連載小説 新


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 曜子が集中治療室で処置を受けている間に父は死んだ。頸髄損
傷及び気道閉塞が直接の死因だった。他にも四肢の骨折、腹腔内
損傷など外傷内部損傷を上げればきりがないほどだった。すぐに
加害者の運転手に事情聴取が行われた。『渋滞でいらいらしてい
て、裏道に入ってから、待ち合わせ相手に電話をかけた。気づい
たときは、既に被害者の車にぶつかっていた』と供述した。
 目立った怪我はなかったが、ひどい物理的衝撃を受けた曜子に
精密検査が行われた。検査の結果、脳機能障害などの心配はない
ということだったが、骨折した肋骨と鎖骨の処置などで、五日の
入院を余儀なくされた。その間、曜子の母は一人で夫の喪の一切
を取り仕切らねばならなかった。まず警官がやってきて母を聴取
した。その日の夫の行動をこと細かく聞かれたが、母は自分がう
まく喋れているのかどうかさえ分からず、謝ってばかりいた。別
の警官が夫を司法解剖するための書類を持ってきた。言われるが
ままサインし、次はまた別の警官が実況見分書を持って現れた。
警官への対応と並行して、葬儀の準備も進めなければならなかっ
たし、保険会社とのやりとりや勤務先への報告や公的機関への届
け出など、人間が一人死んだ時の手続きの多さを母は痛感してい
た。詫びのため訪問に来た加害者の親族へ恨みごとを満足に言う
気力さえなかった。
 曜子が退院した時は既に通夜を過ぎた後だった。なんとか葬儀
には間に合ったが、痛む体を引きずり病院から家へ帰るのも、着
なれない喪服に袖を通すのも、出かける準備をして斎場に向う時
も、母は不在で、曜子独りだった。
ようやく目にした母の姿は、曜子に、事故直後の父を連想させた。
別に腕が折れまがっているわけでも、目から血を流しているわけ
でもなかったが、悲しむべき時間を与えられず疲弊しているその
姿は充分に死に瀕した父に似ていた。化粧をするという発想も、
髪をとかす時間も、ゆっくりと入浴する暇さえ与えられず、決し
て醜い造りではないはずの容貌が劣化していた。母にとってかけ
がえのない存在であるはずの夫の死を事務的に扱わざるを得ない
時間が長過ぎたのかもしれないと曜子は思った。斎場のひな壇の
脇の壁際に立って、頭を垂れ、弔問客の言葉に機械的に頷く母は、
曜子が目の前に来ても、さっきから繰り返している『ごくろうさ
まです』の一言しか口にすることが出来なかった。そんな母を目
の当たりにして、ようやく曜子は父が死んだという悲しさを感じ
ることが出来た。そして、まだ母はうまく悲しめてさえいないだ
ろうと思った。ふと、母は、このまま笑顔を取り戻せないのでは
ないかという考えがよぎった。その思いは、次々に近い未来を連
想させて行った。実家のキッチンで夕食の支度に立つ数週間後の
母の姿が浮かんだ。その姿は、驚くことに、いま目にしている母
の容貌からなんら回復してはいなかった。根拠のない確かさでよ
ぎったそのイメージのために、曜子は自分を不謹慎に思った。そ
んなわけはない、母はうまく精神を回復できる、化粧だってまと
もにできるようになるし、風呂に入って体を休めることもできる、
今はあまりになすべきことが多いだけだと思いを振り切った。が、
三角巾で腕を吊ったまま、松葉づえに左肩を預けたまま、母の横
に立って、やってくる弔問客に頭を下げ続けている間も、すぐに
来るだろう母の未来に対する予想が、脳裏から払拭できずにいた。
 葬儀を終えた曜子と母は、なんとか日常を取り戻そうとした。
引き続き保険会社や警察とのやりとりもまだ残っていた。そうし
た手続きが二人をなかなか日常へは戻してくれなかった。
 随分迷った挙句、曜子はビジネススクールを辞めた。やむをえ
ないこととはいえ、長びく欠席に対する救済措置もなく、高額な
学費をこれ以上無駄にするわけにはいかなかった。アルバイト待
遇だった職場も曜子を憐れみはしたが、休職中に時間給を出すわ
けでもなく、慇懃な悔みの言葉と共に体調を万全にした後また連
絡をして欲しいと最後通告を曜子に伝えた。
 なにもなくなり後に残ったのは徐々にしか治っていかない不自
由な体と、母との二人暮らしだった。通院以外は家に母とこもり
ながら、曜子はいつのまにか葬儀の時に浮かんだ母の未来予想を
忘れていた。その代わり、事故後、たえて思い出さずにいた父の
最後の言葉ばかりが浮かんだ。
 昼夜問わずベッドの中にいる時間が増えた。ベッドに入り天井
の壁紙を見つめ、何度も父の最後の言葉、「それは」、「それは」
を繰り返した。述語を失った言葉から、永遠に解けない謎を与え
られたようで、曜子は胸が苦しくなった。父の思う曜子のとりえ
は、事故と共にどこかへ消え二度ともどらない気がした。
 家の電話が鳴った。寝室にいた曜子は重い体を起こした。母が
とる様子はなかった。葬儀を終えてからというもの母は電話恐怖
症になっていた。仕方なく曜子が受話器を取ると、相手は通院先
の看護婦長だった。
 「曜子さんですね」
 曜子は「はい」と答えた。
 「体の調子はどうですか?」という言い方に含みがあり、曜子
は警戒した。
 「曜子さん、次に来院するのは、来月の予定でしたよね?」
 「はい」
 「もしよろしければ、来週にでも、もう一度来院いただけませ
んか?」
 「どうしてですか?」
 病院に行くのは骨が折れた。駅から遠く、電車とバスを乗り継
がねば行けない場所にあった。
 「そうですよね、できれば、もう乗りものには、あまり厄介に
なりたくないですものね」
 「そういうわけじゃないですけど」
 「でも、一度、来てください。できれば、早く」
 「なにかあったんですか? 事故の後遺症とか、ありそうなん
ですか」
 「後遺症ではないんです。ですが、あなたの体に、事故が原因
ではない病気が見つかりました。言葉では説明が難しいんです。
いや、病名を言って、終わりというんじゃ、多分あなたが納得し
ないだろうという意味でね」
 ひとまず明日に予約をとってもらい、曜子は電話を切った。
 翌日、難儀をしながら外着に着替えている曜子に母はどこへ行
くのかとしきりに聞いた。病院だとだけ答えると、病院へ行く必
要が来月まではないはずだという事情を知っている母はまるで一
人留守番に取り残される子供のように不安がった。曜子が在宅し
ている間は、ずっとふさぎこんでいるくせに、自分がいなくなる
のは困るのかと曜子は面倒くさくなった。
 「できるだけ早く帰るから、電話が鳴ってもでなくてもいいん
だからね」
 「わかった、車には気をつけるんだよ」
 返す言葉がなかった。一歩、家の外に出れば、そこには無数の
車があった。しいてそのことを意識から外していたのに、母の一
言で曜子の脳裏にしっかりと外には車が走っているということが
刻まれた。バスと電車に乗らねば病院へはたどりつけない。タク
シーなどはもってのほかだが、まさか徒歩で行くわけにもいかな
い。もう一度、病院へ電話をかけ、言葉で説明してもらおうかと
も思ったが、事故後患っていた車への恐怖を押してでも、自分の
体に何が起こっているのか確かめたいという気が起こり、曜子は
外へ出て行った。
 存外、広い車内の乗りものは耐えることが出来た。それでも吊
革を持つ曜子の手は汗で濡れた。不自由な体を引きずって歩いて
いく方がまだましだと思われた。
 バス停を降り、閑散とした住宅街を進むと突如として果物店や
タバコ屋、八百屋や雑貨店がひしめきあう商店街が現れた。これ
から向かう総合病院を中心にして、一帯は栄えていた。往来する
人々すべて体のいずれかを患っているように見えてくるのだった。
仲間意識なのか、それとも同族嫌悪なのか、人々は出来る限り他
人の事情に触れないでおこうとしているようだった。ひとたび触
れあわなければならない時は、作り笑いを浮かべて、天気の話な
どでその場をやり過ごした。玄関を入って突き当たりのエレベー
ターが来るのを待つ曜子の隣に、老婆が立った。彼女もまた笑み
を曜子に送った。
 「寒いですね、秋もこず、冬になるみたい」
 曜子は口ごもり、会釈だけで同意を示した。
 エレベーターがやって来ると二人は乗り込み、操作盤の前を陣
取った老婆が行き先を聞いた。
 「三階、お願いします」
 すると、老婆は少し緊張した様子になった。
 「あら、私と同じね。でも、三階には、化学療法の部屋と手術
室しかないのよ」
 「そうなんですか」
 「どちらへ」
 「どちらでもないと思います。受付についたら、カンファレン
スルームに行く予定です」
 「あらそう、そうなの。そんな部屋もあったわね、忘れてたわ」
 エレベーターの扉が開いた。老婆は化学療法室の方へ向って歩
き去った。曜子にむやみな想像が湧きあがった。上品な匂いのす
るマフラーを巻いた、痩せているその老婆は、一ヶ月後更にやせ
細り、この病院で最期を迎えるだろうという想像だった。老婆に
恨みなどなかった。だからなぜそんな想像をしたのか曜子は自分
でもわからなかった。その想像が現実のものとなるか、確かめよ
うと思えば確かめられなくもない。けれどばかばかしいと思った。
曜子は、受付で言われるがまま、カンファレンスルームの扉を押
した。
 医師は努めて明るい顔して曜子を出迎えた。すでに用意された
書類を整理しながら、「わざわざすいませんでした。ご足労おか
けしました」と、明るい口調で、医師は曜子をねぎらった。そし
て、突然、「事故後の精密検査を受けた際、曜子の体に癌が見つ
かった」と、医師は曜子に告げた。それは子宮頸癌というものら
しかった。
 「おそらくあなたの癌は今瀬戸際に来ていますから、出来れば
早く検査をした方がいいと思います」
 「瀬戸際?」
 すると医師は子宮のイラストにペンで線を引きながら説明した。
 「上皮にとどまっていれば、入口だけの切除、それ以上拡がっ
ていれば」
 医師は、ペンで子宮をぐるっと囲った。
 「心配いりませんよ、治療すれば命に別条はありません。他の
臓器に転移していれば、少しややこしいことになるかもしれませ
んが、いまのところその可能性は低いようです」
 「命に別条はないと言っても、子宮を摘出しなくちゃいけない
んですよね」
 「まだ決まったわけじゃありません、すべては検査の後です、
その時の結果で考えればいいのです。今は、検査を一刻も早く済
ませてしまうことを考えましょう」
 力説する医師に少なくとも励まされた感じがして、曜子は検査
予約の手続きを済ませ、再び病院街を後にし、バスに乗り込んだ。
 母には告げなかった。いずれ必ず手術をしなければならないだ
ろうと曜子は確信していた。それを知れば母は動揺するだろう。
母の回復はさらに遅れるかもしれない。曜子は、病に対する自ら
の心の準備と共に、手術までに少しでも母の心が回復することを
望んだ。あの医師のように努めて明るく母に接し、母の手本にな
るよう心療内科へ自分が通い始め、付き添いとして母に同行して
もらいやがて本人を診察させるという計画も実行した。
 最寄りの心療内科への道のりは遠かった。曜子は生まれて始め
てそんな長い距離を母と共に歩いたことに気づいた。歩く間、母
は取りとめもないことを話した。父との新婚旅行のこと、結婚し
てすぐは旅行資金に余裕もなく、ようやく三年目にして四国を周
遊したということ、初めて妊娠した時のこと、だが切迫流産でそ
の男児を設けられなかったこと。その後、曜子が産まれたこと、
父の喜びがひとしおだったこと。曜子は初耳だった。曜子の前に、
兄が一人、産まれることなく死んでいたことを知らされたのは初
めてだった。母はまるでよい思い出のようにして語った。打ち明
け話の雰囲気はまったくなかった。それが良い兆しなのかどうか、
曜子にはわからなかった。しかし、少なくとも、無口になってい
た時よりも母の精神は向上していると思えた。心療内科医に母を
診せることにも成功した。母はそのうち、独りでもそのクリニッ
クへ訪れることが出来るようになった。もしかしたら、母を独り
家に残して、手術の時を迎えられるかもしれないとかすかに思え
た。
 やがて精密検査の結果が出た。
 エレベーターに乗り、三階で降りて、手術室と化学療法室の手
前にあるカンファレンスルームの扉を開くと、医師は温和な笑み
で曜子を迎えた。検査結果を曜子に報告する時も彼は例の明るい
顔を崩さなかった。
 「曜子さんの子宮は、どうやらセカンドステージに突入してい
る模様です」
 「いいんです。摘出か否かだけ教えてくれれば」
 曜子は、前の晩夢を見た。何度も何度も体重計に乗る夢だった。
 自宅の脱衣場で計測器を前に、何度乗り降りしても、自分の体
重がきっかり70グラム足りないのだった。なぜきっかりその重
さだけ足りないと判るか、曜子自身にも判らなかったが、妙な確
信で、それは決定的に足りないのだった。曜子はバスローブを脱
いだ。あらわになった姿態の下腹部に暗く底なしの穴が空いてい
た。父のことを思い出した。必死でなにか知識めいたものをその
穴に溜めこんでいたのに、気づけばそこには暗闇しかなかったに
も関わらず、父はそれでも曜子にとりえがあると断言した。それ
がどんなものなのか、言う寸前に命を奪われた父からはもう二度
とその答えを受け取ることが出来ない、その下腹部に開いた穴は
父の命と共に、自分のとりえまで奪い去られたその証のように見
えた。曜子は恐ろしくなって、計測器を降り、急いでベッドにも
ぐりこんで冷えた体を温めた。そこで夢は終り、曜子は目覚めた。
 「つまり、子宮摘出が必要なんですね」
 すでに、気持ちの準備は夢から目覚めた瞬間からできていたよ
うだった。曜子は動揺せずまっすぐ医師の目を見て言った。医師
は笑みを消し、「そうです」と頷いた。


(つづく)



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