イパネマの娘

Olha que coisa mais linda
Mais cheia de graça
É ela menina
Que vem e que passa
Num doce balanço
A caminho do mar

Moça do corpo dourado
Do sol de lpanema
O seu balançado é mais que um poema
É a coisa mais linda que eu já vi passar

Ah, por que estou tão sozinho?
Ah, por que tudo é tão triste?
Ah, a beleza que existe
A beleza que não é só minha
Que também passa sozinha

Ah, se ela soubesse
Que quando ela passa
O mundo inteirinho se enche de graça
E fica mais lindo
Por causa do amor

あの美しいものを見よ
最も恵みに充ちた
彼女は少女だ
甘美な足取りで
来りてまた去り
海岸通りの道を

黄金色の肢体
夕映えのイパネマ
詩よりも整った
それは今までに見た最も美しいもの

なぜこんなにもさびしいのか
なぜこんなにも悲しいのか
彼女が存在するからか
彼女が僕のものではないからか
彼女もまた一人去りゆく。

もし彼女が
その足取り一つで
この世のすべてを慈悲と
優美で満たすと、知っているなら
それは、彼女が愛に
包まれているからだろう

(”Garota de Ipanema” Antonio Carlos Jobin / Vinisius de Moraes)



 もう、夜中だというのに、今日、百一回目の着信音が私の部屋
に鳴り響く。画面には『百瀬一郎』の文字。百一回目の『百瀬一
郎』に、私は、少し笑う。電源を切っておけばいいのだが、そう
すると黒田からの電話がとれない。せめてバイブにしとけばいい
のかもしれないが、私はそうしてあげない。なぜなら、『イパネ
マの娘』なら、何度でも聞きたいから。着信音は、『イパネマの
娘』一択だね。
 時計は、零時を回った。零時零分14秒、今日一回目の『イパネ
マの娘』、百瀬からの電話がまた鳴った。しばらくそのままにし
て、毎度のこと、ヤング&ラブリーと、アストラッドが唄った瞬
間に切れる。だから、その先を、私が唄ってやる。『ザガールフ
ロムイパネマゴーズウォーキン……』、黒田からはいつかかって
来るんだろう。もしかしたら、あいつ、ばっくれやがったのかも
しれない。
 眠りたかったが、どうせ眠れないような気がする。それに、黒
田からの電話を逃したら、それこそ私はトばなきゃなんなくなる。今の私の睡眠欲や食欲なんか、金銭欲の前では鼻クソ以下の存在
なのだろう。『すべてはお金の前にひれ伏す』ってたしかどこか
のエライ人が言ってたけど、ほんとその通りだ。
 ことの経緯は、すごく簡単。
 この数カ月で私がわかったことは、大概の男、特にお金を持っ
てる男は、映画とか舞台とか、そういう文化貢献という役にも立
たないことが大好物だということだ。私がしたことというのは、
そういう人達に、大好物を与え、お金を借りただけのこと。この
ものすごくよく出来ているシステムを考えついた私を誰も褒めて
くれなかったけど、別に褒めてもらうためにやったわけじゃない
から別によかった。ただ、お金さえ、うまく私の元を通過して、
その際に少々、チャリンチャリンと、私の個人口座に残りかすみ
たいなものが落ちて行けば、褒めてもらえなくても、我慢できた。
 明らかに松田優作を気どった自称映画プロデューサー、実際は
面白くもない物語を日夜考えているだけのプータローと出会った
私は、そのプータローを、その数日前に出会い系掲示板で知り合
った個人投資家に引き合わせた。素人デイトレーダーから一夜に
して天才投資家となった彼は、生き方も考え方も、まるで松田優
作気どりとは間逆だったけど、かえってそれがよかった。唇の端
に唾を溢れんばかりに、自分の考えた映画がいかに素晴らしいか、行く末はカンヌかベルリンか、もしかしたら、アカデミーかもし
れない、しかも、すでにあの伝説的名優の××(問題があったらあ
れなので、ここでは伏字にしましょう)も既に出演を快諾してい
る、唯一足らないものは、金だ、と締めくくった男の話を聞きな
がら、個人投資家は死んだ目を徐々に生き返らせていた。けれど、個人投資家が口を開こうとするのを、私はタイミングよくさえぎ
った。
 「双方、二三日、よく考えましょう、三日後、連絡いたします」
 三日後、個人投資家に連絡し、出資を取りつけるとすぐに、私
は松田優作気どりではなく、三船敏郎気どりの方に連絡を入れた。
 この三船敏郎気どりは、松田優作気どりよりも前に、別の投資
家に引き合わせた映画プロデューサーだった。情熱を傾けている
彼の映画企画の内容は、松田優作気どりとなんら大差がないので、ここでは割愛するわけだが、とにかく、彼に、私は資金集めが成
功したことを伝えた。ちなみに、三船敏郎気どりに引き合わせた
投資家から取りつけた出資を、森繁久弥気どりにあてがったこと
は、言うまでもない。
 そもそも、なぜこのちぐはぐが生まれたかといえば、一番初め
の投資家からとりつけた出資を私自身のために使ったからに他な
らない。私は、この仕事を始める前、借金をしていたのだ。それ
は、認知症になった父と母の介護を続け、無事天国へ召される時
まで大事に面倒を見るために、借りた金だった。だから、別に、
ホストに入れ込んだとか、ギャンブルですったとかそういうわけ
ではなく、比較的いいことに使うための借金だったので、非難さ
れるいわれはないだろうと思われる。無事、借金を返済した私は、一番初めに出会った石原裕次郎気どりのために、別の出資者を見
つけ出した。これだけでも、大したものだと思って欲しいのだが、それには、また別の気どりやが必要になったわけで、一度転がり
始めた車は走り続けなくてはならないことわりのごとく、私は、
あらたな気どり屋と新たな個人投資家を見つけ続けなければなら
ないというわけだ。誰かが、転がり始めた車には、火がついてい
ると言ったが、私はそうは思わない。立派に回り続け、新たな金
さえ生んでいるのだから、その車はどちらかと言えば、金の卵の
ようだと思う。
 だいたい、男達は、映画に金をつぎ込むことと、少しばかり婚
期の遅れただけの、いたいけな不条理美人に金を持ち逃げされる
こととは、ほとんど大差がないということに、どうして気付かな
いのだろうか。少々金を抜いているとはいえ、幾人かは立派に映
画を完成させているわけだから、感謝されることはあっても、憎
まれることはまったくありえないと思うのだが、現実には、私を
目の敵にする気ちがいが存在する。それが、百瀬だ。
 百瀬は珍しく、誰のことも気どらず、比較的真摯に映画作りに
情熱を燃やすタイプだった。私のシステムは、どうやら彼に出会
ったくらいから、メンテナンスを必要としていたらしい。映画を
作りたいというヤカラはあとからあとから湧いてでるのに、肝心
の投資家は、それこそ目を皿のようにしなければ見つからないば
かりか、映画に出資しようなどという貴重種は、絶滅寸前なので
はないかと思われるほど、お目にかかることが少なくなったのだ。
 既に、百瀬の映画に出資させるため、投資家から引き出した金
は、別の映画に補填しちゃっていた。けど、当の百瀬の映画に補
填する金の出所が見つからない。そんな時に見つけたのが黒田だ
った。
 黒田は、目黒区に生まれた筋金入りのボンボンで、にも関わら
ずボンボン特有の甘さみたいなものがない。幼少期から、金銭教
育を徹底的に受けたナチュラルボーン資本主義の申し子みたいな
ヤツだった。そのくせ、文化事業や社会貢献みたいなことに、興
味津々で、本来なら別の映画製作クソ野郎に紹介するはずだった
が、資金繰りが焦げ付き始め、仕方なく、百瀬のことをちらりと
話すと、それまで渋い顔しかしなかったのに、急にへの字口をニ
ッと上に向けて、『前向きに検討しましょう』とぬかし始めた。
いわゆるダブルブッキングというやつで、これは同時にシステム
の崩壊を意味していたが、背に腹は代えられない。また、アホな
投資家を二三人見つければいいと高をくくり、ひたすら黒田から
の、『前向きな検討』というやつの返答を待った。
 百瀬にしろ、黒田にしろ、今まで片付けた男共と比べて厄介な
のは疑り深いという点にあった。少々の疑り深さなら、この不条
理美人の不条理なセックスを供するという伝家の宝刀を振りかざ
せば、解消できたのに、奴らには、色仕掛けが通用しない。通用
しないばかりか、妙に、ガードが固くて、百瀬は毎日のように資
金集めの進捗状況報告をメールするよう迫ってくるし、黒田は今
まで私がやった仕事の収支報告書の提出を求めてきた。つじつま
合わせは得意だが、やつらの要求は度が過ぎている。
 アストラッドがまた唄う。百十一回目の百瀬からの電話。もう、お前『百瀬十一郎』でいいわ。で、次かかってきたら、『十二郎』ね。『五十六郎』になるくらいには、黒田から電話がかかってく
るのだろうか。
 何かを待つ時間は長いと言うけれど、今の私にとってはそんな
ことは全然なくて、夜明けはすぐに来た。黒田からの電話はなく、百瀬は三十郎になっていた。百瀬よ、いい加減寝ろ。お前、電話
マシーンになったのかよ、他にもすることあるだろ、と私は思っ
たけど、私も百瀬からの着信無視マシーンになっているわけで、
おあいこかなと思った。というか、百数十回も『イパネマの娘』
を途中まで聴くマシーンだな、こりゃ。
 東の空約四十五度を太陽が過ぎ、もう朝日とも言えなくなった
ころ、携帯電話が、ポルトガル語で『イパネマの娘』を唄った。
歌声は、ジョアン・ジルベルト。私は、黒田からの着信を、ジョ
ビンバージョンに設定していた。本当は、こちらの方が、私にと
って重要な曲だったし、重要な着信だったのだから。
 私は、ポルトガル語は分らないけど、歌詞をそらんじることは
できる。
 『オーラキコイザマリンダマシェイアヂグラサ』。意味もわか
らず、ただ耳コピしただけの歌詞だけど、多分、英語の歌詞の内
容とは全然違うと思う。英語は、『すっげーかわいい子がいるぅ』的な感じだけど、ポルトガル語は『艶やかな乙女がおわす』みた
いな感じだろうなぁ、と勝手に感じたりする。で、私は、アスト
ラッドの浮ついた素人っぽいのも捨てがたいんだけど、この『艶
やかな』云々の方が、高貴だし、幼くなさそうで、好きだ。いや
いやいや、そんなことどうでもいい。もっとジョアン・ジルベル
トの歌声を聴いていたいのはやまやまだけど、黒田からの電話が
切れたらヤバい。私は、着信音をさえぎった。
 「お待ちしてました。黒田さん。私は前しか向いておりません。だから、前向きな検討というやつの、前向きな答えを……」
 「すいません、三浦さん。少々、あなたのことを知っている方
にいろいろお話をうかがったんですよ。あなたそうとう阿漕なこ
とをされているようですね。こちらの資金をあちらに回すという
ことは私どもでも、時折あることです。しかし、度が過ぎれば、
信用を落とすことになる。信用どころか、経済的には破綻をきた
す。それくらい、聡明なあなたなら予見できなかったことはない
と思いますが」
 私は、黒田の冷静な語り口に、すぐさま電話を切ってしまいた
くなったけど、切ってやらない。もしかしたら、まだ金をせびる
余地が残っているかもしれないし。でも、黒田は続けた。
 「それに気づいたんです。百瀬さんの映画作りを応援したいと
いう私の気持ちは本当です。なにも、あなたを介し、応援しなけ
ればならない道理はありません。百瀬さんを紹介いただいたこと
は感謝します。けれど、それが、あなたの焦げ付いた資金のため
に私が出資しなくてはいけない理由にはならない。そして、最後
に忠告です。すでに、あなたに出資した幾人かの投資家は、債権
を誰かに譲渡したという噂です。私は、だるいので、そんなこと
しませんけど」
 「だれかって」
 「話のわかる人だといいですね、その誰かが……。あなたはま
だ若いし、幸か不幸か美人です。誰かにとってみれば、使いよう
はいくらでもある……」
 私は、こいつにはもう金を引き出せる余地がないとわかった。
わかった瞬間から、次の目的のために行動し始める。これが私の
モットーだ。
 すぐさま携帯の電源を落とし、身支度を五分で終え、化粧もせ
ずに家を出た。化粧をしなければ美人が台無しだって?さっきの
黒田の言葉を聞いてなかったのかよ。美人の方が不幸になる場合
が、この世には存在する。だから、私は、できるだけ、ぐずぐず
な顔で、目ヤニもいっぱいつけたまま、タクシーに飛び乗り、三
軒茶屋の三菱東京UFJ銀行へと直行した。
 既に口座は凍結されているか、いないか、そんなことは私には
関係ない。そもそも、銀行口座なんて信用しちゃいなかった私は、出資金のやり取りに使うだけで、個人的なお金はすべて現金に換
えていたのだ。借りられるだけの貸金庫を借りて、そこに現金を
ぶち込んだ。貸金庫の箱いっぱいに現金を敷き詰めると、いくら
になるか知ってる?きっちり千三百万円。私が借りた貸金庫は二
つ。併せて二千六百万円をパタゴニアのデイバッグに押し込んで、早々に三茶を飛び出した。
 タクシーの運転手に羽田空港と告げ、私は、化粧を始める。私
という人間は、美人でいちゃダメなとき以外は、もちろん美人で
いなければならない。そして、これからは、美人でいちゃダメな
ときじゃない。だって、高跳びしちゃうんだもん。
 映画作りたいなんていう中年になるまで中二病を患った男が跋
扈する東京なんて未練もクソもない。そんなことより、酒とか、
セックスとか、サーフィンとか、そういう快楽に目がない男が多
い場所に行った方が私は、私らしくなれる。遠からず、そんな場
所へ行こうと思っていたんだから、予定が少し早まっただけだ。
ちょっと予定の金には足らないけど、まあ仕方がないと、私はパ
タゴニアのデイバッグを見ながら、頬のファンデーションを伸ば
した。
 運転手が、「お迎えですか? それとも、出発?」と、聞いて
来た。
 「どっちがいい?」と、私はけむに巻くつもりで返す。
 「そりゃ、出発でしょ」
 「じゃあ、出発にするわ」
 やがて、羽田空港の出発ターミナルに一番近い道で運転手はタ
クシーを停めた。
 「いい旅を」、気を聞かせて言ってくれた運転手の言葉がやけ
にうれしくて、なんとしてもいい旅にしなきゃとか思ったけど、
そもそもこれが旅になるのか、移住になるのか、見当もつかなく
なって、すこし東京を離れるのが、さびしくなった。
 エミレーツ航空EK313便というのが一番早く出発する便だ
った。ドバイ経由、リオデジャネイロ行き、トランジットが二十
三時間あるが、ドバイの空気を吸うのも悪くない。復路でしめて
二十四万円、それが今の私にとって高いのか安いのかわからない
けど、パタゴニアにはその百倍の金が眠っているわけだし、こだ
わることはなにもない。
 まだおひさまは高くにいる。出発は深夜の一時。十数時間暇を
つぶさなきゃなんない。私は空港という場所がそんなに嫌いじゃ
ないけど、いろいろ見て回って、いいところ三時間もすれば飽き
ることを知ってる。それに、もう着信が誰かとか、気にする必要
もないし、この人誰に紹介して、誰に金を流せばいんだっけとか
つじつま合わせを考える必要もないって気づくと、にわかに睡眠
欲が私の体を支配し始めた。金銭欲はひとまず満たされた、食欲
はリオまでとっておこう。そうして、私は、わざわざお金を払っ
て、エミレーツ航空のラウンジのふかふかのソファに収まって、
久しぶりで気持ちのいい眠りに身を預けた。
 リオデジャネイロの南部、短い午睡から目を覚ましたばかりの
イパネマ海岸は、大西洋を南に見ながら、今日も黄金色に輝いて
いた。私は海岸沿いに並んだヤシの木の一本一本をジグザグに交
わしながら、午後の太陽に向って、歩いていく。毎日毎日、それ
を繰り返していると、毎日毎日、おんなじ時刻、おんなじバーで
飲んでいたブラジル人の男が私を見初める。きっと彼にとって私
はさしづめアジアから来たイパネマの娘ってことになりはしない
だろうか。彼は、私に声をかけようと思い立ってからようやく二
日後、本当に私に声をかけた。私は、声をかけられるだろうこと
は分っていたから、あらかじめ用意していた言葉を返してあげる。
 「カイピリーニャおごってよ」
 すると彼は、すでに用意していた二人分のカイピリーニャを私
の前に出して、「一緒に飲もう」と言うのだ。
 こうして、ようやく本当に、私は、私が望んでいた私だけの
『イパネマの娘』になって、この先、しばらくはブラジルに住む
ことを決意できる。
 目を覚ますと、そこはカイピリーニャの彼の部屋でもなんでも
なくて、まだエミレーツ航空のラウンジのふかふかのソファの上
だった。どうして私が目を覚ましたかというと、肩を揺さぶられ
たからだった、それも拉致せんばかりに乱暴に。
 目の前に見知らぬ首の太い男の顔がにょきっと伸びてきた。
 「なによ」
 「こいつですか?」首の太い男が背後にいる男に聞いた。
 「美人のいびきってのも、おつなもんすね、俺もいっぺんとな
りで聞いてみたいや」
 首の太い男がでへでへ言っていると、後ろから、「トんでもら
っちゃ困るんですよ」と、細面のいかにも肝が座った男が顔をの
ぞかせた。私は、更にその後ろに気配を感じて、首を伸ばして、
誰がそこにいるのか、確認した。後ろを向いていたが、確かに黒
田だった。
 「あちゃー、なんで、ばれたんだろ」と、思ったら、思わず口
に出ていた。
 すると、背を向けたまま、黒田が、鼻歌を口ずさんだ。どうし
ようもなく下手で音程を取るのに必死だったが、百回も二百回も
聞いた私にはわかる。『イパネマの娘』だ。
 そっか、『イパネマの娘』、がんがん百瀬にも黒田にも聞かせ
たもんな、携帯の着信音で。
 「私が、トぶなら、リオって、だからわかったの?」
 「簡単な推理だね」黒田は、背中越しに手を掲げ、おびただし
い債権譲渡通知書をひらひらさせた。
 「これから、私をどうするつもり?」
 「まあ、それは、俺には、わからないわけだが、とりあえず、
君には、『東京の娘』でこの先もいつづけてもらうよ」

(つづかない)





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