連載小説 新


     6

 きっかけは、母の葬儀の日に現れた警官だった。彼の喉元には、小骨のように、曜子との出来事が引っ掛かっていた。誰かにそれを話したかったが、守秘義務規定に抵触しそうだった。定年間近まで勤め上げたキャリアを台無しにしたくないという理性によってその欲求を抑えていた。が、ある夜、毎週末訪れる行きつけのバーで警官は、つい隣に座った馴染みの常連客にそれを話してしまった。これまで酒に飲まれたことはなかった。ただ、その晩の酒が、彼の理性を少しだけ緩めたのだった。
 「詳しいことは言えませんがね」と、口火を切った警官の話に興味をそそられたのは、とあるスポーツ選手だった。プロ野球の選手になって6年、一軍と二軍を行ったりきたりしている外野手だった。彼と同等かもしくは少し上の戦力を持つ選手でも、とっくに戦力外通告を受けておかしくはなかった。だが、彼には脚力という武器があった。チームが優勝争いをしているシーズン中盤、接戦を演じている7回か8回にきまって彼の出番はまわってきた。代走として一塁走者に立ち、投手のモーションを盗んで、きっちり盗塁を決め、ホームに生還し、次回はライトの守りにつく、それが彼の仕事だった。
 「予知なんてなにかからくりがあるにきまってるんです。それをこの僕が見破れなかったということが痛恨の極みなんです」
 警官は語った。だが、プロ野球選手は警官の自己憐憫には興味を示さなかった。
 「聞いたことがありますよ、尋常じゃない経験から生還した人に何らかの超越的な能力が開花するって話、僕は、その彼女に興味があるなあ、会えませんかね、その彼女と」
 プロ野球選手は、簡単に首を縦に振らない警官に食い下がった。来シーズンのバックネット裏のチケットを三枚進呈すると約束してみたり、カウンター越しにラムを二杯注文し、警官におごったりした。
 「まあ、ラムでも飲んで、気分をほぐしてくださいよ。知ってますか、南の島の人たちがなぜ陽気なのか、ラムを飲んでるからですよ」
 やがて、完全にラムが理性を溶かすと、スポーツ選手は、警官から曜子を紹介してもらう約束をとりつけた。
 曜子は出来るだけ表に出ず、本を読んだりテレビを見たりして過ごした。表に出て、誰かと関わり、幻肢痛が起こって、そのたびに未来が見えたりすることはなるべく避けたかった。だが、警官がスポーツ選手の強引さに負けたその夜、風呂に入っていた曜子の下腹部はちりちりと痛んだ。すると、玄関から顔をのぞかせる警官を曜子は見た。曜子は、仕方なく居間に上げざるを得ず、終始恐縮しきりの警官は曜子の前で肩をすぼめた。眉尻を出来るだけ落として見せる警官の顔が、葬儀の日憤って見せたあの顔とあまりにも違いすぎ、警官という職業は演技が巧くなければ出来ないものなのだろうと曜子は一人で納得したりした。そして、警官は本題を切りだすのだった。
 これからの自分にどのような生き方が始まるのかを、曜子はそのようにして知った。
 一週間後、警官が訪ねてきた。曜子の予知と寸分違わない表情で、警官はある人物と会ってほしいと曜子に依頼した。突然の訪問にぶしつけな願いだという警官の説明を曜子はさえぎった。
 「もういいです。心の準備はできてたんだから」
 その一言で、妙に納得してしまった警官は、遠回しな説明は無駄だとわかったのか、簡潔に要点だけを伝えた。
 「相手は、某プロ野球チームの選手です。来週の月曜日、夜九時、場所は私と彼の行きつけのバーです。いいですか?」
 「バーですか」
 「はい、だめですか」
 「それはなんていうバーですか」
 「『アトリエ』という名前です。なにか問題でも」
 「いえ、わかりました」
 警官は、住所を残し、曜子の家を後にした。

 プロ野球選手が、なぜ自分と会いたいと言うのか、曜子にはもちろんわかっていたが、一つきがかりなのは、彼が望んでいるものを曜子が与えられるかということだった。もちろん、これは一方的な依頼だったし、相手が満足するかどうかは曜子にとって関知しなくてもいいことだと思った。そうではなく、予知の発動がいついかなる条件で行われるか、いまいち曜子にはわかっていないということが問題だった。ないはずの子宮が痛む時、それは行われるのだった。だが、いつ痛みがやってくるのか、それがわらなかった。プロ野球選手を満足させられなくても曜子は一向に構わないが、もし、予知したいと思う時に、痛んでくれたらと、いつのまにか曜子は考えだしていた。そうすれば、もう少し自分の行動を抑制しなくてもよくなるかもしれないと思った。
 そもそも相手の未来が見えてしまうことで、その人間との関係において不利さを感じざるをえなかった。相手はこちらになにをしようがなにを言おうが、相手の未来にその言動がどんな影響を及ぼすか、気にしなくてもよいわけだ。だが、曜子は違った。一旦未来が見えてしまえば、曜子の言葉一つが代えがたく決して欲しても得られない未来を既知に変えてしまうかもしれないおそれがあるために、曜子は余分に言葉を選ばねばならない気がした。
 一方通行の道みたいなものだと曜子は思った。向こうからは来られるが、こっちからは行けない、そして曜子はいつも一方通行の出口に立ち、その道には入り込むことが出来ないでいる、痛みをコントロールさえできれば、そんな事態も少しは打開できるかもしれない、そんな淡い期待をプロ野球選手との会合に抱いた。
 曜子は玄関の姿見に自分を映し、身なりを整えた。そろそろ薄手のコートにしてもよさそうな陽気だった。スバルの開店前のバーで最期の会話を交わしたのが、底冷えがする頃だったことを思い出した。わずか一年半足らずの時間が曜子を変えた。父の死以来、鏡を見る余裕もなかったと気づいた。首に巻いたマフラーに尖った顎が埋もれ、こちらを見つめ返す鏡の中の自分が、よく知る自分とは別人に見えた。短期間のうちに父を亡くし、母を亡くし、子宮も失った自分が果たして同一性を保っているのか、まったく自信が持てなかった。目つきがやけに男性めいて見えるのだった。媚を作ろうとしたがすぐにやめた。これから会うあの作り笑いが得意な警官とどうやらあつかましいと思われるスポーツ選手に媚など必要ないと思いなおした。
 警官から教えられたそのバーは雑居ビルの五階の一番奥にあった。看板もない店の入り口にはまっている重厚な木製のドアは、古い団地のようなそのビルには似合わないように見えた。曜子は道すがら、警官が曜子を訪ねてから今日までのことを思い返していた。一度も下腹部は疼かなかった。たかだか五日間のことだったが、それを喜ぶべきか、悲しむべきか曜子にはわからなかった。普通ではない力が自分からなくなれば、それはそのほうがいいに決まっていた。ただそれと別れることは、惜しいような気もしてきていた。だが、そんな矛盾した期待もすぐに消えうせた。約束の午後九時を過ぎたあたりから待ちかまえていたように下腹部にさしこみが始まった。古いアンティーク調のドアノブに手をかけた時、薄暗い部屋が見えた。誰かはわからなかったが、目のつりあがった長髪の男が半裸でベッドわきにたたずんでいた。女もいるようだった。一人はとうの立った黒髪で、もう一人は髪を染めたやせぎすの若い女だった。二人の裸の女を前に、男は性的な遊びに興じているらしかった。男の背後に灯っているテレビからは野球の試合が流れていた。それを若い女は漫然と眺めているのだった。攻撃しているチームが点を取ると彼女はくすくす笑った。
 もう一人の中年女はベッドの端で膝を抱え、終始うつむきさびしそうにしているだけだった。
 「あんたのチーム、負けるね」若い女はそう言った。
 それを聞くと、男はベッドの反対側に廻った。男の脚に手術痕が見て取れた。ひょこひょことまるで段違いの足取りで、若い女のところまでいき、茶色い髪をつかんでもう一人の中年女の股にむりやり顔を埋めさせた。男は笑っていると思いきや、その表情は無性に切なく見えるのだった。
 「もう、俺のチームじゃねえよ」
 抑えつけている男の手に力がこもった。すると、突然、若い女は自分を抑えつける男の手を振り払い、振り返って男に唾を吐きかけた。
 「レズプレイはNGだっつっただろ、このポンコツ」
 若い女の怒声が部屋にこだました。黒髪の女が目を伏せ、股を閉じた。男は切ない表情のまま、若い女を殴った。その拍子に、バランスを崩し、かばっている方の脚から男は転げ、倒れた。男を見下ろす若い女が笑った。男を足蹴にし、もう一度顔に唾を吐きかけ、下着をつけ始めた。
 「あたし、このこと、全部ちくるから。週刊誌とか、警察とか。それがいやだったら金持ってきなよ」そう言うと、若い女は中年女の下着も持ってきてやり着替えさせると、二人で部屋を後にした。男は倒れたまま、小さく笑った。
 曜子はドアノブを一旦離した。痛みが収まりつつあった。予知した一幕の登場人物のだれ一人見覚えがなかったが、びっこをひいていた男がまさにこれから会うスポーツ選手なのだということは疑わなかった。ドアノブをもう一度回し、ドアを開けると、カウンターの奥に、いましがた見た男が警官と共ににこやかに座っていた。髪は短く刈りあげられていたが、にこやかさの端に、予知で見たあの男の切なさがかすかに見てとれた。
 「ラムでいい?」スポーツ選手が言った。
 「いえ、あったかいお茶をください」
 「そっか、残念だな、ここのラムは最高にうまいのに。ねえ、マスター」
 マスターは能面のような表情を崩さなかった。ポットからお湯を注いで曜子のための番茶を淹れた。お客が何を言おうが冷静さは崩さないと、暗に訴えているかのようだった。俄かにスバルのことを思い出した。壮齢のそのマスターはあらゆる挙動においてスバルと違っていると思った。
 「それとも、酔うと占いできなくなるとか」
 占いと言われて、腹は立たなかった。それよりも、スバルの事が頭を占めていた。だが、徐々に、そのスポーツ選手の占いという言葉に怒りが湧いて来た。相手にしてはいけないと思いつつ、つい口が先走った。
 「びっこ引いてたわ、左足。長さが揃わないって感じで。下品な女と裸で遊んでた。二人も相手して。そういう趣味があるんですね。それとも怪我して、自暴自棄になった? 私が見たのはそんなところ。今、そこで、扉を開く前に見えた。別に、いいの。私、好きでこんなになったわけじゃないし、自分でも全部信じてるわけじゃないし、それに予知なんて本当に馬鹿げてると思うから」
 それから曜子はマスターが出してくれたお茶に申し訳程度に口をつけ、立ち上がった。
 「待ってよ」
 スポーツ選手が曜子の腕を持った。
 「女って、どんな女だ」
 「一人は若かった。そこらへんで拾ったって感じの。もう一人は、長い黒髪で少し年上みたいに見えた。あなたより年上」
 曜子は腕を払おうとしたが、彼の握力にはかなわなかった。もう一方の手で携帯電話を出し、ためらいがちに曜子に一枚の写真を見せた。三人の女が映っていた。中央に、股に若い女の顔を押しつけられていたあの中年女が映っていた。
 「この中にいるか」
 「知らない」
 「ちゃんと見てくれよ」
 「見てます」
 「教えてくれ」
 曜子は指さした。
 「あなた、ひどいことしてた。若い女にも、この女の人にも」
 「俺は、怪我をするんだな。そしてこの女と別の女と寝るんだな」
 「寝るっていうか、遊んでるだけだけど。あと、テレビがついてました。野球の試合。この人、さびしそうに試合を見てた。でも、あなたが消せって言うから」
 曜子の言葉をさえぎり、すでに陽気さをなくしたスポーツ選手が、もう一方の手で曜子の腕を持った。懇願しているような仕草で、「どうしたら、怪我しなくて済むかな。教えてくれよ」と言った。
 「そんなことはわかりません。私の経験上、未来は変えられない、と思います」
 「どれだけ避けても、運命には逆らえないってことか」
 すると、隣で聞いていた警官が、口を挟んだ。
 「昔、オイディプスという男がいてだな、ギリシャ神話なんだが」
 「あんたは黙っててくれよ」
 「とりあえず、離してください、痛いです」
 それでも、スポーツ選手は力を弱めただけで、逃すまいと曜子を握ったままでいた。
 「運命とか、ギリシャ神話とか、よくわかんないけど、出来事は変えられないんじゃない。でも、自分が自発的にすることは変えられると思う。たとえば、あなたは、若い女の顔をその黒髪の女の股ぐらに押しつけてた。それは、自分がしなきゃいいだけでしょ。怪我は起こる、運命的に、きっと。それをどう思うかは、あなたにかかってるんですよ、きっと」
 スポーツ選手は曜子の腕を離した。
 曜子はマスターにお礼を言って、店を出た。
 そのバーは、繁華街から少し離れた場所にあった。いかにも、警官やスポーツ選手が好みそうな裏街だった。時折身なりのいい男女が通り過ぎた。人も店も賑わいをできるだけ抑えようとしているかのように、ひっそりしていた。決して閑散とはしていないのに、静かだった。大通りに出ると繁華街のぴかぴか光るネオンサインが遠くに見えた。ビジネススクールも、スバルのバーも、あそこにあるのだと曜子は思った。自分の切除された子宮は、いったい今どこでなにをしているかと急に疑問に思った。すでにゴミ箱に捨てられたか、もしくは病院の地下室の資料室の棚にホルマリンに浸りながらぷかぷか浮いているのか、しかし、幻の子宮がしくしく痛むということは、実体としてまだこの世に存在しているからかもしれない、痛みだけをはらみホルマリンに浮かぶ自分の子宮が、今もどこかに存在していて欲しいと曜子は願った。自分の欠損部分がまだ確かに存在して、痛みが二つの絆になっていると思えば、なんとなくまだ自分が不完全にはなりきっていないと感じられるからだった。
 下腹部が痛んだ。曜子は駅へ向いながら、近い未来を幻視した。あの警官が曜子のマネージャーになっていた。警官は警察に勤めながら、長い年月をかけ、幅広い人脈を培った。その人脈には胡乱な人々が多かった。彼らが曜子の客となるのだった。タレント、政治家、公務員、企業家、ホステスや宗教家、教員までが、曜子の『占い』にすがるという未来が曜子を待っているらしかった。その未来は運命か、それとも変えようのある能動的な行動か、いまいち曜子にはわからなかった。けれど、その未来を少しの間引き受けようと、すでに曜子は決めていた。とりえを生かした人生という曜子がおぼろげながら望んだものがそれであるような気がしてならなかった。


(つづく)



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