ベンツが欲しい


Some day
my prince will come
Some day we’ll meet again
And away to his castle
we’ll go
To be happy forever I know

Some day
when spring is here
We’ll find our love anew
And the birds will sing
And wedding bells will ring
Some day
when my dreams come true



いつか王子様が来てくれる

いつかまた会える
二人でお城へ行って

ずっと幸せに暮らすの

いつか春が来たら

愛が芽生えて
そして鳥は唄い
ウェディングベルが鳴り響く

いつか夢は叶うわ



(Larry Morey, Frank Churchill)



 別に、望んでないのに、友だちが減っていく。まあ、私の友だ
ちの定義がズレてるからかもしれないけど、でも、一年に一度も
会うこともなく、電話で話すことも、手紙もメールのやりとりも
ない人物を私は友だちと呼ばない。女ってのは、結婚すると、友
だちから引退する生き物なのか、私もそうなのか、一度試してや
りたい気がしないでもないが、どうやら無理っぽい。
 かたや、男友だちっていう人種もいるわけだが、こっちは、私
にとって、絶対数が少ない上に、だいたいにおいて事務的で、性
的なことにまつわること以外は、ものすごく淡泊で、だいたい話
してても仕事の話とかして終わる。
 一応、断っておく。『性的なこと』云々と言ったのは、決して
見栄を張ったわけじゃない。あくまで一般的にということであっ
て、私に『性的なこと』が多いわけではない。要するに、私はあ
まり男から性的な目で見られないらしい。いや、らしいだと、ま
だ自己欺瞞のニオイがするな。ここは、きっぱりと表現するべき
だ。ない、のだ。
 人間は、未知なるものを恐怖する。最たるものは『死』だ。と、
高校の時の倫理の先生が言っていた。恐怖の対象は未知だが、ち
なみに、汚穢の対象は『外部性』が原因なのだそうだ。なんだっ
け、あれだ、バタイユかなんかが言ってたのか、つまり、自分の
頭に張りついてる髪の毛は汚くもなんともないのに、体から離れ
た途端、汚穢の対象になる。唾液なんかもそうだ。口の中、唾液
だらけなのに、吐いた途端、めちゃ汚え。だけど、恋人は、唾液
の交換をする。戦時中、戦地に向う夫が貞淑な妻の陰毛を欲しが
ったという。こういうのは、他者を内部に取り込んでいる証拠だ。
 そう、それが『愛』だ。
 私の場合はというと、ここ数年来、男と密接に関わっていない。
その間に、彼らは未知となり、完全に外部性をまとった生物にな
ってしまった。高校の倫理の先生風に、あるいはバタイユ風に言
えば、それは、恐怖の対象であり、汚穢の対象。確かに、私には、
そんな実感があり、あながち先生とバタイユもバカにできない気
分がしてくる。
 恐怖と汚穢の感覚は転じて、忌避と嫌悪に繋がる。
 ここまで、分析できる私なのだから、次に取るべき行動は、彼
らを未知から既知に、外部から内部に、取り込むよう努力すべき
と容易に解決法が導けるわけだが、努力? それは、欲する者が
とるべき行動でしょうが、私は、男を欲しているのか、いや、欲
していない。これを、「はい、自己欺瞞」と、片付けられないと
ころが、ちとつらい。
 と、まあ、こんな博学な私が、なぜ三文ライターに身をやつし
ているかというと、それがわかったら苦労しない。二十代の頃は、
なんか傑作書いて有名になってやると、まあ、かすかに、ほんと
は貪欲に、野望を抱いて、それこそ名誉を欲するがため、努力を
重ねていたのだが、30代を過ぎ、なんとなく息切れが始まって、
40代を目前に控えると、あの野望はすでに記念碑化して、朝の
ラジオ体操みたいに、ダラダラ題目唱えるだけで、今は現実に営
まれる日常をいかに生き抜くかみたいなことに、思考のほとんど
を持ってかれている。ああ、なんだっけ、私、どうしてライター
なんかやろうと思ったんだっけ、それすら忘れそうな毎日だ。い
や、本当は覚えている。ただ、忘れそうな感覚に、自らすすんで
近づいているだけだ。私が、ライターを志した理由は、中学生の
時に読んだ本に感銘を受けたから。尾崎翠、ああ、今は、名前を
言うのも恥かしい。モチベーションに羞恥を感じる時点で、私は
重症である。
 尾崎翠は、戯曲とか映画のプロットとかも書いてたようで、そ
ういう風に私もなりたいと思って、そっち方面も開拓しようとし
たのが、なんとなく運の尽きって感じがしている。
 ライターに対する待遇には、出版業界もひどいが、輪をかけて
エンタメ業界もひどい。じゃあ、文章書きはいったいどこで立つ
瀬があるのかというと、多分だが、ほぼない。有名になる以外は。

 かつて一度だけ仕事をしたことのある編集者に紹介してもらっ
た彼の友だちの知り合いというのが、今、目の前にいる奥泉とい
う映像制作会社のプロデューサーだ。出会って、初めて誘ってく
れた仕事が、某テレビドラマのリサーチという仕事で、ようは、
メインライターが忙しいために、代りに取材してくる仕事。ほん
とは、メインのやつ、忙しいのかどうか、怪しいもんだが、ま
あ、いい。めんどくさい仕事を下っ端に押しつけられる特権を得
るために、彼は頑張ってメインになったのだ、それだけじゃない
けど。私だって、きっと、メインになったら、そうする、それだ
けじゃないけど。でも、私が、サブからメインになれる可能性は
年々、急降下していく。もうとうの昔に誰かが、掘り起こしてし
まった宝ものの地図を頼りに、私は目的地への険しい道を歩いて
いるのかもしれない。まあ、でも、「ああ、掘り起こされてたん
だ、わたしってバカだなぁ」って、わかるまでは、とりあえず、
歩くしかない。まだ、掘り起こされてない可能性だってあるのだ
から。
 「幼児虐待ってあるでしょう、あれ、テーマにしたいって、先
生、言うんですよね。僕も、あ、いいんじゃないですかってなっ
てさ、だから、鳴沢さんに、取材してきてもらいたいんですよね」
 へらへらした奥泉の声が、ああでもないこうでもないと他ごと
を考えていた私を打合せに引き戻した。
 だが、相槌を打ちながら、すぐまた、ああでもないこうでもな
いに、私は戻っていく。この間、友だち引退した大学の同級生は、
私のことを不思議がって、「鳴沢みたいな仕事やってりゃ、出会
いくらいあるでしょうが、私なんかより、よっぽど男と出会う確
率高いよ。その中から選べばいいのに」と、中目黒の焼鳥屋でビ
ール片手に、アドバイスしてくれた。当人は、二ヶ月後に結婚式
を控えている身分で、余裕綽々の様子が、少々癇に障ったが、ま
あいいさ、心配してくれてることは本当なんだ、でも、友だちよ、
出会いというのは、額面通り、出会うってことなのかい?だった
ら、多いよ、出会いは。だけど、まず恋人になるっていう飛躍と、
もし、結婚ということを暗にほのめかしているなら、その恋人と
いう関係から、更に決死のダイブをしなきゃならないほどの出会
いという意味なら、皆無だよ。なぜなら、私が今泳いでいる仕事
環境というのはだな……、長くなるから、いいわと思いなおして、
「そうね」と短く答えといてやった。
 目の前の奥和泉を見る。「幼児虐待っていうテーマ、面白いそ
うだよね、確かに、視聴者たち、いまのぬるいドラマにちょっと
飽きてきてるような気がしてさ、ハードなテーマくらいのほうが、
逆に、うけるかもね」と、へらへらへらへら言っている。これが、
出会いか、と、我ながら暗澹たる気持ちになる。友人よ、私は、
確かに、この目の前の奥泉の他に、仕事上、男というものに、何
人も会う。だが、私に言わせりゃ、彼も、別の彼も、そのまた別
の彼も、奥泉B、奥泉C、奥泉Dってなもんだ。AもBもCもD
も、家事・育児がこなせて、あまり賢しらではなく、かといって、
バカというわけでもなく、どこに出しても恥ずかしくはない、少
しかわいい女が異常に好きで、それ以外の女は男でも女でもなく、
第三の性とでもいうか、ただの仕事上付き合いのある人間程度に
しか見てなくて、逆に私から見れば、幼児虐待えへへへとへらへ
らしてる男と恋人になるビジョンはどこをどうひねっても出てこ
ないわけで、おい、これを出会いと言うなら、あんたは、この出
会いの中から、何を見つけるんだと、問いたい。が、その友人は、
いまごろ、ハワイだっけか、に、新婚旅行中だから、直接問えな
いし、そもそもすでに友人引退をはたしているから、二度と会わ
ないと言っても過言ではないから、ただの私の遠吠えみたく聞こ
えるじゃないか、だから、もうやめとこう。
 私は、奥泉に、「じゃあ、まずは、児童相談所辺りから、始め
ましょうか?」と、提案する。どんなに、個人的に目の前の男が
矮小に見えても、仕事は仕事である、きっちり、要求以上のもの
を提案しようと思う。私は、真面目くさった顔で、リサーチ資料
の手順と締切を相談し、打合せを切り上げた。

 と、言ったものの、私には、幼児虐待を真に理解することなど、
きっと無理だろうと、思う。これは、子供に暴力をふるうことな
んて、倫理的に、道徳的に、許されるべきことではないという、
義憤があるとかないとか、そういうことではなく、子供に暴力を
ふるうという事象どころか、子供を設けて、そして子供を愛する
という事象をまずもって理解できないのだから、愛に端を発する
のか、憎悪に端を発するのかはともかく、子供とガチで対峙して、
そこでなにが生まれるのか、生まれたものがエクストリームして、
なぜ暴力に行きつくのかの理解に到達することは、到底無理だ。
 私は、おそらく、子供を産めるという身体的機能を果たさず、
老齢を迎えるに違いない。そう確信している。ちょこっと通った
シナリオスクールの先生が言っていたが、真に迫る物語は経験か
らしか生まれないらしい。ということは、私は、子供についての
真に迫る物語は書けない。今も、この先も。
 いや、正確な描写を期そう。子供を持つ親について真に迫る物
語は書けない、である。
 もちろん、この世に生きとし生ける生物がそうであるように、
私にだって、子供であったことはあった。子供という立場で親と
いう存在を間近に感じたこともあった。だから、子供の物語は書
けるかもしれない。ただ、私の子供としての経験は、随分平凡で、
それを仮に物語にするのだとしたら、ひどく凡庸な、陳腐なスト
ーリーになるだろう。
 作劇には、だから、取材が必要なのだ。今、この、幼児虐待を
テーマに書こうと思いついたメインライターは、自分が、幼児虐
待したか、されたか、という経験は、おそらくないだろう、だか
ら、取材を通して得られた実体験を伴ったサンプルを欲している
のだ。それは、痛いほどわかる。もし、あのシナリオスクールの
先生の「経験からしか」云々という言が本当だとしたら、世の作
家たちは、随分、派手で、悲惨で、幸福で、不幸なおびただしい
経験を、してきたはずだ。だが、実際には、そこまで複雑な経験
をしている作家は、おそらく、少ない。であるなら、そこには、
きっと、たゆまざる想像力の鍛錬とそれを裏打ちするリサーチが
隠されているのだと思う。

 電話に出た所長は、ぜひ、取材に来てくれと答えた。余りポジ
ティブではないテーマだし、虐待という難しい問題に日々取り組
んでいる現場の人間なら、取材と聞けば、あまり色よい返事はし
ないだろうなと思っていたから、意外だった。
 私が、まず、コンタクトを取ったのは、川崎市の某地区にある
児童相談所だった。私が住まう場所から、比較的近い、いわゆる
養育困難と認定された親子が比較的多い地域だった。
 最寄りの駅を出ると、坂の多い街だった。なんどか坂を下った
り、登ったりして、狭い道を過ぎ、坂を登りきった老人養護施設
の隣に、その児童相談所はあった。少し、私は息が切れて、入口
の前で立ち止まると、やけに眺望が開けていることに気づいた。
息を整えてから、館内に入ると、昼間だというのに、いや、昼間
だからなのか、薄暗くて、やけにひっそりとしていた。そこに、
子供の声は響いていなかった。
 「お待ちしていました」と、五十がらみの背の低い館長が私を
手招きする。彼は私を応接室に案内してくれた。
 「テレビドラマですか、それは、それは、ぜひ、私どもが直面
している日常を包み隠さず、伝えてください、それにしても、シ
ナリオというんですか、ああいうのは、難しいんでしょうな」と、
気さくに話しだす館長に、私は、少し申し訳なくなり、「あ、い
や、私は、いわゆるリサーチを行っている者なんです。現場の取
材をさせていただいて、それをまとめ、シナリオを書く先生に資
料をお渡しするのが、仕事です」
 「なに、一緒ですよ、あなたが書いたものが、多かれ少なかれ、
ドラマに反映される。そこが、我々にとって重要なんですから。
まず、どうしましょう、少し、お話してから、館内をご案内しま
しょうか」
 「そうしていただけると助かります」
 ワイシャツにネクタイ、その上から、作業着のような上着を羽
織った館長は、柔和で、彼から、暴力のニオイはしなかった。私
の視線が、作業着に向っていたことに、気づいたのか、館長は、
「これですか」と、少し笑いながら、話し始めた。仕事柄、人の
気を読むことに長けているのだろうか、心を読まれたようで、少
し悔しかった。
 「児童相談所の仕事って、どんなイメージなんでしょうね、事
なかれ主義のお役所仕事と思われてるんでしょうか」
 「そんな」
 「いえいえ、結構、でも実際はね、重労働なんですよ、まさし
く、その名の通り重労働。格闘と言ってもいい。まずは、男の子
ですね、見た目は子供でも、力は強いですから、あとは、親御さ
んですね、お父さんは強いですよ、やっぱり。でも、お母さんも、
これがなかなかの力持ちでね、私なんかもう歳でしょう、力及び
ませんよ」
 「あの、と、言いますと」
 館長は、笑った。
 「一番の暴力にさらされているのは、子供で間違いありません。
しかし、二番目に暴力にさらされているのは、私ら職員です。仮
に、通報がありましょう。警察が付き添ってくれますな、その時
は、おとなしいもんです。親御さんも、お子さんも。しかし、そ
の夜です。親御さんが引き取りに来るんですな、ここに、直接。
頭冷やして、冷静になったと思いきや、更にヒートアップしてま
す。皆、自分を、いい親だと思ってるんです。悪い親だとはいい
ません、良い親なのかもしれません。ですが、目の前の暴力から、
子供をひとまず、なにはともあれ、引き離す。それが我々の仕事
でしょう。子供を盗られたと思うんですな。だから、えらい剣幕
で詰め寄られるんです。子供を返せって。しかし、私達は、返し
ません。児童相談所が介入すれば、そこからしかるべき調査をし、
安全だという判断が下されるまでは、子供を返せないんですな。
そういう事情をわかっていただけませんと、最悪、我々は暴力に
さらされます。ほら」
 と、館長は作業着の腕をまくった。傷の痕が残っている。
 「これは、まだいい方です。みせられないほどの生傷がこっち
にあります。私は、一度骨折しました。一度で済んだのは、まだ
ましな方です。三回骨折してる職員もいます。とはいえ、私はね、
職員に言ってるんです。まあ、この際、何が善で何が悪か、それ
は、もう考えるなとね。想いや主義主張、それは、後からどうと
でも処理できます。とりあえず、死んじゃいかんと、目の前に暴
力があるなら、逃げろと。逃げられないなら、逃がすように手を
差し伸べろと」
 私は、なんだか、くらくらしてきて、気づくと筆記するボール
ペンが止まっていた。まあ、この際、記録はボイスレコーダーに
任せ、なんとか少しでも、この館長の話す感覚というものに、追
いつくべく、気持ちを逸らせた。
 「ただね、親御さんには、理屈がありましょう。だから、まあ、
結構ですな。話す余地がありますから。問題は、子供です。子供
というのは、壁みたいなもんです。なにを考えているか、見当も
つきません。ネガティブな意味じゃないです。大人にわかってた
まるもんですか、子供が考えていることが。壁にボールをぶつけ
れば、ほぼ同じ力で返ってきます。子供に暴力を振るえば、同じ
力で、打ち返される。すぐにではないかもしれない。うちにエネ
ルギーを溜め、それが悪しきエネルギーならば、悪しき力を溜め
こんで、いつか打ち返す。それは、とんでもない力です。実は、
三回骨折したという職員のことを話しましたが、うち二回は子供
からの暴力でした」
 「それは、家に帰りたいから、暴力をふるうのでしょうか」
 「どうでしょうかね、根源的には、そうかもしれませんが、表
面的には、違いますね。とういうか、直接的な理由は多分ありま
せんね。自分でもどうしようもない初期衝動が暴力に向かわせる
んでしょうな、児童心理とか、私、よくわかりませんけど」と、
館長はまた笑った。へらへらしていたが、なんだか、奥泉のへら
へらとちょっと違った。まあ、私の精一杯な文学的表現を借りれ
ば、仕方がない諦めの中で、どうしても諦めてはならないものが
ある時のヘラヘラだ、とでもいうのか、とにかく、館長は、あけ
すけに、私に、脈絡なく、その後もいろいろと喋りまくった。
 やがて、「じゃあ、どうです、館内を見ますか」と、館長は、
立ち上がった。
 事務室側の通用口は、厳重に鍵がかけられる仕組みになってい
たことを、私は、そこを通り過ぎてから、気づいた。渡り廊下を
渡りながら、館長はまたしても、私を見透かしたように、その説
明をした。
 「仕方ありません、あくまでも、子供たちがいる環境と我々職
員たちがいる環境を隔てておかなければ、ならないのです。さっ
きも申しました通りの現状なのですから」と言った。
 渡り廊下から、運動場が見えた。誰もいない静かな運動場だっ
た。運動場というと、サッカーでもできそうな響きだが、せいぜ
いテニスが出来る程の広さで、渡り廊下からわずかに望む空が、
きれいで、なんだか子供のころに見た風景だなと、私は思ったが、
すぐに思い返した。見るはずがない風景だ。私は、児童相談所な
どには無縁の平凡な子供だったのだから。
 渡り廊下の先も、また厳重に鍵がかけられる仕組みのドアにな
っていた。目ざとい私は、それが内側から鍵が開閉できない仕様
になっていることに気づいた。
 館長は、それを見透かしたか見透かさずにいたか、今度はなに
も言及しなかった。
 入ると、少し、クレヨンとマジックとペンキのニオイが鼻を
ついた。
 事務室側の建物よりも、一層薄暗い円筒の建物は、保護された
子供達が一時的に暮らす場所だった。塗料のニオイの原因は、壁
を見れば明らかだった。モルタル塗りの壁という壁に、クレヨン
やらマジックやらで、一面落書きがしてあった。落書きというか、
それは、むしろ、やり場のないエネルギーを少しでもそこに塗り
つけることで発散しようとした痕のような、色の固まりだった。
 館長は、さきほどとは変わって、私に予断を許さないように、
言葉少なに館内を案内してくれた。円筒の中心に出ると、広場と、
二部屋に別れた畳のスペースがあった。右は男子の、左は女子の
部屋なのだという。その円筒の広場といい、部屋の壁といい、そ
こにも漏れなく、色の爆弾がさく裂していて、私がかつて幼稚園
のお絵かきの時間に嗅いだ事のあるあんな上品な塗料のニオイな
んかじゃないニオイにやがて、鼻が慣れてきた頃、薄暗さで明瞭
ではなかった箇所が、間違い探しのように、私に一つずつ疑問を
起こさせ始めた。
 室内窓のどれもガラスははまっていなかった。代わりに、ベニ
ヤ板がはめられ、それも、赤や紫のクレヨンでぐちゃぐちゃに塗
りつぶされていた。室外窓には、ガラスがはまっているにははま
っていたが、室内側に格子が張り巡らされていた。
 館長は、言葉を選びながら、話し始めた。
 「まあ、お察しの通り、危ないんですね。ガラスだと、すぐ割
られてしまいますから」
 見ると、引き戸の窓部分にはめられた一部のベニヤさえ、割ら
れ、ささくれ立っていた。
 私は、気付かなかったが、女子の部屋には、その時間、徐々に
光が差しこんできていて、やけにそこだけぴかぴかと明るかった。
耳を澄ますと、ごくごく小さな音で、部屋の隅に置かれたテレビ
からトムとジェリーのやりとりが、聞こえてくる。
 「あいにくと言いますか、運よくと言いますか、今、子供達は、
職員の引率で、小学校へ見学に行ってるんです」
 私は、女子の部屋のテレビから流れてくるトムとジェリーの前
に座っている二人の女児がいるのを見つけた。
 館長は、言い訳がましく、説明した。「彼女らは、どうしても、
行きたくないと言い張りまして、そりゃもう、暴れるもんですか
ら、仕方なくですね」
 二人は、保育園を一緒に過ごした友だちらしい。なぜ、二人揃
ってここにいるのか、訊ねると、一人の母は育児放棄で、もう一
人の母は薬物所持の容疑で現在拘留中だそうだ。二人共、母子家
庭であるらしい。
 「どうして、皆と一緒に行きたくなかったんでしょうね」と、
私が聞くと、館長は「わかりません」と、首を振った。
 テレビの前の女児の一人がやがて、静かに言葉を交わす私達に
気づいた。左側に座っているいかにも活発そうな彼女が私の方め
がけ、部屋から飛び出してきた。
 もう一人は、じっとテレビの前で微動だにしない。テレビを見
ているのか、ただそうしている自分の目の前に偶然テレビがあっ
たのか、わからないほどの不動さで、こちらを振り向きもしない。
一方、活発な子は、目を輝かせて、私を足先から、頭から、左か
ら右から、前から後ろから、ねめまわすように、ぐるぐると回り
ながら、えへえへと笑いかける。
 「ほら、トムがジェリーを追いかけ出したよ」と、館長がテレ
ビの方へ戻るよう促しても、その活発な子は、私のそばで、と言
っても、一メートル以上は絶対に近づこうとはしないが、くるく
ると踊るように跳ねまわっている。
 彼女は、子供特有の、予測不能な動きで、運動場への通用口
(そこも、他と同じように格子が張られている)まで駆けて行っ
ては、また戻って来て、反対側の、壁に埋め込まれた本棚の方ま
で、また駆けて行く。そうしてる間にも、テレビの前の不動の子
は、一顧だにしない。活発な女の子が、離れるのを見計らって、
館長は話す。「父親は存命しているらしいですが、」とそこまで
喋り館長はまた口をつぐむ。女の子がまた駆けて戻って来たから
だ。そして、また、離れて行くのを見計らい、館長は言葉を繋ぐ。
「結局、引き取りに現れませんでした。あれの母親も、育児放棄
とは言いますが、同情の余地は」と、言葉を切り、また女児が離
れるのを見計らって、「あります。結局、若くして、母になり、
社会経験もなく、一人で子供を育てようと思えば、選べる仕事に
は限りがありましょう。彼女の母は言いました。一生懸命働きま
す。余裕が出来たら、迎えに来ますと」と、そこまで早口にしゃ
べると、女の子は戻って来て、今度は私の傍をまたくるくると回
り、離れようとしなくなった。
 館長は、もう構わず、言葉を繋いだ。
 「あちらの子の母親は拘留中と言いましたが、そりゃもう娘想
いの母です。ただ、なんのボタンの掛け違いなんでしょうね、ク
スリを勧められて、言われるがまま、手を出し、警察の知るに及
んで、逮捕されました。娘は、一人、取り残され、親類も、誰も
一人、引き取ろうとしていません。このまま、行けば、この子も、
あの子も、養護施設に入ることになります」
 と館長が言い終ると、活発な子が、突然、「わかったー!」
と叫んだ。
 私は、少し、びっくりして、「なにが?」と、思わず聞いた。
 「キラリちゃんのこと、迎えにきたんでしょう、キラリちゃん
のママでしょう、ねえ、そうでしょう、キラリちゃん、いいなぁ、
ママに迎えに来てもらえるなんていいなぁ、ねえ、キラリちゃん!
ママが来たよ!ママが来たんだってば!」
 キラリちゃんの方へ駆けよりながら、嬉しそうに、声を張り上
げ、彼女は、トムとジェリーを消した。けれど、キラリちゃんは、
振り向こうともせず、私が始めに見たときと同じ格好で、塑像の
ように、動かない。
 「彼女、名前は何ですか」と、私は、聞いた。
 「エクレアちゃんです」
 「クレアでいいのに」
 「でも、彼女、エクレアってなにか知らないんですよ。だから、
良いじゃないですか」
 エクレアちゃんは、キラリちゃんの元を離れ、また私のところ
へ駆けより、私の手を引っ張って、キラリちゃんのところまで連
れて行こうとした。
 「キラリちゃんのママ!キラリちゃんに迎えに来たよって言っ
てあげなよ!ねえ!ねえ!」
 すると、館長がエクレアちゃんの腕をそっと握った。
 「エクレアちゃん、この人はね」と、言いかけた館長に、私は、
「ちょっと待ってください」と、制した。
 バカな、キラリちゃんの母を私は演じて見せようとでも言うの
か、そんなことはできない。それに、これは取材だ。わけのわか
らんミニコントをしに、私はここに来たわけではない。だが、私
は、彼女に何を言おうとしたのだろう。何を言おうとして、館長
の言葉の先を制したのだろう。
 「エクレアちゃん、今日は、キラリの様子、見に来ただけだか
ら。今日は、私、帰るわね。エクレアちゃん、キラリのこと、よ
ろしくね」
 私は、自分でも驚くくらい、ママめいた言葉を模して、出来る
だけ、自然に見えるように、エクレアちゃんを諭した。
 エクレアちゃんの、すべてを見通す黒曜石のような瞳が少し潤
み、決意したように、彼女は頷いた。
 彼女が、今日、小学校の見学に行きたくなかった理由は、これ
か、私が来るからだったか、と思い当たるが、バカバカしいと、
そんな考えを一蹴する。でも、少なくとも、ママが迎えに来たと
き、私達がここにいないと困るという想いではあったのだろう。
 ボイスレコーダーの容量はまだたっぷり残っていたが、もう、
それ以上取材しても、私の方の容量が足りなくなりそうで、館長
に礼を述べ、キラリちゃんとエクレアちゃんを残し、私は児童相
談所を後にした。

 私は、男が嫌いだ。なんでも批評したがり、人より秀でたがり、
そのくせ自分の弱さをひけらかしたがり、成果は自分のものにし、
失敗は誰かに押しつけ、いつまでたってもマザコンで、もういい
や、とにかく、嫌いだ。
 風呂につかりながら、まずそんなところから考え始めてみた。
 だが、男がいなければ、私はママにはなれない。そんな事実を
エクレアちゃんとキラリちゃんが教えてくれたようなもんだなと、
少し、私は苦笑する。
 ママになる?バカな、どうして、そんなこと、私が思ったりし
なければならないんだろう。いくらなんでも感化され過ぎてるだ
ろ、たかが、児童相談所へ行ったくらいで。しかも、本来なら、
ママになりたくねえとか思うのが普通だろ、今日のアレを見れば。
 湯船から、手を出し、甲の側をじっと見つめる。短くしてしま
った爪を見ながら、伸ばしてネイルサロンにでも行こうと、他ご
とを考えようとしている自分に、ことさら腹が立つ。
 違う、あの二人が私に教えた事は、そんなことじゃない。正反
対だ。男がいなくても、ママになれる。それをあの二人は私に教
えたんじゃないか。
 そう思い当たると、俄かにのぼせて、いても立ってもいられな
くなって、風呂を出た。体を拭き、髪も濡らしたまま、今日のリ
サーチのまとめもうっちゃって、私はベッドにもぐりこみ、ひた
すら明日が来るのをらんらんとする瞳で待った。

 早朝、レンタカーを借り、私は、前の日徒歩で登った坂を車で
駆けあがった。そういえばと、尾崎翠のことを思い出した。尾崎
翠は、筆を折った後、未婚のまま、妹の遺児たちを引き取り、い
わば母になっている、確か。でも、あくまでも、私の決意の方が
先で、この事実を思い出したのは、後付けだかんねと、言い訳し
ながら、へへへと声に出し笑ってみた。奥泉も、館長も、別にお
かしくないのに、というタイミングで、えへとか、てへとかいう
笑いを漏らしていたな。ちょっとその真似をしてみようと思った
のだ。案外、いける。深刻なときでも、案外深刻じゃねえかもと
思えたりする。結構便利だこれ、へへへ。
 やがて、児童相談所、館長には連絡済みだ。
 館長は、少し、驚いて、「今日も、取材に来られるんですか?」
と、言った。私は、本来の目的は、言わなかった。会って、話し
た方が、手っ取り早いし、電話だと軽々と断られることも、直接
会えば結果が変わったりすることが往々にしてある、長年のフリ
ーライターの処世術だ。
 車を降り、昨日となにも変わらない薄暗い事務館に入って、館
長のいる応接間へと、勝手知ったる我が家のように直行、果たし
て、館長は、昨日とは違って、少々難しい顔で腕組みしながら、
私を迎えてくれた。
 相手が話しだすよりも前に、切り出した方がいいという私の直
感に従って、私は、昨日の館長ばりにとまでは行かないにしろ、
相手の言葉を挟む余地がないくらいに、一気に、要件を話してし
まった。ようは、エクレアちゃんとキラリちゃんの里親になりた
いのだ、私は。
 一気に話してしまうと、館長は、それでも口を真一文字に閉じ
たまま、腕組みを解さず、上を向いたり、下を向いたりしていた。
 「一時の、感情かもしれません、でも、誰だって、母になるな
んて、一時の感情が原因です。子供は否応なく、生まれてくるん
ですから。女は、母になる資格を生まれつき、持っています。腹
を痛めても、痛めなくても」
 そこまで、言って、私は、なんとなく、自分の言葉が横滑りし
ていることに気づいた。私らしくないのだ。でも、いい。エクレ
アちゃんが、キラリちゃんのママだと私を呼んだときに、私は、
ママとして、この世に生まれたような気がするから。
 だが、私は、育児放棄しないだろうか、私は、薬物におぼれな
いだろうか、保証はない。その時は、またエクレアちゃんとキラ
リちゃんは、ここに戻ることになるだろう。おなじことだ、など
とは片付けられない。そんなことはわかっている。でも、私は、
彼女を引き取りたい。クレヨンとマジックとペンキのニオイのす
る、窓にベニヤ板のはまった円筒の建物から、私の家へ連れて帰
りたい。
 「付いてきて下さい」館長は、少しこわばった調子で、そう言
って、私をまた渡り廊下の向こうの円筒の建物へと案内した。
 今日も、子供達はいなかった。昨日と同じく、トムとジェリー
が静かに追いかけっこしている前に、エクレアちゃんとキラリち
ゃんがいた。
 「エクレアちゃん、ちょっと、いい?」と、館長はエクレアち
ゃんを呼んだ。
 すると、エクレアちゃんは、スローモーションのように、ゆっ
くりと、立ち上がり、眠たそうな半目をかろうじて開けながら、
一歩一歩重い足取りでやがて私と館長の前まで、たどりついた。
昨日の跳ねまわっていたエクレアちゃんをちょっと忘れそうにな
るくらい、鈍重なエクレアちゃんは、ゆっくりと私を見上げた。
 「誰、このおばさん」
 脇にじわっと冷や汗が出るのを、私は感じていた。
 「あのね、この人はね、エクレアちゃんたちをテレビドラマの
題材にしてくれるお姉さんだよ。ちょっと、お話、聞いてくれる
?」と館長が出来るだけ優しい声を作って、エクレアちゃんに話
しかけた。
 「私達、トムとジェリー見てるだけだけど、そんなのドラマに
して、楽しいの?」
 エクレアちゃんが言った。
 なんだろう、この粘った辺りの空気感は。なんだろう、この耳
がつんとして、声が遅れて届いてくるような感覚は。
 やがて、私がなにも言えず、口をぱくぱくさせているのを見届
けると、エクレアちゃんも何も言わず、またトムとジェリーの方
へ戻っていき、キラリちゃんの横にちょこんと座り、二人は肩を
寄せ合い、テレビの方へいつまでも顔を向けていた。
 「すいません」と、館長が言った。
 「いいえ」と、私は答えた。

 幼い頃、親友だったユイちゃんと、私は、白馬の王子様が迎え
に来るんだったら、それはどんな王子様か、そして、いつ来てく
れるかを、真剣に話あったものだ。そんなユイちゃんの、王子さ
まは、自動車メーカーに勤める三歳年上の愛知県出身の旧家の三
男だったわけだが、私には、まだ王子さまは来ていない。どこで
道草食ってるんだよ。もういい加減待つのに、疲れて、とちくる
って、白馬の王子さまが来ねえんだったら、私が白馬の王子さま
になってやろうとでも、思ったのか、私は……。でも、エクレア
ちゃんとキラリちゃんが待っているのは、白馬の王子さまなんか
じゃない。じゃあ、彼女たちが待っているのは、誰なのか、シャ
ブ中のママか、風俗で働いてるママか。そうじゃないと思う。じ
ゃあ、なんだ。
 私は、奥泉に連絡して、この仕事を断った。へへへと笑いなが
ら、すいません、一旦引き受けておいて、途中で投げ出してしま
ってと、謝ると、向こうもえへえへと笑いながら、いいですよ、
色々、事情がありますからね、と、すぐに電話を切られた。これ
でいい。えらい作家先生の思いつきで始まったドラマに、エクレ
アちゃんとキラリちゃんを出させたくない、私は、強くそう思っ
たのだ。
 エクレアちゃんとキラリちゃんは、今も並んでトムとジェリー
を見つめているだろうか、彼女たちは、王子さまなんか、待って
いないのだ、きっと。彼女たちは、誰も待っていない。私も、彼
女達を見習って、もう、待つのは、やめにしようと思った。




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