オヤツ

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という宿題を課せられた。
当方主婦、2歳の男児子育て中。
ハードな宿題である。

(主婦にとって、
この宿題が「ハード」である理由および日常生活の様子、
これから本題に入る前に、1000文字強、
原稿用紙で言えば3枚程続きますが、
お付き合いいただける方には、
以下続けて読んでいただき、
主婦の生態にご興味の無い方、
または、本題の映画評からで結構という方には、
「***」までスクロールしていただければと思います。)

何故なら、第一に、「とにかく!」、「時間がない!」、のです。
乳幼児は、どんなにひどい上司よりも、どんなに憎い姑よりも、
どんなに厳しいコーチよりも、容赦ない上、
こちらの都合を微塵も加味などしてくれません。
その上、この方たちは、基本的に一人でできることが
極端に少ないため、誰かが常に寄り添って、
サポートしたり、鼓舞したり、同調したり、慰めたりを、
24時間体勢でして差し上げなければなりません。
寄り添う側は、可能な限り「私」を薄め、
滅私奉公24時間勤務となります。
「24時間?、いや、寝てる間は解放でしょう?」
と思ったそこのあなた、甘いです。
彼らはいつ眠ってくれるとも知れず、
また、ようやく眠ってくれても、何かの加減で起きます。
そして、その前触れもありません。
つまり、彼らが寝たとしても、それは、さらなる、容赦のない、
滅私奉公の暴力的かつ唐突な再開を意味します。
第二に、言語能力のスイッチング、という問題があります。
どういうことかと言うと、
母語能力の未発達なステージにいる彼らと一日を共にする場合、
こちらもそのステージに言語能力を合わせることになります。
「発達⇒未発達」、このスイッチングは何なりとできます。
しかし、問題は、「未発達⇒発達」のスイッチングで、
これがなかなか瞬時にはできないのです。
首尾よく、子どもを寝かしつけたとしましょう。
やれやれと寝室を後にし、
机に向かい、パソコンの電源を入れます。
ところが、ここでいきなり通常の言語能力を稼働しようとすると、
脳が、真っ白な新規ドキュメントを前に、
行き場を失ってしまうのです。
そのため、スポーツをする時のように、身体ならぬ、
脳のウォーミングアップをし、
言語能力を完全な状態へと整えることが必要となります。
そして、出来たらそのウォーミングアップは
最短時間で終えたいところですが、
早くしようと思えば思う程、焦りが募ります。
そうこうしているうちに、
にっこにこの笑顔で起きてくる2歳児……。
再びパソコンに向うことができる時を、心の中で、
祈りにも似た気持ちで切望することになります。
第三に、映画リテラシーが全くない自分にとって、
映画の感想、一体どこから手をつけていいものか……。
しかも、このサイトを閲覧している方々は
どうやら映像の専門家が多いらしい。
脇汗がドバドバ流れます。
だいたい、こんな一介の、
しかも、映画なんてほとんど観ない主婦の感想が、
皆様を楽しませるとは思えませんが、なるほどそうか、
「映画なんてほとんど観ない主婦」のような層こそ、
今後の映画鑑賞における潜在的なターゲットとしてはあり得る。
そして、私こそは、
その層の最たる資格を満たしているではないか!、
と、選民的動機を無理矢理見つけてみたので、
頑張ります、ハードな宿題。

*   *   *

さて、そんなこちらの弱気な心持ちなど問題にすら上がらず、
早速、いながき先生から、
課題映画は「タクシードライバー」で、と通達あり。
もちろん、初めて観る映画。
そして、レンタルショップへ行く暇もないので、
Huluで観るも、1時間53分30秒のこの映画、
もちろん、細切れ鑑賞と相成りました。

今この文章を読んでいる方々のほとんどは、
この「タクシードライバー」を観たことがあると思われるので、
できたら、私の色々拙い作品紹介を割愛したいところですが、
観たことがない方への不親切心はどうなのかという葛藤があるので
三行で説明しておきますと、

1976年公開のアメリカ映画で、
監督マーティン・スコセッシ、主演ロバート・デ・ニーロ。
デ・ニーロ扮するトラヴィスというタクシー運転手が、
失恋→中二病をこじらせ→殺人→何故かヒーローとなる。

という映画で、わたくし、かろうじて、
この監督スコセッシの映画も、
主演ロバート・デ・ニーロの映画も観たことがありました。
で、そのスコセッシ監督の作品については「シャッターアイランド」を
観たことがありまして、しかも映画館で、超絶チキンの私、
そのあまりの怖さにチビる寸前にまでなり、
同伴者がいなければ途中で退室していただろう映画として
深く記憶に刻まれております。
そして、この監督の映画は今後観るまじき、
と心に誓ったのであります。
が、心ならずも、その誓約を侵し、
観なくてはならないことになったわけです。

「シャッターアイランド」の一件があったので、
いつ恐ろしいシーンが出て来るかと
かなり緊張しながら観ていたのですが、
何かよくわからない映画です。
主人公トラヴィスが、
タクシーを運転しながら街を移動するシーンが入りまくります。
たまに映画館に行ってポルノ映画を観たり、
自宅で日記を書いたり、
仕事中に見つけた女性に恋に落ち、
デートの誘ったり……
ある男の日常がねっとりした音楽と共に
アンニュイに映し出されます。
ねっとりした音楽、これがこの映画のテーマ曲らしいのですが、
よーく観察していると、この音楽、
だいたい5分に1回の頻度で挿入されるのです。
サブリミナル以上に確信的に、やたら流れます。
そして、ねっとり耳に残ります。
ところが、ある時点を境に、
その5分に1回のルールが破られます。
それは、1時間53分30秒あるこの映画のちょうど、
正に半分の時点、そして、その正に半分のところで、
物語のターニングポイントがあり、様相が一変します。
「6月8日 また人生の転機がきた」
そう日記に記し、主人公トラヴィスは、
自身の脳内妄想を実行へと移す準備にとりかかります。
その後、しばらく、
ラストシーンに向け緊張感高まるシーンの連続ですが、
その間テーマ曲はお休みされ、
再び、度肝を抜くような彼の変化の直前と、
ラストシーンに、再び挿入されます。
前述した通り、映画リテラシーのない私に、
このテーマ曲の挿入がどういった効果を
狙った上でのことか全くわかりませんが、
気になったので、少しこの曲について調べてみました。
この曲、バーナード・ハーマンという
アメリカの作曲家によって作られたものらしいです。
この方、主に映画音楽で活躍された方で、
日本で言うところの武満徹でしょうか?
(あ、全く違いますか?)
で、この挿入歌の題名は、ズバリ、「タクシードライバー」。
そして、ここからが重要な情報ですが、ハーマンさん、
この「タクシードライバー」をレコーディングした12時間後に、
なんと亡くなったのだそうです。
なるほど!!!
それほど重要じゃないシーンに、
やたらめったらテーマ曲を重ねていたのは、
スコセッシ監督の、ハーマンさんに対するオマージュだったのか!
なるほど〜!

さて、ひとつの疑問が解決したところで、
さらなる疑問が浮上します。
一般的な映画鑑賞の視点と言ったら、
主人公に自分自身を投影して、とか、
主人公と自分自身を同化して、
ということになるのだと思いますが、
「タクシードライバー」については、主人公が26歳の男性、
しかも、当時のアメリカを謳歌しているとは
思えない鬱屈としたキャラ。
主人公トラヴィスになりきり視点で、
彼と共に映画を進めていくのには、やや無理がありました。
では、どう観たかと言うと、
このどうしようもない息子を持った母の視点でもって、
固唾を飲みながら見守っていきました。
それまで定職にも就かず、
どこで何をしているかわからない息子が、
やっと人並みにタクシー運転手として職を得たときには歓喜し、
選挙事務所で働くお嬢さんに、
気の利いた言葉をささやきながらデートへの誘いに
成功したときには複雑な気持ちになり、
また、突然モヒカンになり、
よからぬことを企んだときには
張り裂けるような気持ちになったりしたのでした。
子を持つ親となったことでの、
自然な成り行き(視点)だったのだと思います。
トラヴィスの母親(ちなみに、劇中、母親は出て来ません)
になり切っていた私ですが、
実は、どうしても母目線になれない箇所が一点ありました。
(これ、ネタバレになりますが、大丈夫ですかね?)
少女売春をさせられているアイリスという名の
少女を救い出すという大義名分のもと、
トラヴィスは殺人を犯し、
3人の男たち
(アイリスのヒモ、売春宿の用心棒、アイリスの客)を
トラヴィス言うところの
「ゴミ捨て場」のようなこの世から抹殺します。
その後、この銃撃戦で重傷を負ったトラヴィス、
回復までには正義のヒーローとして
讃えられた記事が連日掲載されるのですが……。
……おかしくないですか?
3人もの人間を殺しておきながら、
殺人罪に問われるどころか、英雄視。
全く理解できません。
もう、この一点がひっかかって、ひっかかって。
エンドロールが流れる中、
このもやもやする気持ちにうまく答えが出せないまま映画は終了、
そして今日に至ります。
トラヴィスの母になりきるなら、
息子の偉業に鼻の穴を膨らませるべきなのでしょうが、
最後の最後で母親になり切れなかった自分……母親失格!!!
いやいや、というか、私、
ここで、一人の人間として立ち返ってしまいました。
3人も殺しておいて!!!
この3人の人間の尊厳はどこへ!!!
で、考えました。
その①
もしかしたら、
76年当時のアメリカでは、
正当防衛という名の下には、
殺人を犯しても(それが何人だろうと)、
全く罪に問われない、
という法律でもあったのか?
でも、元々、トラヴィスからけしかけているのだから、
正当防衛とは言い難い。
その②
劇中ではそのシーンはないけれど、
やはり3人も殺したトラヴィスは殺人罪に問われ、
76年当時のアメリカ刑法により裁きを受けていた。
②なら理解できるんです。②なら。
でも、そうなると、どうして、
物語の最後の整合性をつける上でも
大切なそのシーを端折ったのか?
私には、答えがでません。
家人に、訴えかけたら、何かややこしい話、
そして、夫婦の関係性を脅かすことへと
発展しかねなかったので、途中で打ち切りました。
どうぞ、今この駄文をお読みになっている方の中に、
映画リテラシーの非常に低い、
けれども、これから潜在的な映画鑑賞となりうる
層の中から選ばれし私に、
優しく丁寧に教えていただける奇特な方がいらっしゃいましたら、
コギト宛にメールをいただければと思います。
名画が理解できず、苦しいです。



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