I Wanna Be Adored The Stone Roses


I don't have to sell my soul
He's already in me
I don't need to sell my soul
He's already in me



I wanna be adored
I wanna be adored

Adored

I wanna be adored
You adore me
I gotta be adored

I wanna be adored
I wanna be adored




魂を売り払うことはない。
それは、もう、
僕の中にあるから。
魂を売り払う必要はない。
それはもう、
僕の中にあるんだから。

慕われたい。
敬われたい。

崇拝……。

崇拝されたい。
きみはぼくを熱愛する。
そして僕は崇められた。

憧れられたい。
崇められたい。





(written by Ian Brown, John Squire. )



 僕がセンセイをセンセイと呼び始めてから、さほど時間が経っ
ているわけではないのに、でも、もう、ずいぶん昔から、センセ
イはセンセイだったような気がする。
 学年は僕とひとつしか違わないセンセイだが、髪はモジャモジ
ャで、団子鼻の鼻の穴は前を向いていて、夏はいつも白いタンク
トップ(あんまりぴったりしていない、きもちダルダルなやつ)
姿、冬は長袖のシャツにダウンジャケット姿、いかにも芸術以外
には興味がありませんと身をもって宣伝しているような風体で、
まさにセンセイがうってつけなのだ。
 僕はセンセイが好きだった。好きというより、少し尊敬してい
た。崇拝、とまではいかないが、傾倒していた。とにかく、「知
らない」ということが、センセイにはあまりなかった。僕の二十
年ちょっとの人生で、何冊かしか読んだことのない本を、センセ
イはすべて読んでいる、のは当たり前で、それだけじゃなく、そ
の何十倍もの読書量を誇り、だいたい名前の知っている映画はき
ちんと観終わっていて、音楽も、すこしヒップホップに疎いくら
いで、ポップス、ロック、だけじゃなくジャズやクラッシック、
なんなら現代音楽まで幅広く聞いたという体験をもっているから、
これはもう敬わないわけにはいかないなと、僕はセンセイに思わ
されたってわけだ。

 センセイとの出会いは、トンカツ屋だった。
 大学生になった僕は、アルバイトを始めた。トンカツを選んだ
のは、トンカツが食べられるかなと思ったからだった。そして、
センセイは、そこにいた。センセイはセンセイであり、トンカツ
の先輩でもあった。
 別に、調理場かホールかこだわりはなかったが、店長に面接さ
れた僕は、少し見てくれがいいという理由で、ホールに回された。
センセイはその逆だった。すこし見てくれが悪いから、調理場に
回されたというわけだ。センセイは、決して、要領がよくない。
本人は、世渡りが下手なだけだと考えてるみたいだけど、いや、
決してそうじゃなく、決定的に要領がよくない。普通、調理場に
配属されたアルバイターは、だいたい二か月くらいで皿洗いを卒
業して、揚場を任されるようになるのに、センセイは六か月かか
った。でも、要領が悪いだけで、センセイの洗った皿は誰よりき
れいだったし、揚場を任されてからも、次々に入る注文をさばき
きれず、お客さんからよく「遅い」と文句を言われるほど、要領
が悪いのだけど、揚げたそのトンカツ自体の味は文句なしだった。
時々、賄いでありつける余ったトンカツで、センセイが揚げたも
のが残っていると、僕は結構うれしくなったものだ。

 センセイには夢があった。夢、なんていうと、センセイに怒ら
れちゃいそうだが、まあ、聞いたところ、僕にはそれがセンセイ
の夢なのだと思われた。
 トンカツ屋に就労したての僕は、数いるアルバイターの中で、
センセイのことだけが気になった。だいたい決まって、アルバイ
トの先輩というやつは、年上や年下に限らず、勝手知ったる顔で
なにかと世話を焼きたがる。アルバイトにできる仕事なんだから
別段大したことではないのに、飛んで火に入る夏の虫とばかりに
新入りのアルバイターから尊敬を勝ち取ろうとする。その恥ずか
しい態度を、センセイはまったくとらなかった。だから、僕は、
センセイを誘おうと思った。
 センセイは、明らかに警戒していたように見えた。けれど、そ
れは警戒していたのではなく、恥ずかしがっていたのだった。す
ぐにそれを察することが出来るくらいには、僕は要領がいい。
 「悪いが、金がない」
 センセイは、うつむき加減に言った。
 「あ、あれですよ、今日は僕が誘っちゃったんで、僕がおごり
ます」
 「悪いよ」
 センセイは、精一杯のぶっきらぼうさで言ったが、「次は、セ
ンパイがおごってくださいね、だから、行きましょう」と僕が気
をきかせると、(当時はまだセンパイだった)、センセイはひと
まずついてきた。
 居酒屋の安い唐揚げを食べながら、ビールを一杯、二杯、三杯
と飲み進めるうちに、センセイは、トンカツがいかに僕らの知っ
ているあの豚肉にパン粉をつけて揚げた食べ物というもの以上の
なにがしかの思想や政治性があるかを、饒舌に語り始めた。油と
豚肉を別つ衣という存在の境界性を周縁と中心という哲学的なテ
ーマにひきつけたかと思ったら、今度はトンカツのルーツとも言
うべきフランス料理のコトレットは、そもそもイタリア料理のコ
トレッタが起源であり、それどころか、今や世界三大料理のひと
つといわれるフレンチの元祖こそ、イタリア料理だ、ルネッサン
ス期にフランスが文化ごと自国に持って帰ったことが始まりなの
だ、と、ほんとかウソかわからないような歴史物語仕立てにして
語ったりした。僕は、だいたい、もうそのあたりから、センセイ
をセンセイと呼んでもいいような気がしていたのだけど、それを
決定的にしたのは、ビールからホッピーに飲み替え始めたころだ
った。もちろん、そのホッピーは、僕が勧めたのだった。もう少
し、酔いが回れば、この人はもっと面白いことを喋り始めるよう
な気がしたからだった。案の定、僕が水を向けると、ぽつりぽつ
りとセンセイは、自分のことを喋り始めた。
 それが、センセイの夢についてだったというわけだ。それは、
小説を書くことだった。
 もちろん、酔いに任せて、「俺さぁ、小説書きたいんだよね」
なんて、無粋なことをセンセイが言うわけない。「小説が書きた
い? 書けばいいじゃねえか」、センセイでなくても、僕だって、
それくらいのことは言える。
 「いや、お前さ、もう夢とかじゃないよ」
 センセイは、すべて否定から入るのだ。
 「見れる夢は少ないというとこから入らないとだな」
 こんな具合にぐぬぐぬ言い出したので、「ああ、いいです、じ
ゃあ、大学卒業したら、どんな仕事します?」と、僕は単刀直入
に聞いた。
 したら、センセイは白状したのだ。
 「小説を書く人になりたい、誰かに求められる、小説を書く人」
 「あ、その誰かの第一号、僕でいいですか?」
 「だめだ、第一号は、決まっている。第二号で、いい?」
 ホッピーの中身を足し、唐揚げを口の中に放りいれ、それを薄
い小麦色の液体でのどに流し込みながら、センセイは言った。
 「じゃあ、センセイですね、センセイ」
 というわけで、センセイはセンセイになった。

 トンカツ屋では、僕はセンセイとだけ懇意にした。友人からも
っと割りがよくて、女の子たちと知り合いになれそうな派手なバ
イトを勧められたし、トンカツ屋に未練もなかったが、辞めよう
という気にはならなかった。センセイがいたからだった。
 センセイには、一つ、悩みがあった。もちろん、センセイはそ
れを悩みと理解していなかったけど、僕にはそれが、まさしくセ
ンセイの悩み以外のなにものでもないと考えた。(このように、
いちいち、僕はセンセイの精神を忖度して、センセイとの関係を
煮詰めていたのだ)
 「童貞のまま、性交にまつわる小説を書いてノーベル文学賞を
獲ったえらい先生だっているんだからな」と、センセイは強がっ
たが、どう見積もったって、童貞のまま生々しいセックス描写が
書けるとは、僕には到底思えなかった。(まあ、生々しいセック
ス描写がその小説に必要だとして)
 そのころ、僕は高校から付き合ってる女の子がいた。大学に入
って、受験生のころのストイックさが抜けたのか、ぶくぶく太り
だしたから、どうしてやろうか思案中だったが、いいことを思い
ついたのだった。
 だいたいこの女の子は、なんでも僕の言うことを聞いてくれて
いたし、性に関しては貪欲に仕立てた方だったから、僕の方であ
らかじめ差し金して、センセイに引き合わせ、その童貞を奪うよ
う仕向けてみた。そうしたところ、この女の子も面白がった様子
だった。
 トンカツ屋が閉まった後、僕はセンセイを連れ、女の子との待
ち合わせ場所へ赴いた。適当な店に入り、センセイにお酒を飲ま
せ過ぎない程度に、場を盛り上げてから、適当な用事を告げて、
僕はその場を去った。女の子を残して。
 センセイのタイプが細見の子だったら、成功していなかったか
もしれないが、ぶくぶく太り始めた僕が付き合っていた女の子は
センセイにおあつらえむきだった。センセイは、ぽっちゃりがお
好みだったのだ。
 翌日、僕はその女の子から、詳細にセンセイの様子を聞き取っ
た。
 「ねえねえ、佐藤春夫ってだれだっけ?」
 と、女の子は、センセイのセックスの癖を聞き出したい僕に肩
すかしを食らわせた。
 「なんだよ、それ」
 「センセイ、佐藤春夫だか、谷崎潤一郎だかの話ばっかりすん
のよ。つまんなくなっちゃってさ」
 僕は、いまいちよくわからなかったので、ウィキペディアで二
人の名前を調べてみると、なるほど、ようは文豪が自分の奥さん
を友達の文豪にあげちゃったって事件があったってことね、それ
にしてもセンセイ、自分を文豪になぞらえるなんて、なかなか大
それた真似をするもんだ、でも、僕は全然文豪じゃないし、だい
だいこの目の前のデブは僕の奥さんでもなんでもないしって、感
じで、すこし笑えてきてしまった。
 「で、センセイはどうだったんだよ、童貞っぽかった?」
 「うん、なんか、すごく不器用でさ、いきなり指ズボするから、
もう少しゆっくりねって言ったら、そこから、やけに丁寧なセッ
クスするのね、結構、感じちゃった」
 なんか、そのさまを想像するに、トンカツ屋のセンセイの姿を
思い出させるものがあった。要領が悪いのに、うまいトンカツを
揚げる姿さながらのセックスのような気がした。
 そのあと、僕は、なんだか少し興奮して、このデブとセックス
して、(結局、それがこのデブとの最後のセックスになったのだ
が)、すぐにトンカツ屋に向かった。

 バイト中、終始、センセイは僕と視線を合わさなかった。それ
が、ものすごくかわいいというか、なんというか、胸にキュンキ
ュンくるものがあって、バイト終わりで、またお酒に誘った。断
られると思ったけど、センセイは、多く語らず、「おう」とかな
んとか言って、また、例の居酒屋で唐揚げを二人で囲んだ。
 「僕、全然、谷崎とかじゃないですから、センセイは佐藤春夫
かもしんないけど、あと、あの女の子、気に入ったら、どうぞ」
 「それはできないし、俺は、佐藤春夫が苦手だ」
 と、言われても、全然佐藤春夫を読む気が起こらないから、セ
ンセイといると不思議だった。なんというか、そういう佐藤春夫
的なもの、(仮に、そんなものがあるとして)は、全部、センセ
イに任せておけばいいとさえ思った。
 僕は、「童貞じゃなくなるって、どんな感じですか、僕、もう
忘れちゃいました」とか、聞きたくなったが、それをすると、セ
ンセイに嫌われてしまいそうで、センセイにだけは、嫌われるの
は、嫌だし、話題を変えた。
 「センセイ、いつ、僕はセンセイの読者になれるんですか」
 そう、センセイは、少なくとも誰かには求められる小説を書く
人になりたいなんて言いながらも、結局、僕にはただの一つも小
説を読ませてくれていなかった。
 センセイは、「また今度な」と、いつも言った。その今度がな
んど繰り返されても、「また今度」なのだった。
 「センセイ、小説なんて書いたことないんでしょう」
 僕は、酔いに任せて言った。きっと、センセイにまつわる性的
なことで僕がセンセイをないがしろにした時よりも、いっそう真
剣に、センセイは怒った。その証拠に、センセイは怒鳴り声も上
げなかったし、僕を殴りもしなかった代わりに、居酒屋のテーブ
ルに自分の額を打ち付けて、「そう思われても仕方ない」とか言
いながら、顔を真っ赤にして僕の顔をまっすぐ見つけた。そんな
挙動が、僕には危うい自己憐憫に見えて、ただセンセイは甘えて
いるのだと思った。それ以上に僕はきっとセンセイに甘えていた。

 次の週、一週間、センセイはアルバイトを休んだ。もう、来な
いかな、と思った矢先の十日後、僕が遅刻寸前にトンカツ屋に滑
り込むと、センセイはロースカツを揚げているところだった。
 「なんだ、いるじゃないか」と少し、残念に思った。変な話だ
が、あのままセンセイが僕の目の前から消えていたら、もちろん
それはそれで寂しいけど、僕はすこしセンセイを見直すことが出
来たような気がしてたからだった。
 五時間分の時給を積み上げた後、トンカツ屋を出た僕を、セン
セイは呼び止めた。センセイから僕に声をかけるのは、総じて珍
しいことだった。そのせいで、センセイに対する僕の傾倒が少し
崩れたような気がしたけれど、それはそれでうれしかった。
 「今日は、酒も飲まずに帰ろうと思う。だから、これだけ、渡
しておく」
 そういうと、茶色い大きな封筒を僕に手渡した。
 やっぱり、センセイは、小説が書きたいと思いながら、一向に
書けず、酒を飲んで、今まで蓄積したどうでもよい知識をつなぎ
合わせて、なんとか自分の言葉にして、クダを巻いているのが、
センセイらしいと、僕ははっきりとそこで認識した。
 茶色い封筒に入っていたのは、印刷されたセンセイのしたため
た小説だったのだ。穴開け機で二つ穴があけられた原稿の左端に
黒い綴り紐が結わえられていた。こういう部分が、なぜか、僕を
たまらなくいらだたせた。

 センセイの書いた小説はものすごくつまらなかった。まるで国
語の教科書とかで読んだことのあるような、誰かがもうすでに書
いてしまって、古びて、クタクタになったような文章が飽きもせ
ず、何行も何行もつづられ、結局書いてあることは、僕らしき登
場人物から、デブ女らしき登場人物を紹介され、センセイらしき
登場人物がああだこうだと性的妄想を膨らませながら、実際セッ
クスするという、ただそれだけのストーリーで、僕らしき人物が
(それにあのデブ女も)センセイの小説の中に、出てきたという
だけで、ある意味感無量だったが、これが果たして、誰かに求め
られる小説なのかどうか、判別不可能だった。センセイ、ごめん、
この言葉の羅列を求めている人間は世界中に一人もいない気がす
る、と思った僕は、それをそのまま、言葉にして、センセイにL
INEした。(LINEは僕が強制的にセンセイに使わせた、僕
に会わなきゃ、センセイ、LINEも知らなかったんだから)

 センセイは、僕のLINEに怒ったはずだった。でも、それが、
何か、小説みたいに、決定的に僕とセンセイの仲を違わせるとい
うことになんかならず、結局、僕とセンセイはだらだらとそれか
らもトンカツ屋でバイトを続けた。
 よせばいいのに、大学四年生になったセンセイは、かたくなに
就職活動をしようとせず、本気で『小説家』になるつもりらしか
った。「小説なんて副業でやらなかった人なんかいるのかよ、セ
ンセイ」と、もはやいえるほど、僕らはお酒を飲みに行ったり、
ご飯を一緒に食べたりするような時間を設けなくなっていたが、
ひとまず、「センセイ、ほら、本とか、好きだし、本屋さんとか
に就職すればいいじゃん」と、LINEを送ったけど、結局返事
はなかった。いわゆる既読スルーというやつである。
 僕は、既読スルーに少々むかついたので、一週間、バイトを休
むことにした。センセイに会わないためでも、他にバイトが見つ
かったわけでもなく、ただ、少し、なにかに打ち込みたくなった
のだった。
 なにに打ち込むか、そうだ、センセイの真似をしてみようと考
え付いた僕は、小説を書いてみた。
 ストーリーは、僕らしき登場人物と、デブ女らしき登場人物が、
共謀して、センセイらしき登場人物の童貞を卒業させるというも
のだった。まあ、センセイが書いた小説と、内容はそっくりのや
つである。
 でも、僕は、本とか、ほんとに数冊しか読んだことがないわけ
だし、もともと小説なんて書きたいと一ミクロナノピコフェムト
ミクロンメートルも考えたことがないので、センセイみたいな文
体というやつなんかで書けないけど、まあ、その辺はセンセイよ
り要領がいいみたいで、ああ、なんか文学みたいに書こうと思っ
て文学に近いものは書けた気がした。
 八万文字くらい書けたので、ひとまず強引に終わらせて、(ラ
ストもセンセイの書いた小説そっくりに、なにかが解決した感じ
じゃない終わり方にしてみた)それを茶色い封筒に入れて、僕の
履歴と共に、締切が一番近い、ナントカ文学賞に送り付けた。

 一週間経っても、僕は、トンカツ屋に戻らなかった。戻っても
よかったが、大学の友達が、いけてるバーっぽい居酒屋のバイト
を紹介してくれたので、そっちに鞍替えしてみたのだ。
 そこは、結構僕のタイプの細身の女の子がよく集まる居酒屋で、
僕も、手っ取り早く、カクテルとかの作り方覚えて、女の子の前
で作る姿を披露したりすると、女の子ってそういうとこほんと馬
鹿というか、心底単純だから、「わあ、すごい」とかなんとか声
あげて、二三人、セックスさせてくれた。トンカツが食べられる
ことと女の子がセックスさせてくれることと、どっちが得かなぁ
とか、やってる最中に考えたりして、結論はでなかったが、セン
セイがいた分、トンカツかなとちらっとだけ、ほんとうにちらっ
とだけ思ってしまって、少し、アソコが萎えたから、女の子が、
「私じゃイケない?」とかネムいこと言い出して、「そうだね」
と答えると、泣き出したから、そのまま服着て帰った。
 そんなこんなで数か月経った。

 メールが届いた。メールなんて、あんまり来なかったから、ま
たスパムかなと危うく削除しそうになったが、それは、ナントカ
文学賞からの通知だった。まだ、結果は発表前だったが、僕の小
説が優秀賞にひっかかったことを事前に知らせるメールだった。
 「あ、そう」と思っていると、直接事務局の人から電話がかか
ってきた。
 ナントカ賞をとったくらいで一生小説家が続けられるほど、甘
くないよなぁと直観したし、そもそも小説なんか書き続けたくな
いわけで、できれば、この賞をセンセイにあげることは無理です
かと思ったが、事務局の人には言わなかった。素直にありがとう
ございますとだけ伝えた。事務局の人がセンセイのこと知ってる
わけないしな、馬鹿みたいと思ったけど、でも、センセイがもら
えればいいなという考えは本気だった。
 その足で、僕は自分の書いた原稿をもって、トンカツ屋へと赴
いた。円満退職だったので、店長さんは、明るく僕を迎え入れて
くれた。油にまみれて、どれだけ駆除しても湧き出るゴキブリた
ちの住処となっている調理場に、センセイはいなかった。
 「一か月休むってさ、困ってるのよ、今じゃ、あいつのトンカ
ツが一番うまいのに」
 店長は言った。センセイが、休暇をもらって、二週間が経って
いた。

 店長は疑いもなく、センセイの家の住所を教えてくれた。セン
セイが僕とだけ仲良くしていたことを店長はよく知っていたのだ。
 センセイの家は川沿いにあった。土手から一段下がった、生け
垣に囲まれたちょっとした豪邸だった。
 呼び鈴を鳴らすと、すぐにセンセイが出てきた。
 「家はちとまずいんだ」と、センセイは僕を連れ、近くの公園
へ向かった。
 公園で、煙草を吸いながら、「家まで押しかけて何の用だ」と
センセイは僕に聞いた。
 「あれ、センセイ、煙草なんて吸いましたっけ?」
 「二週間前から」
 「へえ、あれですか、文豪は煙草好きそうですもんね。ほんと、
センセイは文豪ごっこ好きなんだから」
 「ごっこって、お前さ」と、言いかけ、諦めたように「もうい
いや」とセンセイはため息をついた。こういういちいち低温で怒
った表情を見せるセンセイが、僕はやっぱり好きなようだった。
 「何してたんですか」と、僕は聞いた。反対に、「お前、何し
てたんだよ」と質問返しが来たので、ひとまず文学賞のことは伏
せて、かくかくしかじか、あれからのことをセンセイに答えた。
 「一人目よりも、二人目の女の子の方が、あっちはうまいです
よ、センセイ、お古でよかったら、紹介しますけど」
 「いいよ」
 煙草を消すと、センセイは、手持無沙汰そうにしてから「じゃ
あな」といって帰ろうとするので、僕は引き止めた。
 「まだ、何してたか、答えてないじゃないですか、質問返しで
終わるの、やめてくださいよ」
 僕が笑いながら、言うと、間髪入れずにセンセイは答えた。
 「僕が一番の読者になるっていったよな、でも、俺は、お前に
二番だと言ったな?」
 「ええ、そうだ、一番目って誰なんです?」
 また、センセイは、僕の質問には答えず、
 「先月、おふくろが死んだんだ」と、答えた。
 「なんか、脳の病気だってさ、ずいぶん前から、時々暴れるよ
うになってさ、もう、俺の小説どころかさ、絵本も読めない状態
だったんだよな」
 「へえ、じゃあ、一番目はお母さんだったってこと」
 「誰かに求められるって、難しいことだ」
 僕は、そう言うセンセイに、封筒を差し出した。ナントカ文学
賞優秀賞を受賞するはずの、僕の小説だった。
 「僕のは、誰かに求められましたよ。でも、全然、うれしくな
いですけどね」
 「ウソだろ」
 「ウソじゃないですよ、誰かに求められるなんて、嫌ですよ。
でも、僕は、こんな風に、なにか賞をもらえるってなって、気付
いたことがあって、だから、センセイに、渡しに来たんですよ、
これを」
 「嫌味だな」
 「嫌味ですけど、仕方ないですよね、他の誰でもない、センセ
イが、僕の小説を読んで、猛烈に悔しがってもらいたいって、僕、
思ったんですよ。だから、こうやって、センセイの書いた小説と
同じような物語で、全く違う、誰かに求められるような小説にし
てみたんですから」
 「じゃあ、俺は読まないよ。俺は、お前を満足させたくないも
の」
 「へえ、それはそれでいいです」
 僕はセンセイから、煙草を一本もらった。初めて吸ったけど、
悪くなかった。僕は器用だから、うまく煙を肺に吸い込めたし、
せき込みもしなかったし、そこそこ香りも楽しめた。きっと、文
豪ごっこのセンセイは、ゲホゲホせき込みながら、吸い始めたん
だろうな、まったく要領悪いんだから。
 「センセイ、どうしてお母さんに読んでもらいたかったんです。
センセイの小説を、他の誰でもない、お母さんに求められたかっ
たんです?」
 「尊敬、されたかったんだよ。一度でいいから」
 「尊敬なら、僕がしてるじゃないですか」
 センセイはそれを聞くと、目をまん丸くして笑った。
 「俺には、決定的にわかるよ。だってお前、俺を見るとき、動
物園の動物でも見るときのような目をするだろう。それは先生を
見るときの目じゃねえよ。お前は尊敬してないさ。俺だけじゃな
い、人間を尊敬してないんだよ」
 そんなこと言われたって、僕にしてみれば、動物園の動物にこ
そ、尊敬を感じるかもしれないじゃないですか、とは、なんとな
く、言えなかった。
 「で、お母さんは、一つでも、センセイの小説、読んだんです
か?」
 「いや」
 「へえ、じゃあ、もう、書く必要もなくなったんですね」
 「あ、そうかもしれない」
 「じゃあ、煙草、やめなよ、センセイ」

 それきり、僕とセンセイは別れた。恋人と別れる時よりは少し
だけ重くて、身内との別れよりは少し軽い、別れだった。
 あれから、数年たって、僕は、あのときセンセイからもらって
初めて吸った煙草を吸い続けている。煙草を吸いながら、求めら
れたくもない小説を書き続けている。文豪ごっこをしているというわけだ。
 センセイ?
 センセイといえば、風のうわさに聞いたから、真相は定かじゃ
ないんだけど、トンカツ屋の店長になって、トンカツをせっせと
揚げているんだって。


(稲垣清隆)

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