漢字兄弟


第六回

 気分がすぐれなかった。朝、ベッドから起き出す時も、大学の
教室を出る時も、食事をする時も、体から一瞬遅れて魂が後から
ついてくるような感覚が続いた。後ろを振り返れば、自分の分身
を見つけられるような居心地の悪さで、ぼくは本屋にたどりつい
た。
 長勢さんは、口笛を吹きながら、床を掃いていた。本心を悟ら
れないことがぼくの得意技だと言い聞かせ、「代わります」と、
長勢さんからほうきを受け取った。
 「ああ、じゃあ、お願い」と、長勢さんはレジへと戻っていっ
た。
 いつもと、なにも変わらないはずだった。
 掃除を終え、本の整理までやってしまおうと決めて、レジを見
た。長勢さんが伏し目がちにタバコに火をつけた。
 改めて本棚に向った。平積みされたトマスピンチョンの表紙に
貼られたポップがゆがんでいた。
 『すべて知っている言葉で書かれた、まったく知らない物語』
 長勢さんが『重力の虹』に向けて書いた惹句だ。この惹句に誘
われ、読めもしないピンチョンを買っていくばかな客もいるのだ。
ぼくもその一人だ。とすると、もしかしたら、ピンチョンよりも、
長勢さんの方が、ずっと上等なのかもしれない。
 ゆがんだポップを直していると、店を出ていく気配を感じた。
レジを見ると、長勢さんの姿はなかった。悪い予感がした。
 レジに戻ると、主人を失ったタバコは煙だけを上げていた。そ
れを揉み消し、表へ出ると、通りを駆けていく長勢さんの後姿を
とらえた。
 放っておけば、今度は岐阜県まで行きかねない。特に彼を連れ
戻さなければならない義理はなかったが、ふと、ぼくはまだ答え
をもらっていないことに気づいた。
 長勢さんの足は思いのほか速く、ようやく追いついたのは最寄
駅の鉄橋の上だった。
 「長勢さん」と、呼びかけると、彼は足を止めた。そして振り
返り、すでに恐慌者の表情で、ぼくの眼前まで戻ってきた。
 「困りますよ」
 「何が困る。本屋に一人取り残されることか、それとも、僕が
なにも答えないからか」
 「両方ですよ」
 「俺は、逃げる」
 そう言って、長勢さんは、鉄橋を囲うフェンスに手をかけた。
 「あ」と、声が出た。
 不思議そうに長勢さんは、「なにか、おかしいかな」と訊いた。
 「いえ、おかしくありませんよ」
 ぼくは、長勢さんがそれからなにをするのか、見届けるように、
動かずにいた。憎しみか憧れかどちらともつかないドロドロとし
たものが、のど元にひっかかって、それがぼくを動じさせなかっ
た。
 鉄橋の下を列車が行き過ぎ、リズミカルに轟音を鳴らした。長
勢さんはフェンスをよじのぼった。
 「ミチオ君も、どっか行っちゃえば。そうだな、老人少年には、
イギリスが似合うと思うよ」
 そう言い残し、長勢さんはフェンスの向こう側へ身を投げた。

 線路沿いに立つと、赤い電車が過ぎ去るごとに、風が巻き起こ
り、鉄サビが舞いあがるような気がした。細い道を挟んで建つ鉄
工所がぼくの家族が暮らす場所だ。空き地に転がる鉄の端材は始
終雨にさらされていた。酸化した鉄の粒子があたりに巻き散り、
電車の巻き起こすつむじ風で舞い上がる気がするのだ。それは幻
かもしれない。いや、幻だ。
 長勢さんについて、警察から長い事情聴取を受けた。何度も同
じことを繰り返し聞かれ、それは深夜に及んだ。
 長勢さんは、腕とあばらと足の骨を折り、病院に収容された。
どうやら頭の方は無事らしく、ICチップの存在は誰にも知られ
ずに済みそうだった。
 工場の入口に立ち、何本も何本も電車が行き交うのを眺めた。
時には、ぼくの目の前で上りと下りの列車が交叉した。そして、
そのたびに、ぼくは目の前に赤いサビが舞いあがる幻を見た。
 ぼくは不必要に鉄粉を怖がっていた。それを吸って祖父は塵肺
になった。血痰を吐きながら、それでもタバコをやめずに鉄を扱
った。祖父の代からここで働くヤスさんも、同じく、塵肺で喫煙
者だ。
 昨日、父はヤスさんを、ふった。ちょうど理子がぼくをふった
ように、そして、ぼくが理子にしたように、ヤスさんも父に懇願
した。だが、ヤスさんの懇願の裏にある決意は、ぼくのそれの比
ではなく、なにしろ恋と生活では必ず生活が勝つわけで、まだ体
はうごくし、腕もなまってはいない、晩婚の末できた子供はまだ
学校を出ていない、とにかく養わなければならないことがたくさ
んあると、ヤスさんは鉄サビと鉄粉にまみれた鉄工所の床に膝を
ついた。
 ヤスさんの懇願を父は充分に理解できたはずだ。だが、父もま
た、自分が背負う養うべきことがあると、ヤスさんを諭した。そ
して、また同じく、理子がしたように、なにか汚れたものを見る
ような目でヤスさんを見つめた。
 ヤスさんが鉄工所を辞めさせられた次の日、ぼくは長勢さんの
言葉に従って、父に渡英を申し出た。ついては、渡航費用と生活
を賄ってもらうように頼んだ。生え抜きの従業員を辞めさせなけ
ればならないほど困窮している父が、我が子のそんな要求をすん
なりのむわけがないとわかっていただけに、もともとそこまで本
気というわけではなかった。だが、父は、後日、「勉強して来い」
と、一言添え、金の入った封筒を、ぼくに渡した。
 それは、もしかしたらヤスさんが受け取るはずの退職金だった
のかもしれない。そう思うと、にわかに予想が真実味を帯びはじ
め、その考えはぼくにまとわりつき続けた。父はヤスさんに渡す
はずの退職金を踏み倒し、それをぼくにくれたのだ。ぼくは、こ
の金をヤスさんに渡すべきだろうか、それとも、長勢さんの答え
通り、イギリスへと渡るべきだろうか。いや、この考え自体、長
勢さんの影響下にあるのだ。妄想に執りつかれているだけだ。ぼ
くは、金を持って、航空券を手配した。できるだけ、なにも考え
ずに。




  (つづく)



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