連載小説 新


      1

 「今朝、ベッドの中で閃いたんだ。このバーに置くならファネ
ットチェアしかない」
 まだ客の手垢がついていないバーカウンターに肩肘をつき、ス
バルは言った。まるで一人で宝物を探しにいって、一人で掘り当
て、一人で喜んでいるように言った。
 『まだ宝物は見つかっていないでしょ』
 曜子は心の中でつぶやいた。
 開店準備を整え、一ヶ月後の開店を静かに待つバー『アイス』
にはまだ椅子だけがなかった。
 半年前、スバルは融資を取りつけるため銀行を訪れた。スバル
が用意した事業計画書は綿密そのものだった。立地調査から割り
出した客足の多寡から予測されうる客単価とそれに基づく原価設
定と収支予測、果ては料理やカクテルの詳細なレシピに至るまで
詳細にかつ簡潔にしたためられた事業計画書に目を通すと融資担
当者は舌を巻いた。勤務実績もないスバルに融資決済が下りたの
は、あまり先例のないことだった。開店資金を手にすると、微塵
の妥協も許すことなく、たった一人でスバルは開店準備に取り掛
かった。入社三年目を迎えた大学の同級生たちの顔が、日に日に
亡霊のようになっていくのを尻目に、スバルの顔は前にも増して
輝いた。大学三年の時に突如言いだした「五年以内にバーを持つ」
という、スバルにとってはさほど困難そうでもないが、とはいえ
当時の曜子たちにしてみれば途方もないと思われたことを、彼は、
今、やり遂げようとしている。

 スバルが「バーを持つ」と宣言した時、同級生たちはそれぞれ
に惜しんだ。バーのマスターという仕事を蔑むつもりはなかった
が、スバルはもっと役立つ人間になるべきだと仲間の誰しもが考
えていた。
 曜子は『惜しい』と心の中でつぶやいた。いずれスバルはひと
かどの人物になるに違いないと、同級生達と同じく曜子も考えて
いた。優良企業に就職するか、官僚になるか、ゆくゆくは政治家
か……。いずれにしろ自分はなんとなくスバルの妻の座に収まり
悠々自適な生活を送ると曜子は当たり前のように考えていた。だ
が、そんな未来はやってこないことになった。「バー」を持つと
言いだしたら、何がなんでもスバルはそうするだろう。だから、
あえて曜子は「バー」を諦めさせるような反論もしなかった。ス
バルは何かを決めたら、たとえなにがあってもそれを実現させて
きた人間だし、実現させるためには時には人に非ざるような行為
だって厭わないと、曜子は充分すぎるほど知っていた。曜子の乏
しい論理性でスバルを転向させようとしても、時間の無駄なばか
りか逆にいかにスバルの「バーを持つ」という考えが、スバルと
曜子の関係において素晴らしいかを納得させられてしまうのは目
に見えていた。だから、曜子は『惜しい』という言葉を口にしな
かった。
 その時だけではない。それまでも、それからも、曜子はスバル
に対して何かを意見するということを徹底的にしなかった。能動
的に彼になにかを働きかけることも一切しなかった。スバルの一
挙手一投足を眺め、受け入れ、随伴する、それがスバルの恋人で
いられる条件だった。
 そんなスバルに対する曜子の接し方をいびつだとあからさまに
指弾する友人もいたが、曜子には的外れな意見にしか聞こえなか
った。自分がスバルの一番の理解者だという自負が曜子にはあっ
た。スバルと幼馴染だったおかげで曜子はスバルをスバルたらし
めるその行動をいくつも目にすることができたのだ。

 中学一年生の夏休みのことだった。スバルは、自由研究のため
に『蟹の生態』というタイトルを掲げると、それまで貯めていた
お年玉やお小遣いを注ぎこみ、ケガニを始めタラバガニ、ズワイ
ガニ、ワタリガニ、果てはチュウゴクモクズガニ(別名:上海蟹)
までを仕入れ、数週間にわたって毎日蟹を喰らい続けるとともに
詳細に分解し観察した。それらを喰らい尽くすと今度は、海沿い
に住む伯父の家にホームステイし、日夜蟹を追い、蟹と戯れ、や
がて研究結果をしたためた。夏休みが明け、スバルから『蟹の生
態』と名付けられた自由研究を渡された担任は、それを読むと、
勝手に出版社主催のサイエンスコンクールに応募してしまった。
スバルの『蟹の生態』が公立中学校のただの夏休みの宿題として
終わってしまうのは、いかにも惜しいと担任は思ったのだった。
三ヶ月後、『蟹の生態』が内閣総理大臣賞を獲得したという知ら
せが中学校に届いた。教師たちは開校以来の快挙と騒ぎ立てたが、
スバルは喜びもしなかった。すでに彼は蟹に対して興味を失って
いた。
 スバルの興味は蟹からバスケットボールに映っていた。スバル
は県下でも弱小で知られていたバスケットボール部に単身乗り込
んだ。独善的なやりかたでチームを鍛え、チームを県大会優勝に
導くと、またもや教師たちから称賛を受けた。だが、彼は全国大
会一ヶ月前、すっぱり退部した。周囲は慰留しようと努めたが、
スバルには通用しなかった。
 スバルが次に興味を向けたのは図書館の本だった。本棚の端か
ら順番に読み始め、卒業の頃には、ほぼ三分の二の蔵書を読破し
ていた。
 誰かが、そんなスバルの興味の変遷を「帝国主義的」と評した
が、曜子は言い得ていると思った。
 高校に入ってもスバルの帝国主義的興味が止むことはなかった。

 そしてついにスバルは異性に興味を向けるに至った。
 容姿としても隙のないスバルだったから、恋人はすぐにできた。
スバルの初めての恋人はミホという曜子の親友だった。背が高く、
小学生の男子みたいな体系の女らしくない女だった。高校生にな
るまで男子に興味を持ったことがないと断言するミホだったが、
スバルから恋人にならないかと持ちかけられると、すぐに了承し
た。
 スバルはその時点で性的な経験がなかった。周囲の男子が生活
のすべてをかけて性的な行為の成就を果たそうとし、幾人かは成
功を収めていた。だが、スバルは自分がその気になれば、随分た
やすいことなのに、まるで見えていないかのように性的なことと
は無縁だった。スバルは興味のないことは徹底的に興味がなかっ
た。たとえ周囲にとっていかに大切なことであっても、興味がな
ければスバルは路傍の石のように扱った。
 だが、ミホと恋人となって一週間もすると、スバルは正式にセ
ックスの申し出をミホに通達した。それまで、自慰ですらまとも
にしたことがあるか疑わしかったスバルがようやくそこへきて性
的なことに興味を持ったのだった。
 スバルは、「蟹」や「バスケットボール」や「図書館の本」と
同じようにセックスに向き合った。その夏、ミホはスバルと来る
日も来る日も日がな一日セックスに没頭した。始めミホは、それ
が恋人らしい営みだと考えるようにした。だがスバルとするセッ
クスがあまりに求道的過ぎるために、自分がいまセックスをして
いるのか、はたまたなにか武道や哲学的思索にいそしんでいるの
か見当がつかなくなってきた。確かに、日を追うごとにスバルの
性的技術は磨きがかかり、始めは股に違和感しか感じなかったミ
ホも次第に快楽らしきものの糸口をつかんだが、それはミホが考
えていた恋人らしい営みとは程遠いものだった。ミホは何度かス
バルにセックスはセックスでいいから、恋人的デートをしたいと
提案した。だがスバルはその提案を受けいれなかった。スバルの
興味は、恋人的なにがしかにはまったく向っていなかった。ただ
純粋に、女の身体を生きながらにして解剖し、どこをどうすれば
エクスタシーに至るのか、そして男女の肉体をどう打ちつけ合え
ばお互いを快楽に導きあえるのかという性愛の技術にだけ、スバ
ルは注力していた。
 ミホはやがてノイローゼになった。そのせいでミホの親友であ
る曜子は彼女の悩みに付き合わされる羽目になった。
 「セックスってなにかね? 恋人って何かね?」涙を浮かべな
がらそう聞くミホに、曜子は心の中で答えた。『知るか』
 いわゆる普通の人間にとってスバルは劇薬のようなものだと考
えたミホは、とうとう決断した。思えば一度として同じセックス
はなかった、その点においてはミホはスバルを尊敬した。その尊
敬が「恋人的」であればどんなによかったかとミホは思った。そ
して360回目くらいのセックスを終えると、ミホは恋人関係を
解消しようと提案した。
 スバルは、体液を処理しながら、よほど簡単にその提案を受け
入れた。既に一人の女性との性愛は充分に極めたとスバルは考え
ていた。
 ミホと別れると、極めた技術がどれだけのものかを確かめるべ
く、スバルは法律の許す限りのあらゆる世代の女性に声をかけ、
性交渉を持った。スバルのパートナーとなった女たちには、一人
として同じ嗜好を持ったものはいなかった。しかし、新たな女と
会うたびにスバルの技術は刷新されたのだった。
 その一部始終を曜子はスバルが執筆した論文のようなもので知
った。スバルは、それを曜子に読ませ、意見を求めたのだった。
曜子は、その論文に書かれていることの二割ほども理解できなか
った。論文のようなものは、下半身にまつわると予想される難し
いタームで彩られていた。処女である曜子に到底想像のつかない
行為の数々が書かれていたし、それが本当に人間に許される行い
か否か、曜子には判別できなかった。だから、意見を求められて
も、曜子には仕方がなかった。けれど、曜子には、スバルがどう
いうつもりで、それを曜子に読ませ意見を欲しているのか、よく
わかっていた。なにか示唆に富んだ言葉が聞きたいのではない。
ただ、読んだ反応が視たいのだ。その証拠にスバルは、曜子がペ
ージをめくる間中、傍から離れなかった。曜子は、最後まで読み
終わり、心の中でこう反芻した。『このキチガイめ』。その言葉
は、決してスバルを貶めるものではない。けれど、曜子はそれを
直接スバルに伝えることはしなかった。いずれ自分はスバルの恋
人になる、曜子はそう決めていた。そうなるためには、スバルを
よく観察しなければならない。そしてどう接することがスバルの
恋人として最も適当か、曜子は分り始めていた。だから、曜子の
言葉を待っているスバルに対して、できるだけ笑顔で、「よくで
きてるね」と、彼女は言った。
 事実、曜子はそれから数ヵ月後、スバルの恋人となった。

 それからいくつか変遷を経て、スバルの興味は『バー』にたど
りついたというわけだ。
 『バーを持つ』と決めてからの彼のスピリッツやカクテルに関
する研究も、それまでの数々の『研究』と同様、余人の追随を許
さなかった。試作品としてスバルが作ってくれたカシスオレンジ
は、それまで曜子が居酒屋で飲んでいたどのカシスオレンジとも
違った。味は天と地の差にも等しく、スバルのカシスオレンジは
まさに極楽の飲み物だった。カシスオレンジの他にも、まだまだ
研究の余地が残されていると思われるジントニックやモスコミュ
ールなどといったカクテルを、スバルはスバルなりのアプローチ
で再構築し、全く新しい飲み物に仕上げていった。そのどれもス
バルは曜子に意見を求めた。そのたびに曜子は笑顔を浮かべ、
「よくできてる」とか「おいしい」とだけ答えた。そんな愚にも
つかない意見のどこがスバルを満足させるのか曜子にはわからな
いが、とにかく曜子の意見はスバルをある種の安定に導いている
らしかった。
 そして今日もスバルは曜子に対し椅子についての意見を求めた
のだった。
 「今朝、ベッドの中で閃いたんだ、このバーに置くならファネ
ットチェアしかない」
 曜子はその「ファネットチェア」なるものがどんなものかわか
らない。わからなければ、座り心地がよいとも、バーの雰囲気に
あっているとも答えられなかったので、曜子はひとまずそれがど
んなものか知る必要があった。
 「それはどんな椅子なの?」
 「ファネットチェアと言っても、僕が欲しいのは、コムバック
ウィンザーチェア型なんだ。ファネットチェアにはボウバックも、
バーバックもあるけど、主流はコムバック、更に背面スポーク六
本仕様と七本仕様がある。僕は六本が美しいと思うね。余分なも
のをそぎ落としているぶんね。17世紀末、イギリスに登場した
ウィンザーチェアは海を渡り、アメリカで進化するわけなんだけ
ど、主に中流階級、とくに旅宿や酒場なんかで使われていた。そ
れこそおびただしい酒客たちがウィンザーチェアに座り酒を消費
したというわけさ。フィンランドのアアルトの元でキャリアをス
タートさせたタピオヴァアラはその後、パリのコルビジェの元を
訪れた後、更にミース・ファン・デル・ローエのいるシカゴに渡
った。おそらく、タピオヴァアラはアメリカで英国調ではないシ
ンプルなウィンザーチェアに出会ったんじゃないかな。そしてお
そらくは、その椅子に座って酒を傾けた。そしてこう考えたんだ。
フィンランドの家庭でもこの美しく機能的なウィンザーチェアが
使われるべきだ。だからタピオヴァアラはファネットチェアをデ
ザインした。初めエズビーヴァルカン社で製造させたんだけど、
またたく間に他社がこぞってコピー品を出した、それほどファネ
ットチェアはフィンランド国民に受け入れられたんだ。タピオヴ
ァアラは粗製乱造に心を痛め製造権をすぐに取り戻し、古巣のア
スコ社での製造を開始した、厳格に製品管理をするためにね。け
れど不幸なことに、70年代に入って製造はストップしている。
理由はわからない。どんな理由であれ、惜しいと思うよ。ドムス
チェアやピルッカチェアは今でもアルテック社が製造してるとい
うのに。ファネットチェアは日本のショップがヨーロッパで掘り
起こして来ても、すぐに売れてしまうんだから。どこかが復刻す
ればいいと思うんだけど、なにが問題なのかな。いずれにしても、
いかめしいアンティークなウィンザーチェアはここバー『アイス』
には似合わない。とはいえ、ウィンザーチェア以外にこの『アイ
ス』に似合う椅子はない。タピオヴァアラのファネットチェアは
その矛盾を満たす唯一の椅子だという答えに僕はたどりついたん
だ。バーにとって椅子は、その背骨のようなものだと考えてる。
ある人はカウンターを背骨だと言うだろう。ある人は、カクテル
のレシピだと言うかもしれない。でも、僕にとっては椅子だ。な
ぜなら、客の体に一番広く、一番長く触れているものだからね。
しかも、椅子というのは、椅子学というものがあるくらい奥が深
い。道具としての椅子の歴史はとても古いんだよ。人間工学的見
地から言っても、文学的な表象文化的見地から言っても、椅子は
とても思想に良く似ている。このカウンターは五千六百ミリ、客
一人あたり一メートルは充分余裕を見るとして、五脚、いや六脚
は欲しいところだな」
 曜子は、『そんな希少な椅子を開店までに五脚も、六脚も用意
できるんですか』という心の声を抑えた。代りに彼女はこう言っ
た。
 「ねえ、スバル、私たち、別れようと思うんだけど」
 その言葉がスバルの長い演説を聞いて思いついたものか、それ
ともあらかじめ用意してあったものか、スバルにも曜子にもわか
らなかったが、ともかくその時スバルは、長年彼を見てきた曜子
でも見た事のないような驚いた顔になった。即座にスバルはそれ
を隠した。隠した分の驚嘆は代わりに「ああ、いいよ」と、かす
かに震える言葉に現れた。
 曜子は、心の中と今現実に口にした言葉のどちらが本心か反芻
してみた。心の中では、まだそれほどスバルと別れたいと思って
いないようなのだが、すでに言葉は放たれ、相手に届いてしまっ
ていた。そして、スバルが「ああ、いいよ」と言った以上、承認
はもう済んだ。
 曜子はこう思った。『自分とスバルは恋人関係を解消するが、
スバルなら大丈夫だろう、きっとなんとしてもその『ファネット
チェア』という椅子を必要な分だけ、この『アイス』の開店に間
に合うよう用意するだろう。自分がスバルの言動に及ぼす影響は
今までこれっぽっちもなかったのだから、これからもおそらくな
い。だから、スバルにとって、曜子が恋人であるか、そうでない
かは大した問題にならない』
 それでは曜子にとってはどうなのか、スバルと恋人であるか、
そうでないかは、大した問題なのか否か。
 『たいした問題じゃない』曜子はそう結論付けた。

(つづく)



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