オヤツ

『普通って?』

はじめまして
コギワークスの居候、ヨシダです。
ディレクター歴20年、
近ごろ衰える視力と持久力に老いを感じます。
映画監督デビューへの道のりは険しく遠いですが、
夢の中ではレッドカーペットを歩いています。
さてさて、不定期ではありますが、
これから『落伍家の憂鬱』と題しまして、
順応性と臨機応変に若干問題ありの私が、
日々想うことなどをつらつらと書いていきたいと思います。
みなさま、しばしお付き合い下さいませ。

★  ★  ★  ★  ★

普通の人が普通にできることを普通にできない、
という人間的に少し欠落した部分が私にはあるみたいで、
その事に全く自覚症状がなかった若い頃は、
多くの地雷を踏みまくり
沢山の人に不愉快な思いをさせてしまったようです。
親しい人たちは多目に見てくれるけど、
和を乱す存在を社会は簡単に受け入れてはくれません。
彼らから見れば当時の私は異分子そのもの、
結婚披露宴に上下スエットでやってきた
厄介な親戚のおっさんのように
きっと場違いで目障りな存在だったのでしょう。
しかし、自分の事をつくづく残念な男だなと思う反面、
何の疑いもなく交わされる実態のない普通という言葉と概念に、
少々息苦しさを感じているのも事実です。

私は高校時代、野球部に所属し、
3年間ベンチを暖めていただけの、
華やかさとは無縁の非モテ部員だったのですが、
あの頃と今とでは練習風景もすっかり様変わりしました。
かつて、ピッチャーは肩を冷やしてはいけないという理由で
プールには入らない方が良いという考え方が主流でした。
しかしスポーツの科学が進化した今では、
疲労した肩を冷やすのが普通です。
また、当時は熱中症なんて言葉はなく、
真夏の炎天下でも練習中に水を飲むことは
絶対に許されませんでした。
こまめに水分補給をするのが常識の今とは大違いです。
変われば変わるものです。

普通なんてものは、多数派の人間が無意識に
共有している価値観でしかなく
決して正しさを担保するものではないのですが、
悲しいかな人は少数派になるのを恐れる生き物なので、
大勢の人間が信じている考え方になんとなく従ってしまいます。
そういう空気の中で反対意見を述べるのはかなり度胸がいります。
大阪の居酒屋で巨人のユニフォームを着こんで
闘魂こめてを熱唱するようなものです。
あまりかけ離れた事を言うと、
主張がどんなに正しくても叩かれます。

しかし普通を広めようとしても限界があり、
時代や国境を越えることはできません。
笛で動くのはアシカだと、
欧米人は日本の体育の授業を見て笑うそうです。
ニューヨークではタバコのポイ捨てあたりまえです。
イスラム教徒に豚肉の美味しさを説いても迷惑なだけです。
自分達が無意識に身につけた普通も、
外側に属する者の視点で眺めると普通ではなくなります。
パソコンのOSのように常に新しくなり、瞬く間に古くなります。
集団生活を円滑にするために普通を知ることは大事ですが
すべてを捧げてしまうと視野が狭くなってしまいます。

いつの時代にも一定の割合で落伍者がいて、
そんな人たちを受け入れるユルさが、
以前にはもう少しあったような気がします。
古今亭志ん生は、高座で眠りだしたという逸話がありますが、
客は怒り出すどころか、師匠を寝かせてやれと言ったそうです。
しかし彼がもし今の時代に生まれていたら、
果たして同じように名人として
名を馳せることが出来たでしょうか?
彼の破天荒な生き方を、笑って許すことができたでしょうか?

普通は友達のふりをして近づいてきて、
やんわりと個性を剥奪します。
剥奪された当人はそのことに気づかないことが
多いので注意が必要です。
また、普通を口にすると自分と相手との間に
境界線を引いてしまいます。
普通という言葉はくれぐれも慎重に使いましょう!




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