテルは、1940年代に生まれたオリジナルのモスコミュールを可能な限り再現していた。確かに、スバルが作るそれは感動するほど美味だった。だがなぜかムギは日を改めて、またそれを飲みたいと思わなかった。モスコミュールに正解があるとすれば、正しく目の前にあるそれかもしれない。だが、他のモスコミュールが決定的に劣っていて、目の前のそれが決定的に優れているとはどうしても思えなかった。
 「わからないのに、わかったふりをしたり、賢くもないのに、賢いふりをするから、今のようないさかいが起きるんだよ。正解は、ただ、笑ってればよかったものを、仕方のない自尊心を保ちたいばっかりに、真実から遠ざかって、関係や雰囲気を台無しにする。それが、災いの元なんだよ。いいさ、外で、自分の会社で、恋人同士で、どれだけ間違った行いをして厄介事が増えようとかまやしないよ。でも、少なくとも、このバーにはふさわしくない。だからこそのルールさ」
 「わかったよ。感情的には、わかりたくないけど、理性的に理解した。お前は、このバーにバカが来てほしくないんだな?」
 そのムギの言葉をスバルはしばらく吟味した。やがて、スバルはにっこりと笑って、こう答えた。
 「ルールを守るバカなら大歓迎だよ」
 それから、仲間たちは、目の前の一杯を飲み干し、一人また一人と帰って行った。まるで腹立ち紛れに帰るのが敗北だと言わんばかりに、わざと冷静に時間をかけて。そのおかげで、その日の『アイス』は、スバルの望む静かで穏便な、真摯に酒と向き合うバーとして一日を終えた。
 ムギは最後の一人になるまでバーに残っていた。名残惜しいわけではなかったが、しばらくスバルの顔を見ることもないだろうと思うと、その日感じた決定的な違和感がどんなものだったのかを反芻しながらスバルを観察してみたい気になった。
 「あいつ、ルールとかなんとか言いだす前とまるで変わらない表情で、みんなが飲み終わったグラスを洗ったり、拭いたりしてたよ」
 曜子の隣で、ムギは言った。
 「それでわかったんだ。スバルは俺たちにないものを沢山持ってる代わりに、俺達がひとしく全員持って生まれたものが欠けてるんだってな。曜子はさ、ずっとあいつを見てきたんだろ? それで最終的にはあいつと恋人になったじゃないか。わかってたんじゃないか、そういうこと」
 「それってなに?」
 「なにが」
 「持って生まれたもの、スバルにないもの」
 「ああ、なんていうんだろうな。憐れみ、いや、共感とか、同情とか、そう言った類のもんさ、うまく言えないけど」
 「なるほどね、はっきり言って驚きだわ。みんなそんなこと始めからわかってるんだと思ってた。スバルと友達になるって、あの人にそういうものがないってことを前提にしてるんだと思ってた。だから、わかってたと言えばわかってたのかな」
 ムギの目じりが赤くなっていた。酔いがまわって、少し舌足らずな喋りで、ムギはその後の『アイス』について少しつけ加えた。
 「俺達、あの後、誰もあの日のスバルの言動について噂したりなんかしなかったんだ。でも、聞くところによるとだ、あの日を境に、ぱったりと客足が遠のいたんだってさ。まあ、知ったこっちゃないけどね。スバルほどの人間でもさ、苦手なものがあったんだな。ほんと、あいつに客商売はむいてないよ」
 「そうか、スバルなら、大丈夫だと思ったのは、私の間違いだったか」
 曜子はカウンターにその日の代金を置いた。ムギは気づいたように、その金を曜子へと戻し、倍の金を出した。すると、カウンターの反対側に座っている二人の客の相手をしていたバーテンダーがそっとやってきて「今日は、私におごらせてください」と金をムギの方へと戻した。
 「でも、俺、だいぶ飲んじゃったし、払います」
 「いいんですよ、ずっと曜子さんにはお世話になっていましたし、ムギさんも、今日は初めていらしてくれたことですし。これに懲りず、またいらしてください」
 バーテンダーの、物腰が柔らかく、それでいて拒否させない物言いに、思わずムギは「はい」と言って、金を受け取った。
 「しかし、どうして『アイス』なんて名前にしたんだろう。あのさ、曜子のこと、冷たいって言ったのは謝るよ。冷たいのはあのバーだ」
 二人は席を立った。曜子が扉のノブに手をかけると、バーテンダーと楽しげに談笑していた二人の客の頬のこけた小柄な男と目があった。会釈をしたような感じがし、同時に、二日前、曜子に占いを禁じたあの不穏な男の未来の一幕について思い出した。へまをしでかした部下を顔色一つ変えずバスタブに連れて行き、生きたまま溶かした二人組のうちの一人だということに気づいたのだった。背筋に冷たい物が走り、曜子は急ぎ足でバーを出た。
 「どうかした?」と、すぐにムギは曜子の様子に気づいた。
 「なんでもない」
 「気分でも悪いんじゃないか、結構飲んでたし」
 「そうだね、久しぶりにあんなに飲んだ。でも、大丈夫。まっすぐ歩けてるし」と、裏街を走る一方通行道路の路肩に敷かれた白線の上を注意深くまっすぐ歩いて見せた。
 「ならいいけど」
 ムギは言った。
 「曜子さ、スバルと別れて、なにしてたんだよ」
 立ち止まり、曜子は自分の身に起きた様々なことを思い出した。そういえば、スバルと別れて以来、誰かにそんな風に聞かれたことがなかったことも思い出した。
 「お父さんが死んで、お母さんも死んで、子宮にガンが出来て、子宮をなくしたの。そのおかげで、元の仕事は辞めて、別の仕事が見つかった。でも、その仕事も、また辞めなくちゃならないんだけど」
 「なんだよ、それ。大変じゃないか」
 「大変だったよ、でも、次から次へといろんなことが起こったから、悲しいって思うタイミングがなくて、それはそれでよかったかな」
 「そうか」
 少し考えて、ムギは、「俺に出来ることがあったらなんでも言ってくれよ」と情けない顔をした。それが友達に対する定型句だとしても、曜子には少し嬉しかった。


(つづく)



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