漢字兄弟


第四回

 また一人、客がレジに品物を運んでくる。ぼくは急いでタバコ
を消し、レジ打ちをする。長勢さんは、壁を向き、客に背中を向
けて、ゆうゆうと煙を吐き続けている。
 「あの、今かかってる音楽、これってなんですか?」
 いかにも勇気を振り絞ったように、顔を真っ赤にした中学生く
らいのその男の子は質問した。
 「ええ、アート・ペッパー」と言って、振り返り、長勢さんに、
「ですよね」と聞くと、長勢さんは面倒くさそうにタバコを消し
た。
 「そう、アート・ペッパー」
 男の子が、続ける。
 「看板の所に、貼ってあるポスターの人ですよね」
 「そう、貼ってあるポスターの人」
 「かっこいいですね、この音楽」
 「かっこいいね」
 「売ってますか」
 「売ってるよ」
 と、長勢さんは、在庫から一枚、サーフライドを差し出す。す
ると、男の子は嬉しそうに、品物を抱いて、出ていった。
 「あんなめんどくさそうに言わなくてもいいじゃないですか、
きっと、すごく勇気を出して、聞いたんだと思いますよ、あの子」
 「こんなもん、ウンコだよ」
 在庫のサーフライドに、防犯タグを取りつけながら長勢さんは
言い放った。
 「あの子が勇気を出したか出さなかったかに関わらず、これは、
ウンコだ」
 「でも、あれですよね、アートペッパーは絶対置けって、社長
の肝入りなんですよね」
 「ああ、だから、置いてるんだよ、でも、あいにく、社長の肝
が入ってるか入ってないかにも関わらず、これはウンコさ」
 アートペッパーがどれほどのミュージシャンなのか、ぼくには
判断がつかなかったし、あまり興味もなかったが、長勢さんのそ
の言い方に少し引っかかって、ぼくは、どんなものが長勢さんに
とってウンコじゃないのか訊いてみたい気がした。
 「じゃあ」
 と、言い出す前に、長勢さんは段ボールの梱包を解きはじめ、
中から新たに入荷したCDを一枚取り出して、恥かしそうにはに
かんだ。
 「これなら、許せるかな」と、言いながら、愛でるようにそっ
とレジカウンターの上に置くしぐさで、彼がその音楽をどれだけ
愛しているかが手に取るようにわかった。
 すでに額の抜け上がり始めた中年の男がミッキーとドナルドと
プルートに囲まれ、にっこりとほほ笑んでいるジャケットだった。
奇妙な取り合わせだが、馴染んでいる。
 「デイヴ、ブルーベック」
 「そう、ディズニーカバー集」
 と言う長勢さん特有の独特な奥目の奥が潤んでいた。ぼくは、
一瞬、ぞっとして、目をそむけた。宇宙人にさらわれたことを本
気で信じ、目を潤ませるほどジャズを愛している長勢さんに、お
そろしさを感じた。それはもしかしたら憧憬なのかもしれなかっ
た。イライラして、店内整理に向うと長勢さんに宣言すると、
「いいよ、ここにいろよ」と、長勢さんは言った。
 「でも、もうずっと店内整理をやってませんよ、雑誌とか、ぐ
ちゃぐちゃになってますよ」
 「いいよ、そんなもの、雑誌はもともとぐちゃぐちゃだよ」
 と言うと、長勢さんは、タバコに火をつけた。ぼくもタバコを
吸おうと箱を出すと、それは空だった。握りしめてつぶし、ゴミ
箱に捨てて、新しいタバコを買いに行こうか迷いながら、爪を噛
んでしまいそうになり、もう片方の手でそれを制した。
 「そんなに模範的でありたいのかい?」
 長勢さんの言葉に虚をつかれた。言葉を失ったぼくは俯いた。
 「老人少年らしいね、態度保留、答えを先延ばしにして、生き
延びようとする。だから女にふられるんだよ」
 長勢さんは、もしかしたら、本当に宇宙人と交信しているのか
もしれなかった。理子にわかれを告げられ、みにくいやり方でわ
かれないでほしいと懇願したのは、おとといのことだ。ぼくは完
璧にそれを隠し通せているはずだった。
 彼女は、その時、こう弁明した。
 「あなたより、好きな人が、わたしにはいたの。そのことに気
づいたの」
 ぼくよりも好きな人ができたというわけではなく、彼女は、ぼ
くと一緒にいる間中、食事をするときも、セックスをするときも、
ずっと、ぼく以外の男の人のことを好きでいつづけたと言った。
 いままで、そんなにもないがしろにされたことがなかったぼく
は、その事実を必死で消したい気持ちに駆られ、消すには、この
わかれをなかったことにするしかないと思いこみ、理子の前で土
下座さえしかねなかった。涙を流してみせ、同情をさそい、いか
に彼女のことを好きか並べ立てた。ただ困惑するだけの彼女に、
最後は脅しともつかない言葉を吐いていた。
 彼女は、「これ以上、無様なおもいをさせないで」と、一刻も
早くぼくの前から去りたがっていた。知らぬ間にぼくは彼女の腕
を握っていた。およそ女の子の腕を握る強さにはふさわしくない
力がこめられたその手を、彼女は振りほどいた。必死に水中へ戻
ろうと手の中でぴちぴち撥ねまわる釣られたばかりの川魚のよう
にぼくを拒絶した彼女は通りを渡って、やがて見えなくなった。



  (つづく)



mail
コギトワークスロゴ