連載小説 新


     7

 占いの場となった『アトリエ』は、場所を知らねばなかなかたどりつけないような場所にあった。曜子の噂は、無暗に拡がらず、警官の人脈を介し、静かに浸透していった。曜子のもとを訪れる客は人目を嫌う人物ばかりだったから、一見客が来られないようなバーの方がかえって都合がよかった。さらにおあつらえ向きなのは、カウンターの向こうの突き当たりにあるボックス席だった。コーナーを利用してL字形に造られたベロア地のソファが、曜子の定席となった。そこは壁で仕切られていて、カウンターからは死角になっていた。三人がけのそのソファなら、曜子は客と対面しながら話をせずに済んだし、斜めに並んで客の右耳に向って語りかけることが、曜子の言葉にさらに重みを加えることになった。
 曜子の能力を占いと初めて呼んだのはスポーツ選手だった。その時は、軽々し過ぎると少々怒りが湧いたが、うまく説明するのはめんどうで、いつしか曜子もそれを占いと呼ぶようになった。その方が、簡単だし、責任が回避できるような気がした。曜子はいつも占いの始めにこう断りを入れた。
 「あなたの未来に、責任は持てませんが」
 次から次へと来る客の未来を自分一人が背負わなければならないのは、曜子にはいかにも荷が重いのだった。今や、曜子のマネージャーとしての方が本職の給与よりも多くなってしまっている警官がそんな責任を少しでも曜子と分かち合えるとは思えなかった。だから外れることが往々にしてある占いとみなしてもらった方が曜子には気が楽だった。
 だが、曜子の予言通りスポーツ選手が怪我をしたことを皮きりに、とある小学教諭の教え子の自殺、有名政治家の落選など、次々と曜子の言葉が実現していくにつれ、客の方が、曜子との接見を単なる占いとはみなさなくなり始めていた。
 やがて、客たちは曜子を神聖視するとともに、危険視し始めた。良く当たる占いというより、もはや預言者となった曜子の言葉を、自分以外の者が聞くことを恐れ、顧客である有力者たちはお互いに曜子のもとを訪れられないよう牽制し始めたのだった。
 曜子は一日置きに『アトリエ』のボックス席へ通った。占いを始めた当初は、日に三人が上限と曜子に固く決められ、警官は殺到する予約をどう効率的に回すかに苦心しなければならなかった。どの顧客が曜子の噂をいかにも神秘的に流してくれそうか、どの有力者がたくさんの金を生み出しそうかを考えに入れながら、客の順番を決めていった。が、三ヶ月を過ぎると日に二人と客が減り、それ以降は、週に二三人を数えるほどとなった。四ヶ月目を過ぎた頃、曜子の元をある男が訪ねた。その日、斡旋者であるはずの警官は、とうとう姿を現さなかった。
 男は、曜子の隣に腰掛け、「占いをやってくれると聞いたもので」と話し始めた。渋そうに口をぎゅっと締め、歯を食いしばるのが癖なのか、咬筋が盛り上がっていた。短く刈られた髪で白髪は目立たなかった。一見して30代くらいに見えるが、本当は50代かもしれなかった。鷹揚な態度からすぐに責任のある立場に置かれた人間だということはわかったが、男は周到に自分の職業を伏せた。そして、「なにも聞かず、ただ私の未来について教えてほしい」と、彼は曜子にいった。
 「今日はパートナーが不在で、その人がいないと、わたしは」と言いかけた曜子を男がさえぎった。
 「あの警官は、今日は来ないんですよ。気にせず、いつものようにしてくれれば結構ですよ。あの警官もそうおっしゃってましたから」
 何者なのだろうと曜子は思った。しかし曜子が見渡す彼の未来によって、すぐに彼がどんな仕事に就いているか、明らかになった。
 ソファに深くもたれ、下腹部に集中するとすぐに痛みはやってきた。目を閉じ、かつて子宮のあった、今ではぽっかりと空いた体内の穴へ埋没していく感覚が占いに入るコツだった。左横に座る男はすぐに予知のイメージの中に現れた。どこか広い、そして高い場所にある部屋で彼は椅子に腰かけていた。適度に揃えられた調度品が部屋の上品さをあらわしていた。男の前に若い男が立ち尽くしていた。若い男は顔一面に汗をかき、その汗でスーツのジャケットまで濡らしているのがわかった。脈絡はわからなかったが、若い男がなにがしかのミスを犯したらしいのだった。男の顎の筋肉がさらに盛り上がり、「おい」と小さく呼ぶと、あっという間に男につき従う部下が二人、若い男を両隣から挟んだ。
 若い男は謝った。しきりに、無様に謝るのだが、まるで男の耳には届いていないらしかった。男が「後始末は頼んだ」と、慇懃に両側の男たちに声をかけると、低い声で、二人共「はい」と答えた。
 一人が、まず若い男の口に詰め物をしてガムテープでふさいだ。次いで、手際良く服を脱がせると、手足を縛った。もう一人は、なにやら液体が入ったポリタンクを隣の部屋から持ってきて、若い男は、そのまま二人の男に連れられていった。あっと言う間の出来ごとだった。
 残された男はふうっと息をついた。立ちあがり、ゆっくりと扉の方へ向った。隣の部屋で身なりを整え、大きめのカバンを持つと、廊下へ出た。トイレを過ぎ、バスルームに差しかかると物音が聞こえた。少し開きかかった扉から、迅速に行動する時に立つ、抑制された足音と、規則正しい呼吸の音が男の耳に届いた。隙間から男は中の様子をうかがった。バスタブに裸の若い男が寝かされていた。目を見開き、恐怖で息もできずにいるようだった。ポリタンクを持った部下が蓋を空け、液体をバスタブに浸すと、がくがくがくと若い男の体が震えた。それだけ見ると男は、外へ通じる扉を開け、出て行った。
 エレベーターを通り過ぎ、通用口から非常階段に出た。男は長い階段を降りた。延々につづく階段を、一定のスピードで降りて行く男はやがて息が上がった。ふっふっふっと呼吸を整えるが、スピードは緩めなかった。ようやく地上へたどりつき、通用口の扉を開いた。駐車場を抜け、垣根の続く裏の路地に沿って、表通りに出ると、そこに何台ものパトカーが彼を待ち受けていた。彼は、警察官に囲まれても悪びれもせず、恐れもせず、まっすぐ前を向き、彼のために開かられたパトカーのドアの中へ自ら収まった。
 曜子は、男の右耳に向って、「近い将来、あなたの部下の一人がミスを犯します。あなたは、別の部下に、ミスを犯した部下を殺せと命じます。それを見届けると、長い階段を降り、おそらく、逃亡を図るんでしょうか、用心深く表通りに出ますが、そこであなたはおびただしい警察官に逮捕されます」と、未来を教えた。
 男は顔色を変えなかったが、ほんの一瞬目をしばたかせた。
 「そうですか、聞くところによると、他動的な未来と能動的な未来があるそうですね」
 「はい、経験的にですけど」
 「変えられない未来と変えられる未来と受け取っていいんですか」
 「ええ、経験的に」
 「ミスを犯すことと、警察に逮捕されることは、どちらですか」
 「他動的な変えられない未来でしょうね。でも、部下を殺せと命じたのはあなたです。あなたが命じなければ、部下は殺されなくても済むと思います」
 「なるほど、わかりました」
 少しの間、手元のグラスをもてあそび、男はなにか考えている様子だった。丸い氷の表面がウィスキーに溶かされ、よく磨かれたガラスのように光っていた。人間が溶かされてもこうはいかないだろうと、ぼんやり曜子は思った。
 「もうおわかりかもしれませんが、私の仕事はいわゆる普通のものではありません。ですが、そんな仕事を必要としている人間がたくさんいるということは理解していただきたい。それと、これはアドバイスというか、忠告というか、私からのお願いなのですが、明日から、もう占いは止めてください。次に私が会いに来る時まで、おそらく拘禁されつとめを果たした後になるでしょうが、その時まで、占いをしないでほしいということです。私が仮に逮捕され、数年間拘禁されても、いや失礼、確定している未来でしたね、まあ、いずれにしろ、牢屋の中に縛られても、私には力があります。ただ予知能力があるというだけで、ごくごく一般的な市民であるあなたをできれば私たちに関わらせたくはありません。だから、無理して、占いを続けないでいただきたい。今日の私の本当の目的は、これをあなたに伝えることでした。しかるべき人物たちからの依頼です。よく心に留めておいてください」
 そう言うと、いつももらっている占い料の三倍の金を置いて男は店を出た。
 バーには曜子以外に客はいなくなった。マスターは、曜子が仕事をする時、いつも反対側のカウンターの隅で、しゃくしゃくと丸い氷を作り、極力ボックス席の様子をうかがわないようにしていた。客が相手をして貰いたい時や酒についての質問の時以外は口を開かず、彼はバー店内そのものに溶け込んでいた。曜子は、それが一種の才能のように思えて、秘かに尊敬していた。男が出て行くと、マスターはつくりたての丸い氷をタッパーに入れ再び冷凍庫に戻した。袖をまくり腕時計を見ると、マスターは曜子のために番茶を用意した。
 ボックス席を出て、カウンターの真ん中に曜子は座った。あまりカウンターに座ったことはなかった。湯呑みに入った番茶を差し出すマスターに、「明日までなら、占えるみたい。そういえば、マスターのこと、見た事なかったですね。どうしますか」と聞いた。
 「私は、未来を見てもらったりしたくありません。それに、占いは、もうよした方がいいと思います」
 穏かにマスターが言った。
 「聞こえましたか、さっきの男の人が言ってたこと」
 曜子が聞くと、マスターは曖昧に笑顔を作るだけだった。
 マスターの作る酒を曜子は飲んだことがなかった。だが、客の間では評判だった。うまい酒を作る人は、酒以外の飲み物を作らせてもうまいものだと、曜子は番茶を飲みながら感心した。
 結局、警官は来なかった。別に、待つつもりもなかったが、曜子は時間をかけゆっくりと番茶をすすった。マスターが、みかねて声をかけた。
 「お疲れじゃないですか。今日は、もうお客さんも来る気配がないし、私も店を閉めようと思います。あなたも帰った方がいい」
 曜子は警官の代わりに、いつも警官が支払っている場所代を男からもらった金の中からマスターに支払い、家へ帰った。
 曜子はベッドにもぐりこみこんこんと寝た。携帯電話の電源を落とし、横を向いて身体を丸め、眠った。下腹部の痛みをやり過ごすコツをつかむために、眠るのだった。占いを禁止されたとはいえ、予知は予告なしにやってくるだろう。始めは気のりのしない占い稼業だったが、見えてしまう未来を誰かと分かち合うことで自分も少し救われていたのだと今更気づいた。これからは、あの男が逮捕され収監され再び一般社会に出て曜子に接触して、更に再び占いを許可されるまで、見えてしまう何者かの未来を自分の中だけにとどめなければならないと思うと憂鬱になった。痛みをコントロールすることができれば、少しはその憂鬱も晴れるかもしれない。占いを始めて、むりやり痛みを引き起こすことはできるようになったが、痛みそのものを引き起こさないようにさせることはできなかった。時と場所を選ばず突発的に起こる予知をどうにもおさえられずにいた。
 曜子は覚醒と眠りの間を行ったり来たりしながら明晰夢を漂った。一日が過ぎ、再び夜がやってくると、曜子は起き出し、身支度を整え、『アトリエ』へと出かけた。


(つづく)



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