連載小説 新


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 スバルと別れた後、曜子は学校に通い始めた。働きながら通え
るビジネススクールだった。
 道は碁盤の目のように敷かれていた。職場から曜子が通う学校
までは、幾通りも順路があった。そのうち最短の経路上に、スバ
ルの『アイス』はあった。曜子は、その最短の道を選ばなかった。
わざと遠回りして学校までの道を歩いた。
 就職活動をせず大学卒業を迎えた曜子は、アルバイトのような
身分で化粧品メーカーの売り子となった。毎日、化粧品を客に紹
介しながら、八時間立ち続けるのは骨が折れた。慣れない頃は、
寝る前にマッサージを施さねば、翌朝ふくらはぎが膨れ上がった。
そのせいで彼女の睡眠は大幅に削られた。おそらく職場放棄に一
ヶ月もかからないだろうと思う自分を曜子は情けなく思った。け
れど、決して居心地はよくなかったにも関わらず、彼女は一ヶ月
過ぎても、職場に通い続け、今ではアルバイト歴も四年目に突入
しようとしている。ふくらはぎはもう立派に成長し、マッサージ
の必要もない。
 マッサージを頑として拒否するふくらはぎを獲得した曜子は、
『アイス』開店一ヶ月を前に、スバルと別れた。踏み切ったのは
曜子だ。だが、別れた後、確固たる理由がないことに驚いていた。
すべてはなんとなくだった。
 なんとなくスバルに自分は必要ないのではないか。いや、そん
なことはとうの昔に解っていたことだ。かつてスバルが誰かを必
要としたことはないし、これからもないだろう。なんとなくスバ
ルと恋人であり続けるということは、自分を台無しにしてしまう
行為なのではないかと思う。いや、それだって、ミホを見ていた
自分にはわかりすぎるほどわかっているはずだ。スバルが相手を
損なう才能に溢れていると一番解っていたのは曜子だ。だから、
自分からはほとんど能動的に行動せず、ただ『恋人の椅子』に座
っている、それだけでいいという極意を実践していたではないか。
 理由を考えるのはやめよう、その辺で手を打っておこうと、考
えるのをやめ、曜子は自分のことを顧みた。地方都市の中流階級
家庭に生まれ、平凡に育ち、小学校を出た。「お前にはとりえと
いうものがあまり見当たらないからせめて勉強だけはしておけ」
という父の進言に心底共感し言うとおりにした。中学校でそこそ
この成績を収め公立の進学校に入学した。そして、そこでも、自
分に残された唯一のとりえは勉強だと信じ、国立大学を受験し合
格した。だが、曜子はスバルとは違い、定まった目的をもってな
にかに取り組むということは一度もなかった。今まで一度も感じ
なかったことが、にわかにおぼろげに、やがてはっきりと意識に
上り始めた。明確な目的を設けない勉強は、勉強とは呼べないの
かもしれない。もしかしたら、唯一のとりえである勉強は、勉強
とは言えないものだったのかもしれないと思い当たった。スバル
と共にいる時には、決してそんなふうに感じなかった。というの
も、スバルがそういった類の問題を感受する装置にぴったりと蓋
をしていてくれたからだ。そうだ、スバルと別れるつもりになっ
たのは、その蓋を開けてみたくなったからに違いない。そして、
いろいろと都合の悪いことでも、自分で引き受けてみようと思い
始めたからに違いない。
 ようやく腑に落ちて、曜子は、南北にのびる大通りを右に逸れ
た。すぐ隣の繊維街を抜け、ビジネススクールへと向かった。夕
方を過ぎ問屋が一斉にシャッターを降ろすと、繊維街はとたんに
閑散とした。曜子はその寂しさが嫌いだった。けれど、そこを通
らずビジネススクールにたどりつくには、どうしても『アイス』
の前を通りすぎなくてはならなかった。曜子は『アイス』より、
寂しさを選んだ。確かに、空気に触れるだけでひりひりするよう
な部位に蓋をしてくれる人間はどんな代償よりありがたいのだと
思う。油断をすれば、すぐに絡め取られ、安楽な気持ちに堕ちて、
スバルの蓋を自分の一部として勘違いしてしまうかもしれない。
だから、スバルにまつわることをできるだけ遠ざけることでしか、
代償行為から免れられないのだ、曜子はシャッターの閉まった繊
維問屋の一角にふと立ち止まり、この距離にして数十メートルの
遠回りがいかに自分に重要かを言い聞かせた。
 ビジネススクールの雰囲気は悪くはなかった。それまで曜子が
できれば遠ざけたかった快活で友好的で自分自身のことを本当に
うまく人に伝えられるような人物たちは、実際に接して見れば決
して嫌悪の対象ではなかった。彼らはお互いの関係を円滑に保ち
続ける才能に充ち溢れていたし、曜子がその関係の中にいる限り
何者かになれた気にさせてくれた。
 そもそも大学時代、文学部でお茶を濁した曜子になぜ経営学修
士取得などという大それた発想が生まれたかといえば、良くも悪
くも、スバルの影響にあると言えた。スバルがしてくれていた蓋
を開くと、そこには穴が空いていて、それまでの人生で経験した
いろいろなものが詰まっているはずだと思い込んでいた。けれど、
それは違った。スバルと別れたと同時に開いた穴は、正しくなに
もない空洞だった。おぼろげながら、そこにはそれまで培った勉
強の残滓くらい渦巻いているだろうと高をくくっていたのは間違
いだった。蓋の中の真っ暗な穴には、残滓もなにもなく、あれだ
け溜めたはずの知識は霧散していた。なるほど、知識は溜らず仕
入れたそばから消えるものだ、そう気づいた。仮にスバルにもこ
んな吹き溜まりのような穴があるとして、きっと彼はそこになに
も溜めはせず、ただのカバンのように使っていたのだろう。彼に
とっては得たものを出したりしまったりするカバンとしての穴な
のだ。曜子もそのようにしてみようと思い立った。そのためには、
それまで見向きもしなかったようなことに目を向けたり、気づき
もしなかったような場所へ赴いたりしなければならないと考えた。
その結果、曜子は、自分が選んだ今のビジネススクールは最適だ
ったと思えた。
 ビジネススクールでは授業ごとに議題を与えられ、レポートを
作成し、クラスメートの前でプレゼン行い、それに批評を加えら
れた。よく知らない他人から自分の考えや信念めいたものにケチ
をつけられる事など、おおよそ耐えられないと思っていたが、飛
び込んでみてすぐそれが愉快なものだとわかった。思ってもみな
かった意見がクラスメートたちから出ると、自分の見識が拡がっ
ていく実感が湧いた。不思議と四年もやっている売り子の仕事に
もあらたな発見をするようになったし、表情が明るくなった感じ
がすると職場の同僚にも指摘されるようになった。
 しかし、曜子は、自分でも驚くようなそんな新しい発見の毎日
をすぐに諦めなければならなくなった。
 スバルと別れ、ビジネススクールに通い始めて数ヵ月後のある
日曜日、普段めったなことで口をきかない父が珍しく曜子に話し
かけた。
 「曜子、車で送って行って欲しいんだ」
 たまに口を聞いたと思えば頼みごとかと曜子は疎ましく思った。
ビジネススクールの課題に追われていた。
 「悪いけど、忙しいの」
 「そうか」
 「どうして」
 「同窓会があるんだ。高校の同窓会。ホテルの大きな宴会場を
借りきって、先輩や後輩が集まるんだ」
 「電車で行けばいいじゃない」
 「でも、車に乗りたいと思ってな」
 「お酒飲むんでしょ、電車で行かなきゃだめよ」
 「わかった、まあ、あれだ、車で行って、駐車場に預けて、帰
りはタクシーで帰って来るとして、また取りに行けばいい」
 「どうして、そんな面倒くさいことするのよ」
 「うん」
 そう行ったきり、父は曜子の部屋を後にするでもなく、所在な
さげにしていた。
 「曜子、駄目か?」
 根負けして、資料を閉じ、出かける用意をする曜子の背後で父
は自分の手を見たり、タバコを吸いかけたり、気忙しく待った。
 やけに信号につかまり曜子はいらいらした。やがて大通りに出
ると渋滞に捕まった。車列はのろのろと進み、交差点ごとに停ま
った。そのたびごとに二車線道路の右側には屋根に脚立を積んだ
工事車輌が並んだ。運転している作業員が考えていることを曜子
は想像した。
 『サンデードライバーはみな死んでしまえ』
 きっとその呪いは曜子にも向けられているものだ。自分もすす
んで運転したいわけではない、父が悪いのだと、心の中で言い訳
をしていた。
 耐えかねたように父が話しだした。
 「最近、なにか変わったことはないか」
 その言い方があまりに取り繕った口調に聞こえ、思わず、ブレ
ーキを強く踏んでしまい、父が前につんのめった。
 「嫌味だったらやめて」
 「なにか嫌味に聞こえたかな」
 「傍から見ても変わったことだらけでしょ、今の私」
 「そうだな」
 「そうだなって」
 「渋滞が曜子をいらいらさせるんなら、裏道を行こう、父さん、
近道を知ってるんだ。そこを左に曲がろう」
 ハンドルを強く握り締めていることに気づき、曜子は力を抜い
た。父の言う通りの道を行くことがなんとなくためらわれた。い
いなりになることが、今の自分をいらいらさせているのだと思っ
ていたからだった。だが、だらだらと長引かせるよりは、父のい
いなりになってでも、この間延びした時間を早めることに徹した
方がいいと思った。曜子は隣を並走していた作業員に後ろ髪引か
れながら、父の言う近道へ入った。
 「勉強をしろ、他にとりえがなさそうだからと、言ったことが
あったな」
 父が言った。曜子はその口調から父の感情が読みとれないでい
た。曜子は、なんとなく、父がなぜ今日自分に送迎をああまでし
て頼んだのかわかった気がした。
 「あれは間違いだ。長い間すまなかった。勉強をした方がいい
というのは、本当だ。だけど他にとりえがないというのは、間違
いだ。君にはとりえがある」
 曜子はアクセルを緩めた。住宅街に入っただけで道は閑散とし
た。その辺りの道も通学路と同じく碁盤の目に通りが渡り、一方
通行と一旦停止が交互に現れた。渋滞がウソのようだった。公園
の木々は間もなく葉を散らすだろうと曜子は思った。車をゆっく
りと走らせながら、なにかすっきりしない空の下で色づき始める
申し訳程度に埋められた街路樹の葉を眺めた。これから徐々に寒
くなる、経営学の授業の中で、夏に店舗を開店する場合と冬に店
舗を開店する場合では、夏の方が圧倒的に有利だと言うようなこ
とを発表していたクラスメートがいたことを思い出した。スバル
の店は大丈夫だろうかと思った。それよりも、無事に『アイス』
は椅子を置けただろうか、そんな心配も余計なお世話なのだろう
か。裏道に入ってから、父の案内に行き先を預け、曜子は車を走
らせ続けた。とりえとは一体なんだろう、それは人より秀でてい
ることであり、自分が自慢できることであるはずだ。けれど、そ
れは自分では決められない。自分が何かに秀でていると考えても、
他人はそう考えない場合が多い、だとしたら、かつて父が言った
ことは間違ってはいない、なぜなら曜子は誰かになにかを秀でて
いると言われたことは一度もなかった。だから、勉強したのだ。
父は、それを示唆してくれた。その示唆を守った。それをいまさ
ら反故にしようと言われても、ピンとこなかった。怒りさえ湧か
なかった。
 「とりえね、私のとりえは一体なんなんだろう」
 父は少し待って、答えた。
 「それは」
 その瞬間、父の言葉がフロントガラスに吸い込まれた。曜子が
一旦停止を守り、ゆるゆると交差点に車を進ませた時、左側から
爆音が曜子の耳をつんざいた。一方通行の道を猛スピードで走り
来たワンボックスカーが激突したのだった。そのまま曜子の車は
くるりと反転し、電信柱にボンネットをくいこませた。気づいた
時、曜子の右足のすぐ前を車体のアルミを引き裂いた電信柱のコ
ンクリートがむき出しになっているのが見えた。あと少し衝突が
遅ければ、自分の足が電信柱にすげ変わっていたかもしれないと
考えた途端、恐怖がやってきた。曜子は衝撃で朦朧としながら、
事態を把握しようと試みた。そうすればそうする程、意識が遠の
いた。必死の思いで首を動かした。自分の左側は、爆音がしてか
らというもの、ドア枠の部材やダッシュボードのプラスチック、
窓ガラス、シートのウレタンやらがミキサーでかきまぜられたよ
うな混沌となり、瞥見しただけではうまく像として処理できずに
いた。父はどうしただろうと思い当たった。ふとシフトレバー辺
りを見ると、父の手があった。かろうじて手だとわかるだけで、
それは真っ赤に血にまみれ、あらぬところで折れ曲がり、ぴくり
とも動いてはいなかった。自分が生きているという実感が痛みと
共にやってきて、自分が生きているから当然父も生きているのだ
という感覚が錯覚だと判り始めた。自分は生きているが、父は死
んでいるかもしれない、そして、徐々にその予想が現実味を帯び
始めたのは、曜子が動かぬ首を無理矢理もっと左に向け、ようや
く父の顔が見えたからだった。父は、耳から血を流し、舌をだら
っと伸ばしたまま、弛緩していた。首をシートベルトとヘッドレ
ストが締め上げ、目は今にも飛び出さんばかりに見ひらかれ、そ
のすぐ向こうにワンボックスカーの割れたヘッドライト部分が見
えた。曜子は首を元に戻した。そうして助けが来るのを、今出来
る限りの安楽な姿勢で待った。

(つづく)



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