オヤツ


「レッドタートル ある島の物語」

みなさんこんにちは。
わたしが映画を観て、気になったセリフを勝手に紹介する「おいしいセリフ」の第7回。
今回の映画はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の『レッドタートル ある島の物語』です。
海で難破し無人島に辿り着いた主人公の男が、赤い甲羅のカメと出会うことで物語は展開されていきます。

この作品はアニメーション映画なのですが、実はセリフが一つもありません。
セリフを紹介するコラムにセリフのない映画を取り上げるのはどうかと思いましたが、この映画は最近観たセリフのあるどの映画よりも、わたしにセリフというものについて考えさせてくれる作品でした。それと同時に、わたしにとってとても美しく喜びに包まれる愛おしい作品となりました。

もちろん単純に、セリフのない映画は観客に理解を委ねている、だからセリフのない映画は素晴らしい、と称賛したいのではありません。セリフが排除され受け取る側の情報が少ない世界であっても、この映画の中で動き回る人物や移り変わる風景、その細かい描写によって、わたしは愛おしい、悲しいといった深く多様な感情を喚起されました。だから、この映画は素晴らしい、と私は思うのです。
今までわたしの書いてきた脚本は、深く考えもせずにセリフで物語を推し進めてはいなかっただろうか。映像表現でできること、伝えられることがもっと多くあったんじゃないだろか。そんなことも脚本家志望の身としては考えさせられてしまいました。

全編に渡り素晴らしい映像描写なのですが、とりわけわたしの心に残ったショットがあります。それは、登場人物の二人の手のアップのショットで、砂の上に置かれた手の甲にもう一方が手を重ね、重ねられた方は自らの手を引き抜き、上から手を重ね返すといった描写でした。たったこれだけの描写なのですが、互いに相手を愛おしむ思いが深く伝わってきました。大切な人を大切だと思う感情、思いの深さはどれだけ頑張って言葉を並べても完全に再現はできない。けれど、なんとか気持ちをそのまま相手に伝えたい。この手のショットはこういった心理を見事に体現しているとわたしは感じました。これを超えるセリフを作り出すことはなかなか難しそうです。

この映画を観終えた時に久しぶりに思い出してしまったことがありました。
子供の頃、友達が問題を抱え苦しんでいるとき、なにかよい言葉を探しているうちにそのタイミングを逃してしまった苦い思い出です。その時は自分がまだ幼く、語彙と経験が乏しいから言葉が見つからないだけで、もし大人だったならきっと上手に励ますことができたのに、と思っていました。その時のことを後悔し続けたまに思い出しては、言葉を探していますが未だに見つけることができずにいます。
どんなことを言っても正解ではないんだから、わかるはずがない。大人になったからってその子の気持ちがわかるようになるわけじゃないんですから。自分の中で見つからない言葉を探し続ける時間があったなら、その子と一緒にいる時間をもっともっと増やせば良かった。会話なんてなくていいから、その子の手を握ってあげればよかった。どうしてそんな簡単なこと、今まで気づかなかったんだろう。

わたしは言葉に頼り過ぎていて、その自覚もありませんでした。自分の思っていることをすべて言葉に置きかえて喋ることなんて全然できてないのに。できるわけなんてないのに。バカだなあ。
もちろん言葉にする努力もせずにわかってもらおうなんて傲慢です。言葉にしなければ伝わらないことの方が多いんだから、自分の思いをなるべく形を変えないように言葉に変換する努力は怠ってはいけない。でも、言葉だけで、喋って、喋らせて、理解した、理解してもらった気になっちゃいけないんだ。
自分の気持ちや考えを相手に伝えたい。相手の思っていることを知りたい。お互いのことを理解し分かち合いたいと願ったからこそ、生まれ育まれてきた言葉という表現手段。けれど、使い方を間違えればただ安心するための利己的な道具に成り下がってしまう。
言葉には危うい面がある。そのことを頭の隅に置いてセリフを考えていかなくちゃな。

おっとっと、島から離れた所までやってきて、とっ散らかってきてしまいましたので、今回はこの辺で……。誰の仕業だ?



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