連載小説 新


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 曜子は入院した。母には、父との事故の記憶を癒すため、大学の同級生が住むタイへ一ヶ月旅行に行くと伝えた。母が通う心療内科の先生にも言い含めてもらい、ようやうく母は納得した。納得したものの、出発の朝まで、不安を吐露した。
 「曜子、電話が繋がるようにしておいてね」
 「わかった」と言ったものの、どうしようか考えあぐねた。手術の日はおおかた電話は繋がらない。しかし、母の中では、曜子はタイにいるのだ。電話が繋がっても、とれないことだってあるだろう。手術は海外旅行に似ていなくもないと曜子は思った。
 出発の前の夜、母はキッチンに立った。しばらく日本食から離れるだろう曜子のために、素朴な料理を用意した。なます、田楽、煮つけ、味噌汁、ゆっくりと料理を進める母の姿を見て曜子は愕然とした。それは、父の葬儀の時に曜子が勝手に見た母の姿とぴったり重なっていた。夕食の支度をする母の、依然としてなにも回復しない容貌と立ち姿を確かに曜子は既に見たと思った。梳かされない髪の毛、化粧で隠されていない顔のしわ、不揃いに伸びた爪、肌の色を浮かせた眉毛を母はずっと父の死後保ち続けていた。これから子宮を失う自分が感じなければならない悲しみを曜子は充分に享受できずにいた。心を他の様々なことに奪われていた。母の精神状態を気にかけねばならなかったし、なにより今自分が命を落とすことは断じて避けなければならなかった。命を保つという命題の前では子宮という物体など取るに足らないものだと思わなければならなかった。父の事故死をきっかけに傾きかけた家族をなんとか立ち直らせることだけを曜子は考えなければならなかった。
 母の手料理を食べながら、曜子は母に「大丈夫?」と聞いた。随分、口にしていない言葉のように思えた。母は「大丈夫」と答えた。不意に、曜子は孤独がやってくると思った。
 入院したその日から、治療は始まった。曜子の入院を待ちわびていたかのように、矢継ぎ早に処置が施された。抗癌剤、放射線治療、繰り返されるエストロゲン投与は曜子にとって激しいストレスになった。直接的な痛みはそれほどでもなかった。それよりも内奥でくすぶるうずきのようなものを常に感じなければならなかった。
 あれほど電話を繋がるようにしておけと何度も念を押していた母からの電話は一度もかかってこなかった。こちらからかけるわけにもいかず、曜子は一日中、看護婦と医者以外の相手と口を開かない生活が続いた。
 『スバルは』と思った。スバルはすでにバーを開店して客たちと共に忙しい毎日を送っているだろうと想像した。だが、その想像はうまくいかなかった。どれだけ想像しようとしても、スバルが「ファネットチェアが」と言いかけた時のあのしんとしたバーの店内が浮かんだ。曜子の想像の中では、開店後の『アイス』も、しんとしたままだった。それまでスバルに対して持っていた絶対的な安心感からすれば、その想像は理解しがたかった。曜子がスバルを考える時、いつもきまって彼はうまくいっていたはずだ。それとも、閑散としたバーこそがスバルにとってうまくいっているということなのだろうか。曜子は、手術を明日に控え、看護婦から注意点などの説明を受けながら、スバルのことを頭から排除した。最後に看護婦は紙切れを二枚、曜子に差し出した。手術の同意書だった。命を預けることに同意するよう書いてあった。曜子は、手早くサインして看護婦に返した。
 効き目のつよい安定剤を打たれ、ストレッチャーに乗り込んだ曜子は手術室に運ばれた。手術室には程良い音量で音楽がかけられていた。サザンオールスターズのリズムに合わせ手際よく手首の血管に、手術用の長いカテーテルを差しこんでいく手術病棟の看護婦は、外来病棟で働く看護婦とは違い、いかにもタフに見えた。安定剤の効き目で曜子は弛緩したまま、しばらく続いていた体の奥でうずく鈍い痛みが和らいでいくのを感じた。やがて、医師や助手が曜子を取り囲み、手術用具が揃えられた。いつのまにかサザンオールスターズはモーツァルトに変わっていた。麻酔薬を嗅がされるとやがてモーツァルトも聞こえなくなった。

 起きようとしていた。全身麻酔は意識を根こそぎ混濁させるはずだった。だが確かに意識はあった。手術中の出来事ではなく、すでに手術を終えたベッドの上でのことかもしれなかった。とにかく曜子は麻酔中に夢を見ていた。そしてその夢のせいで起きなければと思った。確かにいま子宮を摘出されたという瞬間があったにはあったがそれはどうでもよかった。夢の中で母が首を括ろうとしていた。憐れむ様子も悲しむ様子もなくただそうすることしか他に方法がないというように、自然に、母は紐で作られた輪っかに首を通した。その母の傍らに電話があった。せめてそれを鳴らせればと思ったが、曜子の体は言うことをきかなかった。麻酔から徐々に冷める感覚は氷が解けるように、徐々に、しかし気づけばあっという間に覚醒がやってきて、曜子は軋む首をむりやり動かし、辺りを見回した。誰もいなかった。独りで治療を受け、手術を受け、独りで回復しなければならないことへの覚悟は既についていたが、下腹部に激烈な痛みを抱えて、カーテンで仕切られた味気ない病室で麻酔から覚めることがこんなにもさびしいことだとは思わなかった。自分のことはよくわからないものだと思った。これくらいの孤独には容易に耐えられるだろうと高をくくったが、いざ直面するとそれが間違いだったことを思い知った。とにかく今は起き、一刻も早く母のいる家に戻らねばならないと思い体を動かしてみたが、到底かなわないようだった。麻酔の感覚は時間をも麻痺させていた。数分か数時間かわからない時間が経って、看護婦がやってきた。
 「おかあさんが」とまわらぬ舌を動かした。看護婦は、柔和な笑みを浮かべ、「心配しないで、今は自分のことだけ考えなさい」と言った。
 『違う、そうではない』と曜子は胸の中で繰り返した。明らかに論理性を欠き、根拠もなく、支離滅裂なのはわかっていたが、とにかく母の命が死に瀕しているのだということを伝えたかった。曜子の緩慢だが必死の訴えを、麻酔から覚醒したばかりの患者がよく見せる症状だと看護婦は誤解した。そして、落ち着かせようと幼子をあやすように曜子の手を握った。手からはぬくもりが感じられた。そのぬくもりは曜子が決して欲しているものではなかった。

父の時と同様、曜子は母の通夜に間に合わなかった。術後の体調を診た医師は、ようやく葬儀の日の午後、看護婦の付き添いをつけるという条件で曜子の外出を許可した。
曜子は、麻酔から覚めた後、おぼろげにしか覚えていない母に関する夢を明晰に覚えていようと努めた。頭の片隅に、鍋の焦げのようにしかこびりついていない夢の記憶をさかのぼり、それを整理した。
曜子の夢の中で、母は首から紐を伸ばし、てるてる坊主のように自宅のベランダの物干しからぶら下がっていた。室内の床には、天井から落ちビニール紐にくくられたままになったペンダントライトやカーテンレールが散乱していた。母の苦心がうかがえた。死ねる場所を探したらしかった。母はようやく安心して首を吊れる場所をベランダに見つけた。そこが、物干し竿をかけるフックだったというわけだ。テーブルには、母のお気に入りのジノリのカップに入った飲みかけの紅茶が残っていた。そのイメージを忘れぬよう脳裏に反芻しながら曜子は葬儀に向った。
葬儀場についた曜子を警官が待ちうけていた。警官は簡単に検死の報告をした。間違いなく自殺だと、その老齢の警官は言った。報告を済ませ足早に立ち去ろうとする警官を、曜子は引きとめた。そして、詳細に母の自殺に至る経緯を聞きだそうとした。言いにくそうにしている警官に曜子は食いさがり、直截に語るよう願い出た。その切羽詰まった様子を、警官は怪訝に思った。いままでにも、母親を自死で亡くした曜子くらいの年齢の女性を相手にしたことは何度かあった。誰もが、動機について聞きたがり、そのたびに警官は困るのだった。自殺に動機があるとすれば、それは死んだ本人にしかわからない、それが彼の持論だった。つまり、彼に言わせれば、動機は、未来永劫、永遠に謎なのだった。だが、目の前の曜子は、そうした動機については一切聞こうとはしなかった。代わりに、死に至る母の行動がいかなるものだったか、室内はどうなっていたか、母はどういう行動の末、ベランダに至ったのか、その状況を具体的に聞きたがった。
「部屋は、何か荒れた形跡がありましたか? たとえば、数度自死を試みて、失敗したような」という曜子の質問に、警官の勘が働いた。死んだ母の娘は何か知っている、確証はないが、まるですでに現場の様子を誰かに聞いたかのように。
「どうしてそう思われたんですか? というか、どうしてそんなことを疑問に思われるんですか?」
その質問に、曜子は口を閉ざした。曜子の母の死に事件性はない、それが警察の総意であった。しかし、曜子の質問に警察官として見逃せない何かがあると彼は思った。
曜子にはそれを隠す必要がなかった。自分が既に予知のようなものをしてしまったということを、むしろ誰かに聞いてもらいたかった。それを聞いた人間がどういう反応を示すか、試しておく必要もあった。
「夢で見たんです、ご存じの通り、母は私が癌の手術をしている最中に死にました。もちろん、母には、私が病気だということを告げてはいなかったので、そういう意味では母に非はありません。すいません、よくわかりませんよね。とにかく、手術中に夢に見たんです。母が自ら死ぬ夢です。部屋のあちこちで、死ねる場所を探し、とうとうベランダで首を吊る夢でした」
警官は種明かしを待った。今目の前で話している彼女に、誰も発見当時の様子を話してはいないはずだった。なぜなら、それを曜子に話すことが自分の役目だったからだ。にもかかわらず、自分がそれを教える前に、現場の詳細について既に知っているには訳があるはずだった。
「これにはどういうからくりがあるんです? なぜ、それを知っているんです? 誰かが、入院中のあなたのところまで行って話しましたか? それをあなたに話したのは誰ですか?」
警官は、つい仕事口調になったことを恥じた。だが、職業柄、疑わしいことは解明しなければならないという使命感が勝った。
「つまり、実際に、そうだったということでいいですね?」
「そうだったとは?」
「今、私が言ったようなことです。死ねる場所を探したとか」
「種明かしをしてもらいたいですな、誰があなたに教えたんです。お母様の最期の様子を」
「種なんてありません。ただ、自分に起こっていることがなんなのか、自分で理解したいだけなんですから」
曜子には、父の死と時を待たずして母の死に直面し、悲しさみたいなものがあるにはあった。だがそれよりも、父の死を契機に訪れた自分の変調がなんなのか確かめなければならなかった。ふと湧きあがるイメージが現実のものとなる経験をこれからもしなければならないとしたら、それなりの覚悟を決めなければならないと思った。これまでは予感のようなものとして意識の外に追いやっていたものをこれからはちゃんと自分のものとして認識しなければならない、できればコントロールしなければならなかった。曜子は、警官にありのままを訴えたつもりだった。
「なるほど、わかりました。いいですか? あなたが夢で見たお母様と、現実のお母様の行動は、見事に符合します。けれど、私は、あなたの言うことを信じません。信じるわけにはいきません、警察官ですからね。そして、あなたが言う、予知のような能力を信じない以上は、何かほかの理由があって、あなたは私の説明を待たず、なぜか、お母様の最期の様子を知り得たと判断せねばならない。そのなぜかを、仮にそこに事件性があれば、私は解明せねばなりません。ですが、あいにく、事件性はない。あなたが時を待たず、お母様の最後の様子を知り得たということに関しては、事件性はないと、私は判断します。だから、追及はいたしません。その先は、あなた個人がなにを思おうと、私は関与しません。予知能力のようなものが自分に宿ったと確実視するのもいいでしょう。ですが、それは私となんの関係もない。いいですね?」
警官は、いらだち紛れに汚れてもいない裾を払って、曜子の前から立ち去った。
数か月がすべてを変えた。変調のきっかけが果たして、父の死か、自分の過去を改めて顧みようとした時か、それともスバルと別れたことかわからなかった。母の棺の担ぎ手がおらず、斎場の職員に手伝ってもらい、火葬場へ行く車に乗り込み、棺に横たわる母と共に線路沿いの道を走ると窓ガラスの外に会社帰りの人々を乗せた電車が行き過ぎるのを見た。それで曜子はその日が月曜日だということを知った。火葬場につき、待合室に通されると、曜子は母の火葬に立ちあうのが、自分ひとりであることに気づいた。親類は少なく、いてもほとんど曜子とは馴染みがなく、名前も関係性も思い出せない者ばかりだった。誰もが葬儀を終えると帰って行き、火葬場まで同行する者はいなかった。待合室の隅から座布団を引っ張りだし、まだ傷む下腹部をかばいながら脚を投げ出して座った。お茶を淹れ、急須から立つ湯気をぼんやり眺めながら係員からの知らせを待った。いまごろ母は火葬の順番を静かな大理石の部屋で棺に収まりながら待っているのだろうと思った。なぜまだ訪れた事もないその部屋が、大理石造りであるとわかるのか、すでに曜子にはわかっていた。これから数十分後、自分がその部屋で母の焼けた骨を係員と一緒に拾う姿を予知したからだった。そうやって曜子の『力』は、彼女が望むと望まざるに関わらず、突如現れた。それは自分が予見したいと望む事柄について、なにがしか見えたり感じたりする類のものではなかった。どうやら、脈絡なく日々の生活の中に幻影が現れ、それが然る後、現実化する仕掛けであるようだった。
係員の合図を待って、曜子は大理石造りの部屋に入った。壁の向こうは窯らしかった。耐熱石膏の台座が引き出され、骨になった母が姿を現した。おかしな言い方だが、骨となった母は健康そうに見えると曜子は思った。係員に手伝ってもらいながら母の骨を拾い、骨壷に収めながら曜子は、未来が見えるなら、過去は見えないものだろうかと、もう一度自分の能力を疑った。当然そうなっただろう現実、たとえば事故に遭わずにいたら、父はあの先の言葉をなんと言ったのかという、可能性としての過去を自分は見ることが出来ないのだろうか。
「私のとりえは一体なんなんだろう」と聞いた曜子に対し、「それは」と言ったきり、フロントガラスに吸い込まれたあの父の言葉をいつか、予見できはしないかと淡い期待を抱いた。だが、その期待はかなわないだろうと、すぐさま曜子の予知能力そのものが否定した。骨箸の先からぽろりと母の胸の辺りの骨が落ちた。曜子は、父が言おうとしてくれた自分のとりえが、新たに宿ったこの不安定な予知能力のことだったのだと思い込むことにした。


(つづく)



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