何かいいいことないか、子猫ちゃん


What's new, Pussycat?
Whoa, whoa
Pussycat, Pussycat,
I've got flowers
And lots of hours
To spend with you.
So go and powder
your cute little
pussycat nose!
Pussycat, Pussycat,
I love you. Yes, I do!
You and your
pussycat nose!

What's new, Pussycat?
Whoa, whoa
Pussycat, Pussycat,
you're so thrilling
And I'm so willing.
To care for you.
So go and make up
your cute little
pussycat eyes!
Pussycat, Pussycat,
I love you. Yes, I do!
You and your
pussycat eyes!

What's new, pussycat?
Whoa, whoa
Pussycat, Pussycat,
you're delicious.
And if my wishes
Can all come true.
I'll soon be kissing
your sweet little
pussycat lips!

Pussycat, Pussycat,
I love you. Yes, I do!
You and your pussycat lips!
You and your pussycat eyes!
You and your pussycat nose



何かいいことないかい?
子猫ちゃん
お花もあるよ、
たっぷり時間もある。
だから、かわいいお鼻に
化粧しておいで
ほんとにほんとに、
大好きなんだ、子猫ちゃん
君と君のお鼻が





何かいいことないかい?
子猫ちゃん
なんておてんばなんろう
なんでもしてあげたくなるね
だから、きれいなお目々に
化粧しておいで
ほんとにほんとに
大好きなんだ、子猫ちゃん
君と君のお目々が





何かいいことないかい?
子猫ちゃん
なんておいしそうなんだろう
僕が望めば何でも叶うよ
だから、その甘い甘い唇に
キスしてあげる
ほんとにほんとに大好きなんだ
君の唇も、
お目々も、
お鼻も、全部!



(written by Burt Bacharach and Hal David)



 ベッドに二つ置かれた枕、その向こうに操作盤が備え付けられ
ている。操作盤の片隅に埋まったデジタル時計は、『22:34』
と表示している。おそらく、娘は一時間前くらいに眠りについた
だろう。妻はどうだろうか。娘を寝かしつけ、ようやくやってき
た一人の時間をどう楽しもうか、思案しているかもしれない。長
湯に入ろうか、映画を観ようか、それとも最近飲んでいない酒で
も傾けようか、そんなことを考えているだろうか。
 彼女と結婚して五年、その間とりたてて事件めいたことはなに
もなかった。なにしろ平凡で、その平凡さは、僕たちのような一
般人にとっては、この上ない幸せであるはずだ。そんな平凡さを
獲得するがため、僕も妻も、結婚するずっと前から、準備を怠ら
なかった。物心がついてから、小学校に入り、大人が顔をしかめ
るようなことには何一つ手を出さなかった。よく勉強をし、たま
にスポーツを楽しみ、友人を作り、高校に入って初めて恋人を作
って、何度か淡い恋愛を経て、少しだけ偏差値の高い大学に入り、
身の程をわきまえた遊びに興じて、卒業を控えると、就職活動に
いそしみ、ネットで検索すればすぐに調べられるくらいには有名
な会社に滑り込んで、徐々に責任を課せられるような仕事に就き、
結婚して、子供を設ける。波風を立たせないように生きてきたと
いうよりは、凪いだ海を知らず知らずのうちに選んで泳いできた。
こんな幸福なことは、どう考えても他にない。
 そして今僕は、なぜか北関東のとある主要都市の一角にある猥
雑な歓楽街の隅に乱立するラブホテルの一室にいる。女を買うた
めだった。
 出張はウソではない。僕が勤める中堅食品メーカーが作る菓子
は、特に北関東以北の流通がウィークポイントだった。販路獲得
のため、二泊三日の営業に僕はやってきた。成果は上々だった。
北関東地域に強い小売店への卸し業者が新たに口座を開設してく
れるというところまで踏み込めたのだ。その旨を妻に報告すると、
思いの他喜んでくれた。電話口から、言葉を覚えたばかりの娘の、
妻にせがむ声が聞こえた。「パパと電話したい」と必死に訴える
娘と代ると、「帰ってきたら、本を読んで」と嬉しそうな声が聞
こえた。これ以上に幸せなことは僕には想像できない。
 幸せというのは、箱に入っていると思う。そしてその箱は自分
の心の中に無数に存在していて、幸せの入っている箱が多ければ
多いほど人生は完ぺきに近づく。だが、完璧な状態は決して手に
入らない。絶えず、箱が増えるからだ。そして一旦幸せをしまっ
ておいた箱は、減価償却されると価値を失い、在庫処分されて行
く。だから、幸せであるという状態は、幸せが入っている箱の量
がいかに多くても、いつも「相対的に」という鍵かっこがつく。
このことに、誰も明言しないのは、それが自明すぎるからだと思
う。
 僕の心の中には、相対的に幸せの入っている箱は多い。が、最
近新たに現れた比較的大きな箱ができた。苦心してはいるが、な
かなか幸せで満たせないでいる。

 案内所のお兄さんに指定されたラブホテルは、歓楽街から大通
りを一本隔てたラブホテル街に建っていた。他のホテルと同様に、
建物としては特徴的だが、ラブホテルとしては無個性で、そうい
う意味では入りやすい面構えをしていた。いまいちシステムがわ
からない。目隠しのされた自動ドアを一人でくぐると、受付の向
こうに人の気配はするが、そこも目隠しがされているため、本当
に人がいるのかいないのか、わからず、しかも、特に呼びかけら
れもしないため、仕方なく案内所のお兄さんの言う通り、そのま
まエレベーターに乗り、512号室へと向かった。512号室の
扉は鍵もかけられていない。訝しみながらノブを回すと簡単に開
いた。オートロックなのかどうかわからないが、とにかく部屋に
入ると、ふと不用心な気がして、うち鍵をかけようとしたが、思
いとどまった。ここには、僕の他に、遅れてやってくる女性がい
る。まだ見ぬ彼女が入れなくなるといけないと思い、僕は鍵をか
けないまま、部屋の奥へと進み、低い二人掛けのベンチに座り、
あらかじめ、近くのコンビニで買ってしまった吸いなれないタバ
コに火をつけた、ラブホテルの名前、『サンクリスタル』と刻印
されているマッチを使って。
 少し頭がくらくらして、娘と妻のことを考え、またデジタルの
時計で時間を確認してから、タバコを消す。自然とため息が出る。
女を買う、そのことについて、僕は別になんのわだかまりもない。
春を売るのが人類最古の商売であるということもなんとなく理解
できるし、目くじらを立てて、道徳を持ち出し、どうのこうのと
言うのは、なんとなくぼやけている感じがする。にもかかわらず、
僕は今まで一度も女を買ったことはなかったし、風俗に関係する
商売に立ち入ったことはなかった。漠然とコワいという印象があ
ったのだ。何がコワいのか、わからないけど、もし最中に尿意で
も催し、トイレに入ってそこに鏡でもあろうものなら、僕は決し
て鏡の中の自分を見られないに違いない。写し鏡の中の自分とい
う他者を見つめるコワさと言えば近いかもしれない。自分の中の
他者性が分離して、突如そのよく知っている他者に襲われるよう
な不安……。
 ぐだぐだぐだぐだ考えている間に、チャイムが鳴った。扉を開
く。立っているのは女だ。歳の頃25くらいだろうか、いや、3
5にも見える。歳を食って見えるのは、目のせいだ。上のまぶた
も、下のまぶたも、妙に腫れぼったい。その他は若々しいのに、
やけに拗ねた目をしていた。招き入れると、少しおどおどした様
子で、所在なくベンチに座った。名前を聞きあう間柄でもないか
と思いなおし、ビールを勧めると、首を振ったので、二人でコー
ラを空けてみる。コーラの炭酸がヤニ臭い喉を刺激し、すぐにげ
っぷを催す。隣に座る彼女に気づかれぬよう、そっと胃から空気
を抜いたつもりが、彼女はくすっと笑った。細い目が一段と切れ
長になり、鋭利な刃物のように見えた。身長は低い。コカコーラ
の缶を持つ手も小さいし、指も短い。おまけに無口だ。何かこち
らから話そうとしても、茶番めくような気がして、話さなくても
いいように、タバコをくわえ、火をつけた。一本勧めると、
 「大丈夫、持ってる」と、鞄から、メンソールの細いタバコを
取り出し、彼女も火をつけた。
 「じゃあ、シャワー、はいろっか」
 早々にタバコを消すと、彼女は、銭湯にでも行くように、鞄か
らお風呂セットを取り出した。蓮っ葉な口のきき方のせいで、余
計老けて見える彼女は、僕をまたぎ洗面所まで行くと手際よく準
備を始めた。そして、はやく準備をしろと僕を急かした。
 一応、サービスをするつもりはあるらしく、二人で風呂場に入
り、僕を椅子に座らせると、僕の体を洗いながら、彼女は後ろか
ら自分の胸を僕の背中にこすりつけたり、不自然なほど、体勢を
ひねって、股間を腕に密着させた。少し、ひりひりするかもしれ
ないが、お店のいいつけだと言い訳しながら、お風呂セットの中
から、うがい薬を取り出し、お互いの股間に塗り付けた。さっき
から、何に使うのか怪訝に思っていたが、「ああ、なるほど」と、
僕は思った。たしかに、うがい以外にも用途はたくさんありそう
だ。ただ、注意書きには、うがい以外には使わないでくれと書い
てはあるのだが……。
 もしかしたら、その辺りから、彼女は少々変だと思い始めてい
たのかもしれない。風呂を出て、裸のまま、ベッドに移り、依然
としてぎこちないまま、並んで横になると、流れ作業的に、僕の
股間を短い指でぐにゃぐにゃやっている彼女は、「口で、しよっ
か?」と、発言した。
 「じゃあ、お願いします」と、自分で言って、不意に、今、自
分が何をしているのかわからなくなる。女を買うということなら
ば、その時点で目的は果たしている。身体を自由にしていいとい
う前提で、一定時間女を拘束する、そして対価を払う、充分目的
は遂行されている。だが、身体を自由にしていいという以上、こ
ちらも何かを達成させなければならないと、お互いが暗黙の了解
を持っている。つまり、男が最後までいって、初めて、身体を自
由にできたとお互いに了解されうるのだ。
 だから、今、僕にあるのは、女を買うという目的ではない。こ
の女には、伝えてはいないが、それ以外の秘かな目的があるのだ。
それは、性器を奮い立たせるという純粋で無垢な目的だった。

 四年前から、正確に言うと、三年と九ヶ月前から、僕の男性器
は使い物にならない。一人で処理することはあるから、完全な勃
起不全とは言えないかもしれないが、それもごくたまにのことで、
時には、途中で不能になってしまうこともある。ましてや性交に
及ぶ時などは、全くと言っていいほど、使用に耐えない。もちろ
ん、原則として、性交するとなれば、相手は妻となるのわけだ。
ようは、妻との性交において、僕の男性器は全くもって、役に立
たないのだ。この件については、いろいろな問題が噴出してくる
だろう。妻だって、この件について、おおいに不満に思っている。
自分の女性としての沽券に関わるのではないかと訝しく思うのも
当然のことだろう。僕としては、妻に女性の魅力を感じないわけ
ではないのだが、肝心の象徴がそれを証明していないわけだから、
どれだけ説明しても、妻として釈然としないものが残るのも当た
り前だろうと思う。ただ、このところ、その誤解もようやく解け
始めた。つまり、妻自身に女性的魅力がないから僕の男性器が役
立たないわけではないと、彼女も、理解を示し始めた。それで万
事オーケーというわけでもない。妻としては、おそらく、あえて
公にしなくてもいい女性の性欲みたいことも、抱えているわけで、
それが満たされない状況というのは、おそらく、不幸である。僕
にしても、同じことが言える。勃起不全だからといって、性欲が
無いわけではない。むしろ、ある。あるのに、解消不能の状態と
いうのは、非常に不幸だ。
 『心の中の箱』問題に戻るが、性欲に関わることは、僕にとっ
て、決して、幸福で満たすべき人生のど真ん中に居座る箱ではな
いものの、心の片隅で、静かに主張するその箱がからっぽのまま
ではある。このことは見過ごせない。
 僕は、ごくごく個人的に、思案を巡らせてみた。まず、本当に、
僕の性器は不全なのか、妻に女性的魅力がないわけではないとい
うことが、そもそも本当なのか、それとも、器質的不能なのか、
試す必要があった。
 今、僕がしようとしていることのように、金で女を買い、共に
同衾して、試せばそれがわかるのではないかと思ったのだ。仮に、
それで、僕の男性器が隆々とそびえたら、それは……、残念なが
ら、妻に魅力がないということの証左だ。しかし、不全のままな
らば、僕は、依然として性欲を持て余し、それだけではない、妻
も性欲を持て余したまま、他の方法を考えねばならなくなる。

 女は、僕の性器を口に含み、もごもご顎と舌を動かしていた。
妻の仕方とは違った。いや、僕が知っているどの女の仕方とも違
った。なんとなく、「うまい」と思ってしまったことに、少々羞
恥心を感じながらも、僕は下腹部に異変を感じ始める。「あれ、
もしかしたら、これは……」、彼女の口で隠れているゆえ、はっ
きりとわからないが、少しずつ自分の性器が大きさを増している
のを感じる。
 と、同時に、落胆と安堵が入り交じった複雑な感情が僕を襲っ
た。目の前にいる、無様な格好で突起物に吸いついている目の腫
れぼったい女より、妻は、女性的魅力において劣っているのか…
…。しかし、それは違った。
 性器を口に含みながら、突然女が笑った。別にそんなこと感じ
る必要もないのだが、僕は一瞬、蔑まれたような気になって、曖
昧に笑んだまま、出来るだけ平穏に、「どうした?」と、聞いた。
 性器を口から出し、照れたような笑いを浮かべ、「ごめん、先
っちょが口内炎に当たって、痛いんだよ」
 それきり、僕の性器は、しぼんだ。再び、ただの尿を漏らす器
官へと戻り、二度と大きさは取り戻さなかった。
 どちらかと言えば、早く仕事を終えたそうだった彼女も、さす
がに仕事人としての誇りがうずいたのか、どうにかして僕を性的
終末へと導こうとした。あの小さな鞄のどこにそんな余地があっ
たのか、わからないが、中からローションや、果てはナースの制
服まで出し、あの手この手で僕を興奮させようとしたが、無駄だ
った。いや、確かに、脳のどこかの部分は興奮していたかもしれ
ない。けれど、僕の象徴にとっては無駄な努力だった。
 やがて、いつのまにか、彼女がセットした携帯電話のアラーム
が鳴り、僕が買った彼女を自由にできる権利の時間は終了した。
 「ごめんね、けど、受け取るものは受け取らなきゃならないん
だよね」
 彼女は言った。もちろん、支払うものは支払う。僕もそのつも
りだ。むしろ、僕の個人的な実験に付き合わせて、悪い気がして
いたし、しかも、肝心の性器も立たず、彼女に惨めな思いをさせ
てやしないか、気になった。決して、彼女に魅力がないというこ
とではないと伝えたかったが、鼻で笑われそうで、止めた。

 妻の料理は、いつにもまして腕によりをかけてふるまわれた。
出張の成功を祝っているつもりらしかった。
 タイの刺身、あら汁、海老フライ、春雨サラダ、栗ご飯、娘は
目を見張って、喜んだ。女子の割に、食べることの好きな娘は、
もう年頃なのだろうか、「お母さん、大好き」などと媚びを見せ
た。涼しい顔で、妻はそれをいなす。
 「ケイちゃんも、大人になったら、誰かに食べさせてあげてね」
 すると、三歳の娘はこう返す。
 「パパに、作ってあげる」
 苦笑しながら、妻が席につくのを待って、三人揃って手を合わ
せた。娘は一番に海老フライにかぶりつく。同じく妻も海老フラ
イを口に運んだ。不意に、あの妙に目の腫れぼったい女が口をも
ごもごさせている映像が浮かんで、僕は奥歯を噛みしめる。目ざ
とく、妻が無言で疑問符を投げかけてくる。それに、いかにも仕
事のことを考えていた風を装って、首を振ると、海老フライは選
ばずタイの刺身を一切れ、口に運んだ。
 娘は、父が家に居る限りは、必ず、「パパと寝る」と譲らない。
女を買って、気疲れしただけではなく、もちろん、本来の目的で
ある出張の疲れもあり、絵本を読み聞かせているうち、つい娘よ
りも早く眠ってしまった。それを見届けると、妻は、ゆっくりと
自分の時間を楽しむ。長く時間をかけ風呂に入り、昼間読めない
本を読み、深夜を過ぎると、僕と娘の隣の布団にもぐりこむ。背
中をつつかれ、僕は目を覚ました。まず目に飛び込んだのはぐっ
すりと眠っている娘の寝顔だった。起こしたのは、妻だ。寝返り
を打ち、まだ夢うつつの瞼でじっと妻の顔を見ると、かすかに彼
女は微笑んでいた。
 三十を越した女性が初めて獲得する羞恥心と幸福の混じった頬
笑みをたたえ、妻は僕の首に柔らかく唇を押しつけた。
 僕と妻は無言の相談をしながら、彼女は三人の寝室を出て、リ
ビングのソファに行かないか提案した。僕は目を閉じた。彼女は、
それを承諾の合図だと勘違いしたのか、布団を抜けだし、三人の
寝室を出て行った。
 まだ、覚醒しきらない頭でしばらく考え、娘を起こさぬよう、
僕も妻の後に続く。不安はあったが、この際、出たとこ勝負をし
てもいいような気がした。
 キッチンのペンダントライトだけを灯したリビングは、ほどよ
い間接照明の薄明かりになる。妻は、下着姿で、ソファに座りク
ッションを抱いていた。僕は、きちんと寝室の扉を閉めたか不安
になり、振り返る。小声で、「こっちに来ない」と妻の声が聞こ
えた。穏やか過ぎて、抵抗できない声だった。
 妻の隣に腰掛け、あとは成り行きに任せた。そうしなければい
けないように、妻の胸を手で触り、そうしなければいけないよう
に、妻は僕の下腹部に手を伸ばした。僕の性器は、やはり反応し
ない。それでも、自分は一向に構わないのだという自信に裏打ち
された妻の笑顔が、僕にとっては痛々しく見え、彼女の顔が見え
ないように、こちらに引き寄せ、抱きあう格好になった。すると、
妻が、不意に、「なにか悪いこと、したでしょ」と、いたずらっ
ぽくつぶやいた。
 すぐに、かまをかけているのだとわかったが、僕は、意識とは
裏腹に、妻の肩に顎を乗せたまま壁を見ながら首肯した。その感
触が妻に伝わったようで、「それで、どうだった?」と彼女は僕
に聞いた。その声は、非難めいてはおらず、それでいて、取り立
てて優しく許すでもなく、不安定に響いた。
 「ダメだったよ」
 妻にだけ、魅力を感じないわけではないという点では、安堵す
べき結果であり、不能のままであるという点においては、落胆す
るに値するという妻にとっても複雑な答えに、二人してどうして
いいかわからず、それでも前戯の手を緩めるのは不適当な気がし
て、スポーツの練習かなにかのように、二人で愛撫に熱を入れ続
けた。それは、不毛だった。なにも、もたらさないし、自己目的
化するには、情けなさすぎる行為だった。
 その時、家の電話がなった。携帯電話に慣れてしまった僕たち
にとって、めったにならない固定電話のそれは、やけに鋭く聞こ
え、あたりを震わせた。深夜である。家の電話が鳴る理由は見当
たらなかった。しばらく下着をずらした格好のまま、僕と妻は顔
を見合わせ、ベルが鳴るに任せていた。僕と妻を我に返らせたの
は、娘だった。鋭い呼び出し音に目を覚まされた娘は、何か、非
日常的な出来事が起こっているような不安に駆られ、今にも泣き
そうな声で「どうしたの?」と聞いた。徐々に娘の目に映り始め
たのは、パパとママの見たこともない恰好だった。まだ、呼び出
し音は続いている。僕は急いでパンツをずりあげると、受話器を
取り上げた。
 「もしもし」
 妻は、娘に背を向け、ブラジャーのホックを嵌めようとしてい
る。焦っているのか、慣れたはずの行動がかみ合わない。ようや
くパジャマを着ると、娘を抱き抱え、僕の方を向いた。心の底か
ら感じる羞恥心で、顔を赤らめながら、妻は電話の行方を見守っ
ている。
 電話の相手は母だった。郷里で、父と二人で住んでいるはずの
母である。僕は、少し、怒りが湧いて、母にとってはいわれのな
い苛立ちを、あからさまに電話の向こうに向って、吐きだした。
 「なんだよ、こんな時間に」
 すると、素直に母は謝った。『明日にしようと、思ったんだけ
ど、ごめんね』という声が震えている。泣いているのだとわかっ
た。
 母は続いて『父が、今朝、亡くなった』という意味のことを僕
に伝えた。

 北関東の販路については、おそらく僕が敷いたレールに沿えば、
まだ頼りなげな三十になったばかりの部下でも引き継げるだろう
と、僕の直属の上司は判断した。おかげで、しばらく郷里に帰る
ことが出来た。
 母から電話をもらった次の日の朝、僕は妻と娘を連れ、新幹線
に乗り込んだ。昨晩の出来事について、僕も、妻も、娘も少しわ
だかまりを持ったまま、僕は僕なりに、妻は妻なりに、娘に対し
て、取り繕うように、おどけてみせたり、駅弁を買って、かいが
いしく食べさせたりして、なんとかわだかまりの氷解を待った。
 父は面白くない人だった。母とは見合い結婚だったと聞いてい
る。結婚してすぐに僕の兄を設け、続いて翌年、僕を設け、その
後は勤めている会社の仕事に没頭した。僕は、正直なところ、子
供の頃から、大人になっても、父と満足な会話をしたという記憶
があまりない。ただ、父には口癖があって、「身の丈にあった生
き方をしろ」と常々言っていた。ようは大それたことは考えず、
大抵の人が歩むだろう人生をつつがなく生きろと言いたかったの
だと思う。僕は、兄に比べれば、それを忠実に守った方である。
だが、兄はと言えば、父のそんな教えに反発したかどうかは分ら
ないが、どちらかと言えば、身の丈に合わない生き方をしてきた。
音楽の道を志し、ようやく一枚のCDを出し、メジャーデビュー
したはいいが、大して売れもせず、そのくせ、齢35にして、二
度も離婚を経験し、二人の元妻の間にそれぞれ男の子と女の子を
設け、かつ現在は、新たな恋人を持っているという。だが、大人
になると、父は、どちらかといえば、自分の教えに背いた兄の方
を優遇した。父の言う通りの人生を歩んだ僕よりもだ。
 納得いかない思いを抱えながら、いつかその思いを父にぶつけ
てみようと思っていたが、叶わずに父は逝った。死は、死んだ当
事者だけでなく、それに関わるまだ生きている人々の心にある思
いみたいなものを、少しずつ削り取っていくものなのだと、今さ
らながら痛感する。
 喪主は、兄がすることになったようだ。母と協力して、通夜か
ら葬式まで、兄は、金色に染めた髪のまま、淡々とこなした。僕
と妻と娘は、まるで弔問客のように、ただ兄と母に終始ついて回
っただけだ。
 想像していたよりも、悲しみはなかった。あくまでも、想像し
ていたよりはである。それなりに悲しく、それなりに涙が出た。
淡泊な父だったが、それなりに楽しい思い出もある。圧倒的に量
は少ないが、楽しい思い出の中の父は笑っていた。僕も笑ってい
る。そんなことやあんなことが、住職が唱える最後の経に乗って、
次第に思い出されるようで、悲しみが増した。兄は人目をはばか
らず、泣いている。僕はああいうふうにはいかないと思いながら
も、いよいよ火葬場へと赴くため、棺を封印するとなった時、俯
いたままの僕の目頭からは、じわっと涙があふれた。
 親族そろって火葬場に移動し、父の入れられた棺が炉に入れら
れるのを、皆で見送った。みな、一様に疲れている様子だった。
北関東の一地方都市の歓楽街にそっとそびえるラブホテルの中で、
いたずらをしていたおとといの夜のことが、なんだか遠い昔の出
来事のように思えてきて、むしろ、そんなことを、これからまさ
に焼かれようとしている父を前に思い出している自分を恥じた。
 親族たちは、待合室で、死者が炉に入れられた後、充分に焼か
れるよう、時間を潰した。娘は疲れたのか、妻の膝の上で眠って
いる。僕としても、おそらく妻としても、昨晩娘が目にしたパパ
とママの破廉恥な光景を、忘れてくれることを祈るばかりだ。な
んとなく妻の目が合い、二人共、顔を赤くしたが、性器が不全な
分だけ、僕の方が赤くなっているような気がした。
 係りの男が、父が焼けたことを知らせに来た。するとめいめい
に立ち上がり、骨拾いに向った。
 幾つも炉への入口が並んだ妙に清潔感のある大理石造りのロビ
ーに、親族が再び集まった。妻は骨拾いがどうやら苦手らしく、
娘も依然として眠っていたままなので、待合室で待つとここへ来
るのを断った。
 係りの男が神妙そうに、手順を説明して行く。炉が開き、骨に
なった父が現れた。炎にさらされたばかりの父が寝ていたベッド
はまだ熱をもっていて、触ったらすぐにやけどしそうだ。係りの
案内に従って、親族たちが協力し合って、骨を拾っていく。やが
て、僕の番が回ってきた。僕は、兄と共に、木箸を持って、鎖骨
あたりであろう父の骨を骨壷に収めた。なんだか、変な感じがし
た。灰で固 めたぼそぼそのオブジェのような父の骨の感触が箸を伝って指に
届いた。それが変だとでもいうのだろうか。まあ、変だろう。い
や、でも、それだけが変なわけではない。僕は、股間に熱さを感
じていたのである。
 本当に、どうしたことかわからないが、僕の性器は、かちかち
に固まっていた。なんら性的なことはない。今は、自分にとって
一番近い親族である父の死に直面しているはずだ。死は、性的衝
動から一番遠いような気がするが、それは違うのだろうか。生へ
の渇望、それが性的衝動ではないのだろうか。いや、違う。死の
疑似体験、それがエクスタシーであると、かすかにどこかで読ん
だ覚えもある。いや、そんな形而上的な話をしている場合ではな
い。あきらかに、今、僕は性的衝動を感じるような場面には、い
ないのだ。けれど、なぜ勃起しているのだろう。わからない、訳
がわからなさすぎる……。

 無人の浴室で、シャワーを出しっぱなしにしたまま、僕と彼女
はベッドに横たわっている。
 「水が流れている音を聞くと安心するの」
 目の腫れぼったい女は、僕の胸に頭を置いたまま、つぶやいた。
 確かに、こういう仕事をしている限り、なにかと水には縁が深
くなるだろうと、僕はすぐに想像できた。身体を売る彼女のよう
な女達は、海女さんや、漁師さんや、水泳選手の次くらいに、水
に慣れ親しむのではないだろうか。仕事をする前、した後には、
必ずシャワーを浴びるのだ。そして、一日に何度も。水に安心感
を抱くこともわからないでもない。
 父の死以来、正確を期するならば、父が焼かれ、その骨を拾っ
て以来、僕の性器は、必要以上に排尿以外の役目を果たすように
なった。
 誤解しないでほしいが、再び、この目の腫れぼったい女を金で
買い、同衾しているのは、なにも僕だけの意思ではない。そもそ
も妻がそうしろと提案したことの方が先である。どういう意図が
あるのか、わからないが、僕が性的回復を果たして以来、妻は僕
が金で女を買い、そこで行われる性的な行為の顛末を聞きたがっ
た。しかも、その話を聞き、妻は、性的興奮を味わっているよう
だった。いわば、僕はそんな妻のために、体当たりの取材に来て
いるというわけである。
 彼女は、僕の胸に頭を乗せたまま、舌をぺろりと出して、胸の
あたりを舐めた。金で彼女の自由を買える時間は、あと30分程
度ある。30分なら、一行為終えるに、充分な時間だ。僕は、少
し乱暴に彼女を仰向けに押し倒した。そして覆いかぶさると、再
び獣のような性的行為を前とは違うやり方で、行った。
 後日、妻は、何度もその時、僕がしたことを、詳細に聞きたが
った。娘が寝静まった後、死の報告が来ても娘を起こさぬように
電話のコードを引き抜き、僕の書斎のある二階へ上がって、僕と
妻は性的な行為に耽った。
 そして、妻は僕に聞くのだ。
 「それで、その女の子、口内炎は治ってたの?」
 「ああ、治ってたさ」


(稲垣清隆)

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