漢字兄弟


第五回

 痛手を隠しとおす自信はあった。車の運転もいつも通りできた
し、食欲も人並で、夜は不思議と寝付きがよかった。
 これならぼくの記憶する限り唯一の醜態を誰にも悟られること
はないと油断していたのだろうか。いつのまにかどこかにヒビが
入り、長勢さんは、巧妙にそのヒビを見つけ、こじ開け侵入した。
 「どうして」と、ぼくが問うと、長勢さんは、ヘアバンドを外
し、額の傷をぽんぽんと指で叩いてみせた。
 いつのまにかジュークボックスはデイヴブルーベックに変わっ
ていた。長勢さんが愛してやまない『いつか王子様が』が流れた。
 「ミチオくんの方でも、彼女のこと、あんまり好きじゃなかっ
たんだろう」
 ぼくは、この際、黙り続けようと決めた。
 長勢さんは、続けた。
 「だって、好きで好きでしょうがない男の態度じゃないもんな、
ただ、好きでいてもらえなかったということが我慢できないだけ
のように見えるよ。ところでさ、ミチオ君、やけに店長のこと、
好んでるよね」
 長勢さんの話の先が見えずにいた。ただの世間話のつもりなの
かもしれないが、それにしては、ぼくにとって真に迫る内容だっ
た。
 「唯一、認められた気にさせてくれるのかな」
 すぐに決心は解けた。
 「どういうことですか」
 「だから、突然電話がかかってきて、否応なく求められた、そ
れが君の自尊心をひどく満足させてるってことさ、君に別れを告
げた彼女が優しくしてくれることなんかよりも数倍ね」
 こんな時に限って、客は、なにもレジに運んできてくれない。
ぼくは、長勢さんの話を止めるすべを知らなかった。
 「でも、なにかしら確信があって、ぼくに電話をかけてきたん
でしょう。ぼくでなきゃならないなにかが」
 「賭けてたのさ」
 「え?」
 「社長はね、馬賊の頭目みたいなもんさ。僕みたいなのを、次
から次へとたらしては、自分の本屋に繋いでいったのさ。そうし
て、社員たちに仕入れを任せてみた。ちょっと問題のある社員た
ちに。本屋って、脳みそみたいだろ。そうは思わないかい。ほら、
見なよ。頭のおかしい連中が集めた品物達を。これが、僕らの脳
みそから飛びだしてきた品物だと思うとさ、気狂いの脳みそに迷
い込んだように思えないかい?」
 長勢さんは、爪を噛んでは、切れっぱしをペッペと吐きながら、
そう言った。
 「賭けてたというのは」
 「ああ、そうだよ。社員たちが集まって、社長を囲んで会議を
していた時にさ、今から適当にダイヤルしてみる、そうして、出
た相手をここで働かせてみせると、社長が言い出した。ちょっと
した社長ならではの余興だよ。社長にシンパシーを感じる奴らは、
成功するといい、僕は成功しない方に賭けた。ミチオ君、君のせ
いで僕は賭けに負けたんだよ。まあ、そんなことはいいさ。すべ
ては偶然だったんだよ、君という必然はなにもなかったのさ。言
いかえれば、だれでもよかった、ということなんだ。謎が解ける
のがこわかったんだろう、だから、あえてからくりを解明しよう
としなかったんだろう、一生懸命興味のないふりをして」
 「でも、名前が」
 「そうだね、それにしても、名前までおんなじなんて、社長は
やっぱりどこか神がかってるなあ」
 なにか意図があるのだと思いたかった。一方的に攻め立てられ
ているその先に、ぱっと情勢が翻って、ほら、よく苦行を耐えた
ねと、長勢さんがなにかご褒美をくれたりはしないかと、ありも
しない希望を思い描いたりしていた。いつのまにか、レジカウン
ターに手をついていた。爪を突き立てていた。これ以上、無様に
なりたくなかった。
 「君は、おかしな連中にただあこがれているとても不安定で自
意識過剰な少年だね、心底そう思うんだよ。自殺なんかに憧れた
り、物知りがかっこいいと思ったりするんだろ?でも、ミチオ君
は、自殺もできないし、物知りにもなれないよ」
 「そんなことないです」
 ようやく絞り出せた声は、かすれて、うまく言葉にできたか不
安になるほどだ。長勢さんは、笑いながら続けた。
 「だって、必要ないもの。君に、自殺も知識も必要ないもの。
そうだろ?切羽詰まって、がぶがぶ睡眠薬を飲んだり、レコード
にお金をつぎ込んだりしなくてもいい人間なんだよ、ミチオ君は。
要は切羽詰まってないのさ。自明のことだよ。ああ、僕たちは、
特別なんだよ。ミチオ君、君は特別じゃない」
 なぜか泣いていた。声も上げられず、ぽたぽたと涙が落ちた。
 「どうすれば、特別になれますか」
 「特別になんかならなくてもいいじゃないか、特別になる人間
は、ならなきゃならないからなったのさ」
 「それでもいいんです、どうすれば」
 「ほら」
 と、長勢さんは指さした。
 正面の壁に掲げられた時計が午前零時を指していた。この本屋
は零時で閉まる。
 「もう、帰ろう」
 車に乗ったが、帰路につきたくはなかった。期待の感覚があっ
たわけではないはずだが、無意識に車は理子の家の方面へと向か
った。どうすればいいかの答えをぼくはまだもらっていなかった。
その答えを彼女が持っているとは信じたくなかった。たぶんそれ
を確かめたいのだろうと思った。
 彼女の住むマンションの隣の公園の脇に車を停めると、にわか
にばからしくなった。この数日は本当にばかげている。なにが変
わったわけでもないのに、なにかが穏かなぼくの生活と気持ちを
ざらざらとけばだたせるのだ。
 フロントガラスに雨の予兆を感じた。気持ちが鎮まる前に、そ
れは確信に変わった。あっという間に、雨だれが透明のガラスを
覆った。景色がゆがみ、ぼくはワイパーのスイッチを入れた。公
園から人影が駆け出すのが見えた。男が女を雨からかばいながら、
理子の住むマンションへと、駆けこんだ。二人は雨をはらい、ひ
さしの下から、ついさっきまで憩っていた公園を眺めていた。
 ぼくは車を走らせた。二人をできるだけ視界におさめなくても
済むようにハンドルを左に左に切って、大通りに出ようとした。
しかし、どうしても最後の角を曲がるとき雨宿りの二人の前を横
切らずには大通りへでられなかった。ヘッドライトが一瞬、照ら
し出した先に、ぼくよりもずっと上等でましな男と理子の姿が見
えた。



  (つづく)



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