連載小説 新


     8

 『アトリエ』にはもう来る必要がない、というか、来てはならなかったが、曜子は昨日までと同じようにボックス席に収まった。客が二人、カウンターに座り、酒を飲みながらマスターと言葉を交わしていた。会話が一段落すると、マスターがその場を離れ、曜子に近づいた。
 「お一人なら、カウンターで飲みませんか」
 穏やかだが拒否させない口調だった。曜子はボックス席を出た。
 ふと、あの男が曜子が占いをしたといかに知るのか気になった。まさか四六時中曜子を見張っているわけにもいかないだろう。それともこの街の人間全員にあの男の息がかかっているとでもいうのだろうか。もし誰かのことを占ってみたらと曜子は思ったが、すぐに男が「わたしたちに関わらせたくはない」と言った時の表情を思い出した。方法は問わないが、とにかく自分は曜子の行動が手にとるようにわかるのだから無理はするなと心底案じている様子だった。その点だけは信じてもよさそうだと曜子は思った。どんなことをしても、曜子が占いをすればあの男に知れるのだろう。
 曜子がカウンターに座ると、マスターは酒を出した。マスターはなにも言わなかったが、占いをしないのだから、飲んでも差し支えがないだろうとでも言いたげだった。曜子が占いをしないようにというマスターの気づかいかもしれなかった。
 ショートグラスに入ったエメラルドグリーンのカクテルだった。グラスの底に赤い何かが沈んでいた。曜子は、その底に沈む赤がなにか確かめるために、思わずそのカクテルを飲み干した。それはチェリーだった。グラスを傾け、口に飛び込むチェリーを噛むと、子供の頃のことが思い出された。父は曜子を連れ、よくデパートへ行ったのだった。屋上の喫茶店に入り、きまって父はコーヒーを頼み、曜子にはアイスクリームを浮かべたメロンソーダを頼んでくれた。今食べたチェリーは、そのアイスクリームの頂点に添えられたチェリーの味に似ていた。違うのは、父と食べたそれは少しクリームの味が強く、今のそれは、少しミントの香りがすることだった。
 予知能力が備わってから曜子はあまり過去を思い出さなかったことに気づいた。本来ならもう少し父と母との記憶を思い出してもよさそうだった。けれど曜子は未来ばかり見てきた。
 「これ、おいしいですね」
 「それはよかったです。アラウンド・ザ・ワールドという名前がついてます」
 「そうなんだ、このチェリーが特に」
 「なんか、駄菓子みたいでしょ、このカクテルには不思議と合うんですよね」
 これからも予知は続くだろうと曜子は思った。そして、それを曜子は誰にも伝えることなく、自分の中だけに沈めておかねばならない。けれど、それとは別に、もう少し過去を思い出してやってもいいと思った。思い出すことも、なにか意味があるはずだ。曜子は、マスターに、もう一杯、アラウンド・ザ・ワールドをつくってもらうよう頼んだ。
 二杯目を飲み干すと扉が開いた。「いいですか」と、マスターの顔をうかがいながら、おどおどした男が入口付近にたたずんでいた。まだ新品の皮鞄を手に持ち、やけに気どったスーツで、髪も今しがた手入れしたばかりかのようにぴっちりと整えられていた。曜子と同じか、もしくは少し年上か、会社にいたら敬遠するタイプの人間だと曜子は視線を空になったグラスに戻した。
 「どうぞ」と、マスターが二人の客と曜子の間の席を男に勧めた。男は、曜子が聞いたことがない名前のウィスキーを頼んだ。どこかで調べてあらかじめこれを頼もうと決めてきたことは見え透いていた。それでもマスターは、「あいにくグレンタレットは置いておりません、代りにと言ってはなんですが、別のハイランドモルトはいかがですか。いまはハイランド・パークの12年があります。きっとお気に召すと思いますよ」と、男の顔を潰さぬようボトルからグラスにウィスキーを注いだ。
 重々しいグラスに注がれたウィスキーを一口舐めると男は肩の力を抜いたようだった。そして、ようやく視界が広がったのか、左から右へと首を回した。男の視線が曜子に止まった。
 「曜子、だよね」
 名前を呼ばれると曜子は、男と反対側に顔を逸らした。
 「感じが変わったから、一瞬別人かと思ったけど、やっぱり曜子だよ。ほら、ムギだよ、ムギ」
 確かに、その名前は覚えていた。大学入学当初、おかしな名前だと思ったが、しばらく友人の輪の中で過ごすうちに、耳慣れてやがて普通にムギと呼べるようになった。だが、やはり、数年ぶりに聞くとおかしく思えた。
 「ああ、ムギ君か」
 「こんなところ来るの」
 「こんなところって」
 「ここ、ネットとかにものらない店だろ、知ってる人しか来られないみたいな。それに、曜子、一人でバーなんかに来る女っぽくなかったし」
 「いろいろあって、ここに来たってかんじ」
 「いろいろって」
 「話すと長いからいい」
 「スバルといろいろあったってこと」
 「スバルといろいろなんかないよ、ただ付き合うのやめただけ。でも、まあ、発端はそれかな」
 ムギは、マスターに、「同じものをもう一杯」と頼んだ。ハイランドモルトがどんなものか、おそらく彼は分っていないことは明らかだった。曜子にも、それがどんなものかわからなかったが、自分は身の丈に合わない背伸びをしないだけムギよりましだと思った。
 「ようはスバルと別れたから、こんなバーにいるんだな」
 「こんなバーじゃないよ、ここは」
 「いや、悪い意味じゃなくてさ」
 「悪い意味にしか聞こえないよ」
 「わかった、めんどくさいから、もう聞かない。まったく、確かに、スバルの言い分もわかるわ」
 わざと一人合点してみせるムギに調子を合わせることは癪だったが、三杯目のアラウンド・ザ・ワールドが曜子の自制心を緩めた。
 「何があったのって、聞いてもらいたいんでしょ、どうせ。いいよ、スバルと何があったの」
 「別に大したことじゃないけどな、もうあいつのバーがどうなっても、俺達は関与しないってことに決めたんだ」
 めんどくさいのはムギの方だと曜子はいらだった。物欲しそうな言いまわしのくせに、相手をすればしたではぐらかしたくなるらしい。
 「わかった、私、教えてって頼むわ。スバルのバーで何があったの、教えて」
 「曜子さ、冷たいよ。別れても、友達は友達だろ、開店祝いにも来なかったし」 「変じゃない? 開店のお祝いに私が行ったら。それに、スバルには、私がいるとかいないとか関係ないでしょ」
 「スバルはそうだよ、曜子のことなんか、多分微塵も気にしてないよ。でも、そう言うことじゃなくて、あいつってなんていうか、曜子みたいな人間が必要じゃん。本人が必要としてるかしてないかは別にして」
 「どうだろう。そんなのわかんない。でも、とにかく、別に私は冷たくない」
 冷淡に主張したつもりだが、マスターは、いかにもほほえましそうに、別の二人の客を相手にしながら、時折曜子の方を向いた。おそらく父の死以来、陰にこもった表情しか見せていなかったからだろう。マスターは曜子を暗い女だと思っていた。だが、マスターは、今ムギと話ながらじゃれている曜子がもしかしたら本当の彼女なのかもしれないと思いなおしていた。そう思われるのが恥かしくて、曜子は椅子に座り直し威儀を正した。
 「わかった、もういいわ、なにがあったか教えてくれなくても」
 ムギは曜子のその言葉に取り合わなかった。また独り言のように、わざと思わせぶりにため息を吐きながら話し始めた。
 「曜子がいたら、少し、違ってたかもしれないなって思うんだ」
 もう曜子はムギの言うに任せることにした。
 「『アイス』が開店して、俺達は行ける日は顔を出してた。開店してすぐはなにかとにぎわってる感じの方がいいと思ってさ」
 そうしてムギと大学時代の友人たちは、よかれと思いスバルのバーに夜な夜な集まったのだった。スバルのリサーチ通り『アイス』のある通りは夕方を越すととたんに人通りが多くなった。ムギ達が造り出す気さくな雰囲気もあってか、ちらほらと新規の客が出入りするようになり、彼らは月に数度のペースでやってくるリピーターとなった。スバルの作る酒の評判は上々だった。曜子も飲んだことのあるカシスオレンジや、定番のジントニック、モスコミュールなどがそれまで飲んだことのない本物の味で飲めるという評判は口コミで拡がり、開店三ヶ月を過ぎるとちょっとした名店として好評を博すようになった。
 だが、ムギには少しだけ気に食わないことがあった。スバルが出す酒を一口飲むその時、スバルは決まってその飲み方について一言指南した。ウィスキーを飲む時は、一口目にあまり含み過ぎてはいけない、少量を含み、喉に流すと香りが鼻に抜け、本来の味を楽しめるだとか、ジントニックの時は、徐々にライムを絞りつつ、氷が溶けだす前に飲み干すべきカクテルだとか、そんな指南をありがたがる客もいたが、ムギには余分に思えた。客に注文をつける頑固な店主とは違い、スバルの言い方はスマートそのものだった。どうせなら酒を最適なうまさで味わってほしいというスバルなりのアドバイスだった。だが、中にはムギと同じ反応を示す客もいた。ムギは敢えて口に出し、スバルのアドバイスを拒否しなかったが、とある客などは「俺の飲み方で飲ませろ」と息まいた。スバルは一言だけ言い返した。
 「正しいお酒の飲み方をしたくないなら、ご自分の飲み方でどうぞ」
 その客とのやりとりがムギのスバルへの嫌悪感の発端だった。スバルが言うところの、正しくない飲み方でしか酒を飲めない客は、その夜以来、二度とスバルのバーへ足を運ばなくなった。
 「スバルに対する不信感ていうのかな。うすうす皆気づいてたんじゃないか。なにかこう、大事な部分が欠落してるっていうかさ、別にそれが欠けてるからって日常生活には支障がないけど、ぎりぎりのところで、どうしても感じてしまうような類の不信感というかさ」
 少し顔をあげるとペンダントライトの光が直接曜子の瞳に差しこんだ。急に瞳孔が縮み、思わず目を閉じた。何を今さらと曜子は思った。元々スバルはそういう人間だったのではないか、友人たちがそれを理解した上で接していなかったことに少し驚いた。
 三杯目のハイランド・パークをマスターに頼むと、ムギは話を続けた。


(つづく)



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