連載小説 新


     5

 父と母の死は、曜子の手元に数十年間は生きて行くのに困らないだけの金をもたらした。様々な税務処理を終えてもなおこれまで暮らしてきた住居は残り、更に保険金や遺族年金が支払われた。もちろん曜子はその金を元手に、住居を整理し、新たな住まいを見つけ住むことも可能だった。だが、曜子は父と住み、母と住み、その母が自ら首をくくるため格闘したこの住居に住み続けることを選んだ。
 遺品にも特に手をつけなかった。まだ生々しく残る手術痕の痛みを抱えながら整理するのが億劫だっただけでなく、できるだけ両親が死んだということをいつも間近に意識していたかった。
 下腹部は痛み続けた。痛みが残ると言う曜子に医師は首をかしげた。すでに傷は充分回復し、転移もなく、身体も健康に近づいてきていると説明した。だが、曜子は体内の既にないはずの子宮が痛む気がした。傷跡ではなく確かに子宮がうずいた。医師は子宮自体に痛みがあるはずはないと曜子を諭した。しかもそれはすでに切除されているのだ、二重の意味でも、痛みは存在しようがないと曜子を説得した。
 曜子は、毎日、朝遅くに起き出し、その日なにをやるか決めるため、コーヒーをゆっくり飲むことが日課となっていた。医師から、定期健診は一年後で充分なほど回復していると伝えられた次の日、曜子は図書館に赴いた。家庭の医学やら、子宮頸ガン経験者の啓発本やら、専門的な解剖書までを引っ張りだし、時折痛む、ないはずの子宮に関しての記述がないか調べた。少しのヒントでいいと期待を少なく見積もっていたにも関わらず、曜子が知りたいことは全く見当たらなかった。遠くから夕方五時を知らせるチャイムの音が届いた。曜子は、そのメロディに聞き覚えがあった。だが、すぐにはどんな歌だか思い出せなかった。不意に小さくハミングしてみると、ついたてを挟んだ前に座る男子学生が顔を覗かせた。非難する仕草もなく、少し笑んでいたが、曜子は嘲笑されている感じがしなかった。
 「いい歌ですよね」
 人懐っこい口調で学生は言った。
 「ごめん、どんな歌か忘れちゃって」
 「この道は、いつかきた道、ああ、そうだよ。あかしやの花が咲いている」
 図書館には似つかわしくない音量で学生が唄った。机に向っている周囲の者たちが眉をひそめるのがわかった。
 「そう、でも、初めて聞いた歌詞みたい。私、知らなかったんだ、この歌」
 また学生が笑った。
 「おもしろいですね、知らないことを忘れてると思ってること、よくありますよ、たぶん」
 その時、曜子の下腹部がちくりと痛んだ。目の前の笑顔が似合う学生が泣いていた。勉強を終え、家に帰ると、いつも夕食の準備を忙しくしている母がおらず、灯りも消えているのだった。暗い部屋には書置きがあって、『病院へ行きます』という母の字に続いて、彼の弟が死に瀕していることが伝えられていた。弟は病気がちらしかった。入院が続き、一年留年してもなお、退院できずにいた。そればかりか、今日いよいよ最期の日を迎えるらしかった。学生は、顔色を変え、鍵もかけずに家を飛び出した。笑顔は消えていた。大通りに走り出した彼は、猛スピードで対向車線を走ってきたバイクにはねられた。はねとばされた学生の、天を仰ぐその顔に涙が流れていた。はねられた痛みか、弟を想う気持ちがそうさせているのか、曜子には分らなかった。
 学生は顔をのぞかせたまま、相対している曜子の時が一瞬止まったかのように見え、彼女が何か言いだすのを待っていた。
 「どうかしましたか?」
 「うん、家の鍵、かけ忘れてない?」
 「だって、お母さんが家にいるから」
 「そう、でも、一人で出かける時は、落ち着いて、鍵をかけて、しっかり戸締りを確認してから、出かけた方がいいと思うよ」
 「うん」
 それきり学生は顔を戻し、もう二度と曜子の方を覗きこもうとはしなかった。
 机に向き直り、ページを開いたままの解剖書に目を落とした。事故や腫瘍などで四肢を切断した者たちの写真が載っていた。そこに、曜子は『幻肢痛』という文字を見た。
 『四肢切断後の患者が、失った四肢が存在するような錯覚や失った四肢が存在していた空間に温冷感や痺れ感などの感覚を近くする現象を幻肢と総称する。幻肢は四肢切断だけでなくとも、脳卒中、脊髄損傷や末梢神経損傷などの運動麻痺や感覚遮断によっても発症し、これらは余剰幻肢と呼ばれる。また、乳房や陰茎、眼球などの切除後にも幻身体は現れる。幻肢に痛みを感じる現象を特に幻肢痛と呼ぶ』
 曜子は、丁寧に、その文章をノートに書き写した。そして、そこに彼女なりの一文つけ加えてみた。
 『幻肢と共に、予知が起こる』


(つづく)



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