漢字兄弟


第七回

2、プルゼワルスキー

 タロウは知らなかった。モウコノウマが、英名ではプルゼワル
スキーズホースと呼ばれるということを。しかも同時にプルゼワ
ルスキーとは、モウコノウマの英名というだけでなく、モウコノ
ウマを最初に命名したヨーロッパ人その人の名であることも、タ
ロウは知らなかった。ついでに言えば、プルゼワルスキーは、そ
の名をニコライと言い、19世紀、革命前夜の帝政ロシアに生ま
れ、地理学者として中央アジアをまたにかけた探検家であること
も知らない。
 ニコライ・プルゼワルスキーは、合計四度の探検を試みている。
バイカル湖の南に位置する清との交易都市キャフタを拠点に、外
蒙古から天山山脈、ゴビ砂漠や、遠くはチベットまで、新疆地区
のほとんどくまなく、彼は調査した。探検を通じプルゼワルスキ
ーは、ヨーロッパにおいて未発見であるところのおびただしい植
物や昆虫や哺乳類を発見した。その中の一つに、モウコノウマが
あったというわけだ。当時、すでに絶滅したと信じられていた野
生の馬が、未開の外蒙古の地に、か細くだが、生き残っていたこ
とにヨーロッパ人は驚いたわけだが、後年、モウコノウマ=プル
ゼワルスキーは、絶滅の危機に瀕することになる。
 高度に発達した文明に裏打ちされた帝国主義の犠牲になったの
は、なにも植民地下の人間だけではなかった。人間以外の動物た
ちもまた手痛い仕打ちを受けることになったのである。モウコノ
ウマも例外ではなかった。
 かつて、動物商人と呼ばれる人々がいた。まだヨーロッパ人が
目にしたことのない未開地の動物をせっせとヨーロッパに運び、
動物園を開いたり、富裕層の好事家達に売りつけたりして巨万の
富を手に入れた人々である。1900年、もっとも成功した動物
商人の一人、カール・ハーゲンベックによって、13頭のモウコ
ノウマがヨーロッパにもたらされた。それを皮切りに、モウコノ
ウマは、他の動物商人たちに乱獲され、時に狩猟の対象にされ、
当時世界中のいたる場所で行われた軍事的紛争に巻き込まれ、次
第に数を減らしていった。1950年代に行われた調査では、モ
ウコノウマは、世界に、たった13頭しか残っていないという事
実が判明した。そのいずれもハーゲンベックによってヨーロッパ
に持ち込まれたモウコノウマたちの子孫であった。つまり、本来
の生息地であった新疆地区には、ただの一頭も、モウコノウマは
残っていなかったのである。
 1980年に差しかかり、ポストコロニアルの時代になると、
帝国主義時代の反動か、エコロジーや共生が盛んに叫ばれるよう
になり、絶滅危惧種保存活動も活発に行われることとなった。そ
して、モウコノウマは復活した。残った13頭を交配・繁殖させ、
新疆地区へと戻し、現在では数千頭にまでその数を増やすにいた
ったのだ。皮肉なことに、モウコノウマがかろうじて絶滅を逃れ
たのは、絶滅の端緒を開いた動物商人、ハーゲンベックのおかげ
だったのである。
 だが、繰り返すが、タロウは、そんな事実をこれっぽっちも知
らない。日本を出発する前、いくらネットで『モウコノウマ』を
検索しようが、そんな事実は出てこなかったし、ましてや、タロ
ウはネットに疎い。だから、知る由もない。
 タロウが知っていることと言えば、モウコノウマが、世界に現
存する唯一の野生のウマであるということだけだった。この『唯
一の野生のウマである』ということに、疑義を申し立てる者もあ
ろうかと思われる。では、アメリカ大陸に生息するマスタングや、
宮崎県に生息する御崎馬は野生ではないのか。しかし、モウコノ
ウマとの決定的な違いは、マスタングも御崎馬も、家畜が野生化
したものだという点にある。そもそもモウコノウマはその気性の
荒さゆえに、家畜化は困難なのだ。だから、前述の疑義は的外れ
だといえる。その上、タロウが頑なに野生種のウマはモウコノウ
マだけであると信じていても、それは決して間違いであるとは言
えない。
 そして、タロウには、モウコノウマに関するただ一点の知識し
か持っていない代りに、大きな目的があった。
 『モウコノウマ』の尾毛を入手するという目的である。
 いま、タロウは、北緯47度、東経88度の地点辺りをうろう
ろしている。それは、中華人民共和国の西端、新疆ウイグル自治
区、その中でも北端、イリ・カザフ自治州のそのまた最北部、ア
ルタイ地区周辺を意味する。タロウは今、南に砂漠を望み、乾い
た空気の中、国道216号を北上している。目にするのは限りな
く開けた大地と遠く望むアルタイ山脈、そして空だけである。
 東京を出発して二日、タロウが目にする景色は一変した。成田
空港から北京空港までの航空券は手配したが、そこから、ウルム
チ空港を経てアルタイ空港に降り立つまでが難儀だった。英語が
満足にできないタロウだったが、そもそも西に行けば行くほど英
語が通じないのだから、大したハンディにはならなかった。なん
とかウルムチ空港経由アルタイ空港行きのチケットを手配するの
に、タロウは何人もの見知らぬ旅行客の力を借りねばならなかっ
た。ウルムチ空港は新疆ウイグル地区のターミナル空港である。
そこはれっきとした中国のハブ空港のはずだ。だが、すでに北京
を出発し、ウルムチに到着したころから、タロウにまとわりつく
空気は変わっていた。日本人には、自治州が寄り集まり国を形成
しているという雰囲気がいまいちつかめない。確かに、そこは中
国と呼ばれる国の一部かもしれない。だが、北京で見た風景とは
まったく趣を異にしていた。大きな力でさまざまな民族や文化を
一つにする国家とはいかなるものか、およそタロウには想像がつ
かない。肌で感じることが出来るだけだ。新疆で目にする人々は、
北京で触れあった人々とは、そもそも容貌が違う。タロウがイメ
ージする典型的なアジア人の容貌というよりは、中東の人々のそ
れに近い。いや、それだけではない。中にはロシア人のような容
姿をしている人もいれば、あきらかに漢民族もいる。そんな人間
の顔だけをとっても、そこが文化の緩衝地帯なのだということが
タロウには肌で感じられた。
 ただタロウはここに文化人類学のフィールドワークに来たわけ
でも、かつてプルゼワルスキーが行ったような探検をしに来たわ
けでもない。ただ、モウコノウマの尾毛を手に入れに来たのだ。
 タロウの身なりはまさにバックパッカー然としている。東京を
出発して以来、一度も着替えていない衣服は、いかに体臭のすく
ない日本人といえど、そろそろすえた臭いを発し始めていたし、
神保町の登山用品店で買った海外アウトドアブランドのリュック
サックは予想に反して新疆ウイグル地区を歩きまわるのに、いさ
さか場違いである感が否めない。とはいえ、その土地の人々がバ
ックパッカーを目にして、「また、例のあれか、自分探しか」と
思う程には、彼らはそういう人種と接することに慣れてはいなか
った。つまり、バックパッカー自体、この土地を訪れることは余
りなかったと言っていい。
 ここで、少し、留意しておかねばならないことの一つに、タロ
ウが探しているのは、世のバックパッカーのほとんどが探してい
ると思われる『自分』ではないということにある。つまり、タロ
ウは『自分探し』のバックパッカーではない。目的は、自分では
なくモウコノウマなのであり、もっと正確を期するなら、モウコ
ノウマの尾毛探しのバックパッカーなのである。
 しかし、なぜタロウがウマの尾毛にこだわるのか、それも、希
少種であるモウコノウマの尾毛でなければならないのか、そもそ
も尾毛を手に入れて何がしたいのか。それはタロウが一体何もの
であるのかをひもとかねばならないと思う。
 それは単なる思いつきが始まりだった。




  (つづく)



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