魔女の季節 Donovan


When I look out
my window
Many sights to see
And when I look
in my window
So many different
people to be
That it's strange
So strange
You got to pick up
every stitch
Must be the season
of the witch

When I look over
my shoulder
What do you think
I see?
Some other cat
lookin' over
His shoulder at me
And he's strange
Sure is strange

You got to pick up
every stitch, yeah
Beatniks are out
to make it rich
Must be the season
of the witch

You got to pick up
every stitch
Two rabbits runnin'
in the ditch
Beatniks out to
make it rich
Oh no, must be
the season of the witch
When I go




窓の外を見た。
いろんな景色が見える。
窓の外を見た時、
そこにはいろんな人が。
おかしい、おかしい。
一つに繋げないと訳が分らない。
きっと魔女の季節なんだと思う。







振り返って見た時、
何が見えたと思う。
どっかの猫がこっちを見てる。
僕の背中を。
アイツ、おかしい。
絶対に、おかしい。
すべては繋がっている。



ビートの連中なら
深読みするだろう。
きっと魔女の季節なんだろう。




すべてを繋げないといけない。
二匹の兎が逃げていく
ビートの連中は勝手に解釈する。
やばいな、魔女の季節だ。




(written by Donovan Leitch)



 中学時代の、もう名前も忘れてしまった、耳年増な、やけに男
と女の事情に詳しくて、そのくせ全然女にもてないクラスメート
が、二十年経って、成長して、しかし、容貌はあの頃のまま、幼
いあばた顔のまま、どこで住所を知り得たのか、我が家までやっ
てきて、僕を殴り、縛り上げたうえで、息子を殺しにやってきた。
彼を仮にNUとしよう。NUの手には包丁が握られていた。僕は
あらん限り抵抗したつもりだったが、その抵抗は、もしかしたら、
NUに手心を加えていたかもしれず、包丁を前にうろたえてしま
っているのもただのふりで、息子の命よりも自分自身の命をかば
おうとしているほどの抵抗かもしれなかった。その証拠に、僕は、
やすやすと握れるほどにしかゆっくり突き出されない包丁を奪う
ために素手で握ろうともしなかったのだ。妻はどこへ行ったのか
とふと思った。ついしばらくその姿を見ていないことに気づいた。
待てよ、彼女はこの事態をあらかじめ知っていて、それでいて姿
をくらましているのかもしれない。成長したNUに息子を始末さ
せた方が、むしろ自分にとっていい結果がもたらされると考え、
僕と息子を助けに来ないのかもしれない。いや、この狂態に充ち
たNUと内通さえしているかもしれない。僕は、怒りが湧いた。
自分のわざと手心をくわえた非力さを棚上げして、妻の卑劣さに、
怒り心頭した。手がブルブルと震え、手首を縛るビニール製のひ
もが食い込んだ。ぐいぐいと食い込み、皮膚が破れ、血が出そう
になるが、僕は、わざとそうさせた。自分が、心底息子を救いた
いと思っていない代償のようにして。
 その時、妻の声が聞こえた。「パパ、いつまで寝てるの」

 僕が不機嫌な理由を、それが夢のせいだと、僕は妻に告げない。
かいがいしくコーヒーを淹れてくれたり、寝汗でびっしょりにな
った下着に僕よりも先に気づき、わざわざ脱がしてくれて、まっ
さらな下着を着せてくれようとしたりする妻に感謝こそするが、
不信感はぬぐえないのだ。きっと、僕がさっきから口をつぐみ、
何か言われても、そうやって口をつぐんだまま、喉を鳴らして答
えるだけでいることを、夢のせいだと言っても、信じてもらえな
いだろう。なぜなら、悪夢を見ていない昨日の朝も、少しだけ幸
せな夢を見たおとといの朝も、僕は、妻が日課にしているコーヒ
ーを淹れてくれる間、今とまったく同じ表情と態度をしていたか
らだ。だから、特別、今日が、悪夢のせいで不機嫌だなどと言わ
れても、妻は信じない。それが、僕がとらわれている病気のせい
だと、妻は信じ切っているわけで、なにをいっても、また病気の
僕が苦し紛れの言い訳をしているとしか思わないだろう。僕のな
にもかもは、病気に紐付いているらしい。
 でも、僕は病気ではない。

 市役所にいたころ、(もちろん、僕はいつでもそこに戻ること
ができるわけだが)、僕は静かな暮らしを営んでいた。受付で市
民たちのあれこれを手際よく処理し、あれこれをしかるべき解決
に導くのが僕の仕事だった。
防災訓練というものがあった。毎年、8月の末に行われるのが慣
例だった。今年は水害、今年は火事と、毎年趣向を凝らすものの、
到底リアルな災害には感じられず、迫力には欠けた。消防隊の方
々は迫真の演技を僕たちにも要求するが、そうすればそうするほ
ど白々しくなるのだ。白々しさを意識しなくてもいい程度の迫真
さで、僕は余震に備えるため、避難場所へと向かった。
その時、大きな音がした。スピーカーから、なにかが崩落するよ
うな地震を模した音だった。僕たちの本気を欠いた恐慌のように
それは安っぽい音がした。けれど、長く続いた。中には短く悲鳴
を上げた者もいたが、それくらいの効果しかないものだ。長く続
けば続く程、リアルさが失われていった。スピーカーで再生され
るその音が、地震のリアルさとは違う、なにやら防災訓練をして
いるのだというリアルが、その時、僕の中に押し寄せてきて、今、
僕が置かれている状況は、防災訓練の防災訓練の防災訓練の、そ
んな永遠に続く差延の中へとおっぽりだされたような気になって、
僕は思わず「地震だ!」と叫んだ、何度も。同僚達が、笑った。
ギャグかなにかだと思ったらしかったが、普段、誰かを笑わせよ
うとなど一切しない僕が、しきりに、「地震だ」と繰り返してい
るのだとわかると、俄かにパニックに陥りそうに感じているよう
だった。パニックは伝播するのだ、その震源地は僕だった。僕は、
しかし、まさに、消防隊員が要求した通り、防災訓練を、ただリ
アルに受け取っただけと言えなくもない。けれど、揺れもしない
床に倒れ、スピーカーから割れて聞こえる地震を模した音を指し
て、「地震だ」と繰り返す僕は、多分、狂人のように見えた。そ
うではない、あの時、僕はただ、迫真の演技をしただけなのだ。
 ほどなく、市役所に常駐するソーシャルワーカーの元を訪れる
ように言われ、言われた通りにそうして、短いやりとりを経て、
僕は長期休暇を言い渡された。だから、観念しよう、多分、僕は
病気だ。でも、それは、いつでも、いますぐにでも、快復する軽
い病である。それは、僕の心持ち次第なのだから。

 NUの夢を見て、妻に起こされ、熱いコーヒーを飲む間に僕の
機嫌は幾分か緩和してきている。息子はすでに幼稚園へと登園し
て、今はリビングに彼が言うところの「遊び」の残骸が転がって
いるだけだ。列車を走らせる青色のレール、ミニカー、ぬいぐる
み、パズルにマグネット式のブロック、もしかしたら、まだ書き
言葉をうまく操れない息子は巧妙にそれらの「遊び」の道具を使
って、僕宛てに絵文字を残したのかもしれないと思う程、雑然と
散乱した玩具の数々が意味を持っているように見えてくる。息子
は、すでに僕が見たNUの夢を知っていて、僕が全力で助けなか
ったこと、妻が助けに来ぬばかりか、NUと内通していたことに
対して、彼なりの抗議をその絵文字で表して幼稚園へと向かった
のかもしれない。他愛ない考えだろうか、しかし、子供は言語よ
りもまず先に手話を覚えると聞いたこともある、あながち見当外
れではないかもしれない。
 リビングに跪いて玩具を一つ一つ箱に片付けていると、洗濯干
しから帰ってきた妻が気を利かせたつもりか、「あとで、私が片
付けるから放っておいて」と僕の手を煩わせまいとする。僕は、
それを、何もするな、ただ座って、機嫌を直すことに集中しろと、
言ってるとは、解釈したくない。ただ、妻の言葉を無視して玩具
を片付け続ければ、また、更に僕は病気の烙印を押されるに決ま
っている。だから、おとなしく、僕は妻に従う。息子の残した伝
言の続きを目で追いながら、妻の言葉に従い続けることが僕が今
できることのすべてだ。
 従う、あらゆることに従うことが、病気から逃れる唯一の方法
かもしれない。
 では、僕は、従っていないか、反骨心をあらわにして、世の中
の不条理や悪めいたことを非難し続けているか、真実をまっ白い
シーツで覆い隠そうとする連中の手からそのシーツを奪おうとし
ているか、いや、どうぞ、シーツをかけてくれればいい、不条理
は不条理のままに、悪もほどほどにはびこるように、「従え」と
いう声には、従って見せる用意がある。それほどに僕は従順でお
となしい市民のはずだ。でも、なぜだろう。なぜ、それでも僕は
病だと判定されるのか。

 妻に許しを得て、表に出た。丁度タバコが切れたので、一番近
いタバコ屋へ徒歩で赴いてみようと思った。ふと、ライターがな
いと気づいた。自室のストレージの一番上の棚に置いたままであ
ることを思い出した。既に表通りに出て、横断歩道のない道の真
ん中を車の間隙を縫ってようやく向こう岸へと渡った所だった。
戻るべきか、進むべきか、あのタバコ屋には、確かライターも売
っていたはずだ、いや、確信がない。なるほど、タバコを一箱、
買い求めて、また家に戻り、そこで開封して一本くわえ、火をつ
ければいいだけの話だ、ようやくそう気づいて、僕は進む方を選
んだ。そう決断するまでに、ものの二秒だったか、もしくは五分
もそこに僕は奇妙な格好をして佇んでいたのか、わからないが、
丁度斜め前の団地の二階のベランダから年老いた女性が顔を出し
ていて、僕の方を見ているその白い目に気づくと、僕は結論を下
すまでにやけに時間をかけてしまったのだなとわかった。
 いや、あれは僕を見ていたのではない、僕の横を通り過ぎた犬
の散歩をしている老人が、自分の飼い犬の糞を始末せず立ち去っ
たことに対する非難の白い目だと、考え直したが、今度は僕の横
を犬の散歩をする老人など通ったのかどうか自信が持てなくなっ
てきた。僕はまた立ち止まり、とって返して、そこに犬の散歩を
している老人がいるか否かを確かめようかと思ったが、もうそれ
もやめにしようと思った。団地のベランダの老いた女性が向けた
目の白さは、僕に対してだったことでもはやいいと考えたからだ
った。しかし、犬の散歩をしている老人が現にいたのか、そうで
はなく、ただの僕の願望だったのか、確かめようとせずに諦めて
しまうところが、僕が今の僕である所以なのだろうなと、思わず
合点した。でもどうすればいい、そこに犬の散歩をみとめたとし
て、僕は自分が進むという決断に五分もかけねばならなかった人
間ではないとどうして言えるのだろうか、それよりも、犬の散歩
がそこになければ、それこそ、僕はただの偏執狂だという証拠に
なりえてしまうではないか、だから、物事の判断はできるだけ先
送りにするように、行動した方が身のためなのだ、これが、僕の
病気に対する処世術でもある。

 結局、僕はタバコを買わずに家へ戻った。時計を見ると、三十
分も経っていたらしい。靴を脱ぎ、自室のストレージの一番上の
棚を確認すると、ちゃんとそこにライターはあった。あながち記
憶力の方は衰えていないらしい。あとは判断力を養えば、僕はい
つでも市役所の仕事に復帰できるはずだが、しかし判断力はどう
養えばいいのか、忘れていることに気づいた。記憶力も怪しい。
 家の中はしんとしている。一階から、二階へとあがり、妻の部
屋のある三階まで昇った。が、妻の姿が見当たらない。僕はもう
一度時計を見る。ああ、妻は仕事に出かけたのだ。仕事を休んで
いる僕の代りに少しでも家計を助けるために、妻は慣れない仕事
に半月ほど前から出ている。スーパーの荷出しの仕事だ。倉庫か
ら、店内へと、あらゆる品物を補充するために荷物を運ぶ、それ
が彼女の仕事だ。と言って、僕は妻の仕事をしている姿を見た事
はない。一度、見に行こうかと提案したが、妻はそれを拒否した。
まあ、それはわかる。僕だって、自分が市役所の受付で市民の相
手をしているところを妻に見られるようなことがあれば、居心地
が悪いだろう。
 けれど、反対にこうも言える。仕事をしている姿を見ない間は、
妻が本当に仕事をしているか否かはわからない。判断ができない。
もしかしたら、仕事ではなく、他の、僕の知らないことを妻が今
しているとも限らない。こういうことを判断力というのではない
か。判断力というのは、存外こうして養われて行くものかもしれ
ない。
 では、仕事以外に妻は何をしているというのだろう。
 NUか、と僕は思った。
 僕は充分に従ったはずだ。市役所で働く時でも、婦人会に参加
する女性職員達がせっせと集める署名に、何枚もサインしたはず
だ。なにやら訳のわからない標語でいろどられたパンフレットを
近所の住人に配る手伝いもした。その標語の何一つ僕は意味がわ
からなかったが、「お願いします」と言われれば、断るわけには
いかなかった。断れば、きっと、「あの人は反社会的な人物だ」
と認定されてしまうだろう。だから、嫌な顔一つせず、僕が住む
この市がいかに素晴らしい街か啓蒙し、かつ、周辺地域に住む人
々がみなこの街を尊敬するように仕向けるための運動に僕は加担
したのだ。
 それなのに、たかが防災訓練で大きな音に怯えただけのことで、
僕を病気だと認定するとは。だから、僕は判断力を再び獲得しな
ければならない。妻が、今まさに、本当に仕事をしているのか、
それとも、病気であるはずの僕に優しい顔を振りまきながら、そ
っと家を抜けだし、NUと密会しているのか、それを僕は、散歩
の老人を確かめなかった代りに、確かめなければならない。
 僕は再び靴を履き、表へ出た。通りを渡った所で、鍵をかけた
かどうか不安になったが、僕はもう一時もためらわずに、妻が働
いているはずの、スーパーへとまず向った。

 スーパーの店員は僕の顔を見ても、怪訝な顔一つしなかった。
それどころか、他の客にするように、慇懃に、「いらっしゃいま
せ」と笑顔で声をかけてきた。僕はそのことを少し不思議に思っ
たが、すぐに当たり前のことだと思いなおした。カウンターでレ
シートに判を押すだけが仕事の彼女は僕が妻の夫だとは知る由も
ない。仮に知っていたとしても、別に怪訝な顔をする必要はない。
そう合点がいくと彼女を警戒していた自分を恥じたが、別に怒り
が湧いてきた。妻は重い荷物を運び、次から次へと品薄になった
商品の充填を行っているというのに、目の前の彼女は、「いらっ
しゃいませ」と言葉を上滑りさせ、時折レシートに判を押すだけ
なのだ、それで同じ時給ならば、どれほど妻は重労働を強いられ
ているか、どれほど目の前の彼女は仕事をさぼっているか、しか
し、それに目くじらを立てても仕方がない、元より妻はここで仕
事をすらしていないかもしれないのだ。まさに僕はそれを確認し
に行く。もし、仮に、妻が僕にウソをついて、仕事に出ておらず、
NUと密会を重ねていたのだとしたら、僕がたった今感じた彼女
への怒りに対して、僕はどこかで代償を払わねばならないだろう。
素直に、先に謝っておいた方がいいだろうと思い、僕はカウンタ
ーの向こうの彼女に、聞こえるように「ごめんなさい」と投げか
けた。僕の「ごめんなさい」を聞いた彼女は目を白黒させていた
かもしれない、それを確認せず、僕は従業員通用口を通り抜け、
倉庫へと先を急いだ。
 男性職員が僕を止めた。僕の胸に手のひらを当てて、まるでこ
れからテロでも僕が起こすかのように警戒して、押し返した。
「なにかご用ですか?」と、聞くもんだから、僕は「妻が」と口
走ってしまった。息を整え、「妻が働いているもんですから、そ
れを確認しにやってきました」言い方が変だったのだろうか、男
性職員は僕の言葉を聞いてもなお、警戒を解かなかった。
 「ですから、妻がここで働いています。妻が本当にここにいる
かどうか、見に来たのです」
 「お名前は?」
 僕は、僕の名と、妻の名を、出来るだけ丁寧に告げた。すると、
男性職員は、輪をかけて僕を危険視するような目つきになって、
「お引き取り下さい、さもなければ、警察を呼びますよ」と言った。
 「なるほど、僕の判断力は、回復傾向にあるぞ」言葉にせず、
心の中で呟いてから、僕は小躍りしたくなった。妻は、案の定、
ここでは働いていない。そしてすぐに小躍りしたくなった自分を
悔いた。
 それ以上なにも言わず、踵を返し、従業員通用口から店内へ入
り、再びカウンターの彼女に「ごめんなさい」と二度目の謝罪を
して、僕はスーパーを後にした。

 僕は走り出した。急いで家へ帰って、電話をしなければならな
い。鍵を閉め忘れたかもしれないし、更に、僕は携帯電話を忘れ
ていた。妻の携帯電話の番号をそらんじてはいなかった。待てよ、
仮に妻がNUと逢瀬を楽しんでいるなら、電話をしても出るわけ
がないじゃないか。いや、反対にNUと密会していなかったら、
電話に出るかもしれない。僕はまたさらなる判断力を必要として
いた。これをのりきれば、僕は自分が病気ではないと証明できる
ような気さえしていた。
 こんなにも表にいるのは久しぶりだった。家の中にいるよりも
随分身体が消耗するようだった。けれど、僕は歩みを止めるわけ
にいかなかった。一刻も早く帰宅して、妻に電話をする、その一
念で僕は前に進んだ。ふと、足を止めた、僕を一台の車が追い越
したのだ。助手席には、見覚えのある顔が座っていた。運転席の
男にも見覚えがあった。後ろ姿しか見えなかったが、NUはとも
かく、僕が妻を見違えるはずがない。あれは、妻だ。となれば、
運転席はNUであるはずだ。
 バカらしくなって、僕は走るのを止めた。ゆっくりと歩を緩め、
途中で思い出してタバコを一箱買って、ポケットを探ると、僕は
あらかじめこんなこともあろうかとライターを入れていたらしく、
ちゃんと一服タバコを吸えた。吸い終わる頃には、すでに家が見
えていた。

 妻はすでに帰宅していた。息子が泣いていた。妻は帰ってきた
僕に気づくと、病で家にこもり始めて以来、初めて怒った表情で
僕を詰問した。幼稚園から息子が帰ってくる時間をちゃんと伝え
てあるはずだ、その時間には家にいて、ちゃんと息子を迎えてく
れと頼んであるはずだ、どうして勝手に外出したのか、幼稚園か
らバスで送迎された息子は家にも入れず路上で途方に暮れ泣いて
いたではないか、そういう意味のことで、妻は僕に怒った。なん
だ、やはり僕の判断力は、回復している。代りに記憶力が落ちて
いるかもしれない、僕は鍵をかけ忘れていなかった。
 それよりも、僕は笑えてきた。妻は周到に僕を家に縛り付けて
おく理由を何重にも重ねていたのだ。自分は仕事に行くといい、
僕には息子が帰って来るから、その時間は必ず家にいろと言う、
完全なるアリバイを妻は仕立てようとしていたが、すでにネタは
上がっている。
 僕は、知らず知らずのうちで激昂していた。僕が病気であるこ
とをいいことに、妻は不倫をしている。しかも、息子も顧みず、
僕に押しつけ、自分だけ恋愛のさなかにいる、それは人倫にもと
る行為で、今のこの素晴らしい街で、周辺地域の住人から尊敬さ
れるべき市民にふさわしくない行為だ、そう言ってやった。
 「ヌーってなんなの、私が、男と一緒にいたですって、もう、
いい加減にしてよ、もう私、限界です。あなたは狂っているんで
す。妄想に取りつかれた、ひどい偏執狂なんです、私はもう耐え
られません」
 泣きながら、息子を抱き締め、妻はそう言った。防災訓練の時
の僕の迫真の演技さながらだ。であるなら、狂っているのは妻の
方だ。
 僕は、それをそのまま妻にぶつけた。「狂っているのは、君の
方だ」
 僕のその言葉を聞くと、妻は急に他人行儀な顔になり、泣いて
いたのがウソのように冷静な声で、「私が出ていくか、あなたが
出ていくか、どちらか、決めてください」
 最後通告だな、いいだろう、NUをこの家に招き入れようと言
うんだな、よかろう、それを証拠として、僕は妻に僕が完全に正
しかったことを証明できる。僕は息子の手を取った。一緒に、出
ていくべきだ、そうしなければ、夢が正夢になりかねない、息子
は殺されてしまうかもしれない。そう思い、息子の手を引こうと
すると、息子は火がついたように泣きだした。完全に怯えている
泣き声だった。まるで怪物にでもでくわしたように泣きじゃくり、
妻の陰に隠れた。

 僕は家を出た、一人で。なぜか晴れやかな気持ちだった。通り
すがりの人間に一人残らず言ってやりたい気分だった。「僕は、
解放されたんですよ」と。病気からも、妻からも、街からも。
 空に自衛隊の飛行機が何機か列をなして飛んで行った。あれは
西の方か、さもなければ南の方か。思えば市民が一丸となり、我
が街が素晴らしいと唱和しはじめたころだ、僕が防災訓練で具合
が悪くなり、ソーシャルワーカーに長期休暇を勧められたのは。
病気の烙印を押されたのは。病気? いいだろう、病気を逆手に
とって言ってやれることがたくさんある。狂っているのは、僕か、
君たちか、どっちだろう。いずれ答えが出る。いや、答えは、そ
の時々で裏にもなり表にもなるのだ。現に、妻が働いているはず
のスーパーに妻の姿はなかった、それがなによりもの証拠だ。素
晴らしい日本の僕に、僕はならずに済む。それが何よりも救いだ。


(稲垣清隆)

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