夜学後記第9回

『映画夜学』も八回目となりました。
これまでも様々な方々に、その道のお話を聞いてきたわけですが、
今回は、切に話を伺ってみたいと望んでいた黒沢清監督が来て下さいました。
現在、映画に携わる者にとって、その名前は特別に響きます。
私事で恐縮ですが、そもそも私は、若い頃から映画など志しておらず、いち鑑賞者の立場でした。
ちょうど大学に入学した歳だったでしょうか、18歳の時、
『CURE』という映画を観ました。
そのときからです、それ以前と以後の、私の中の『映画』が変わったのは。
と言うと、大げさに聞こえますが、概ね真実です。
その黒沢清監督と直接お話ができる、とても贅沢なことでした。

今回の映画夜学は、だいたい三部構成で進みました。
最初は私が代表して質問させていただくパート。
それから、参加者たちからの質問に監督がお答えいただく質疑応答。
そして、雑談です。
実に芳醇な時間だったと、参加者全員が感じる所ではないでしょうか。

この『夜学後記』では、パートワンの一部を書き起こしてお送りします。

(いながききよたか)


・『いかに企画が始動するか』

――黒沢監督の演出術に関してはすでに資料が豊富です。
せっかくなので、どういうふうに黒沢監督の映画が成立しているのかということも聞きたいと思っています。どういうところから企画が始まるのでしょうか。

黒沢:もうずいぶん長くやってきていますので、いろんなケースがありますし、時代によっても若干違います。
最近のことを主体にして言いますと、これははっきりしています。
僕は十年前くらいに『トウキョウソナタ』という映画を撮って以来、三四年、まったく映画を撮れない時期があったんですね。重大な問題を起こしたつもりはないんですが、その後、2011年に撮影したWOWOWの『贖罪』というドラマをやらせていただいて以来、幸いなことに、撮り続けることができているのです。『贖罪』以前と以降で明らかに違うのは、原作があるということです。
何本かはあるのですが、『トウキョウソナタ』まではほとんど原作の無いものでした。
『贖罪』以降はほぼ原作から出発しています。かつ僕が原作を見つけてきて面白そうだというのではなくて、プロデューサーが「この原作どうでしょう」と仕事の依頼をしてくれるのです。
どうして依頼してくれるかというと、『贖罪』でそれなりに、湊かなえさんの原作を無難に映画化できる監督だと見なされたからだと思います。
それまではこの人に原作を持って行ってもやらないだろうと思われていたのだろうと思います。
かつても原作を持ち込まれたことはあるのですが、原作をやらないと決めていたわけではないのですが、やはりいただいた小説をそのまま映画にするのはなかなか難しい場合が多くて、僕だったら、以前はここをこうしてああしたいと言っているうちに、原作と大幅に変わってしまいダメになっていたのです。しかし『贖罪』では、仕事としてはスムーズにいったし、おそらく湊かなえさんにもそれなりに気に入って貰えたんだろうと思います。
だから、近年はプロデューサーがこの原作どうでしょうかと、僕に持ちかけてくれるところがスタートです。

――プロデューサーの中にも、黒沢映画のファンが多いだろうことは容易に想像できるわけですが、80年代、90年代、00年代、10年代と撮り続けられてきて、オファーの質、プロデューサーの質が変わってきたと思われる部分はありますか。

黒沢:プロデューサーといえども、目立つ人がたった一人の場合と、複数の人という場合があり、ケースバイケースなので、一概にこうだとは言いにくいのですが、僕の経験、記憶だけで言いますと、プロデューサーはみな最終的に僕の意見を聞き入れてくれます。ですからこちらもその誠意に精一杯こたえようとします。こういった関係は今も昔も不思議なくらい変わっていませんね。
それは、僕がそういう世代だったからなのか、今の若い監督はだいぶ違うのか、わかりません。
僕の若いころは、長谷川和彦とか相米慎二とかが活躍する時代で、80年代、90年代であってもまだ昔の撮影所の習慣が残っていて、それがどんなに若い新人監督だろうが、企画が動き出しさえすれば、現場ではとにかく全員が監督のやりたいことを実現するのだという風潮がありました。
今では僕はもうずいぶんベテランなので、みなさん、僕に厳しいことを言わないのかもしれませんけど、それでも監督がこうやりたいと言えば、プロデユーサーもスタッフも俳優も大抵聞き入れてくれる気がします。
しかしそのプロデューサーがみえないところで、出資者たちを相手に様々なバトルというか駆け引きをやってくれているであろう事は僕もうすうすわかっています。そういう事はあまり僕に直接降りてこない、ただ数日後げっそりした顔で、出資者たちに僕の要望が通ったことを報告してくれる、というような環境にいます。本当にありがたいですね。
ですから、プロデューサーの力を信頼していいと僕は思っています。


・『原作とオリジナル』

――2011年以降、原作のものがほとんどであるという話ですが、オリジナルと原作で考え方は変わるものですか。

黒沢:大きな差はないと思っています。
僕がどのように脚本を作っているか簡単に話しますと、必ずプロットというものを綿密に書きます。
A4サイズで15枚くらいありますかね。プロットが出来たら脚本は出来たようなもので、あとは早いんです。大体脚本の構造はプロットに書かれてあるものなんです。
オリジナル、つまりゼロからスタートする時、当然ですけど戻るところがないので、揺らぎ出すとそもそものアイデアが駄目だったのだろうかと不安になることもあるでしょう。
原作があると、それなりに書かれたテキストがあるわけですからゼロには戻らないという精神的な支えにはなります。
ただプロットができてしまえばほとんど原作に戻ることはないです。プロットを元に脚本を書いていきます。

――原作を受け取るとどうしても再現になってしまうのではないかというおそれがあり、あくまで素材として扱いたいのですが、なかなかそれができません。

黒沢:それはどんな原作かによりますよね。もちろん面白くなければならないという前提があります。映画にするために相当組み替えないとならないのか、そのままで映画になるのかにもよります。そのままでいけるのが一番楽なわけですけど、読み物としては面白くても映画にしづらい原作は山のようにあります。
残念ながら僕は普段小説を全く読まない人間です。ただ、これ読んでくださいとプロデューサーから勧められたものは読みます。そのとき、かなりのものがこのままでは映画としては厳しいという事が多いですね。

・『映画における過去』

――例えば原作のどういう部分が映画化にあたり困難になるのでしょうか。

黒沢:一番わかりやすいのは過去にあります。過去の使い方です。
僕は確信を持っていますが、映画で描かれる過去はつまらない。
過去という設定でどんな面白いことが書かれていても、小説としては面白いかもしれないが映画にしたらつまらないものです。なぜなら映画は、次はどうなるのかという現在形だからです。
大きな意味でいうとサスペンスだと思います。なぜ『こうなった』のか理由をわからせる映画はつまらないですよ。理由はどうでもいいんです。どうなっていくのかということが映画だと思うのです。
現在形で面白いことが次々と起こっていく小説はまず映画になり得ると思いますね。
しかし、わりと多くの小説が、実はこの犯人が小さい頃……、なんていうどうでもいいことを延々と書いていますよね。読み物としては面白いんですけど、映画でやる場合は、過去回想となり、子役でやらねばならなくなる。つまり、そこに主演俳優はでないということになります。本当は、そんな過去は、5分で充分であるというのが、映画の原則だと思います。

――まったく同感するところです。ただ、物語の問題があると思います。もちろん映画にとって物語は不可欠な要素だと思いますが、物語はまさに終わったことを物語っているわけですよね。物語は意外と映画と相性が悪いんじゃないかと、物語を書いておきながら考えたりします。
どうもそういうことに無邪気な方も多いようで、どうしても回想での説明を求められる場合が多いんです。映画内の時制というか、過去形を物語るのが実は映画ではものすごく困難であり、僕自身もそこが壁であると考えていますが、どうしたらいいでしょうか。

黒沢:具体例でいうと、一番アクロバティックに強引にやったのは近年だと『クリーピー』という作品です。
大量の過去の出来事がありましたが過去回想は絶対やりたくありませんでした。で、どうしたかと言うとやり方は簡単で、俳優が過去の出来事をずーっとしゃべるというものです。5ページくらいにわたる長いセリフで、刑事が尋問するという形です。
プロデューサーには、いま言ったような理屈から、「ここは過去のシーンにはしません、全部本人のセリフで過去をあらわします」といいました。助監督からはフラッシュバックや子役の準備は本当に必要ないのか何度か念を押されました。
この手法は強引ですけど一つの手ですね。過去を語っている人を撮るというのが現在形になるわけです。ただいつもそうすればいいのだと簡単にはいえません。長いセリフをどう撮るのかはなかなか難しいチャレンジでもあります。しゃべっている場所、照明、カメラワーク、そして何より俳優の演技力が絶対に欠かせません。しかし、現在形でしゃべっている人をなんとか頑張って撮った方が回想シーンを入れるより面白いと思います。
付け加えると、初めてそれをやったのは、小泉今日子さん、香川照之さんが出演した『贖罪』というテレビドラマでした。
『贖罪』も過去がどかんと出てくるんです。これが面倒くさいことに小泉さんと香川さんの大学生時代っていう設定が原作にあって、二人が大学生を演じるのも別のキャストにするのも現実的に厳しいということになりました。しかし、これはストーリー上どうしても外せないものでした。どこかネタばらし的な二人の関係性を説明する場面でもあったのでどうしようかと考えて、苦肉の策でもあったんですが、全部小泉さんのしゃべりにしました。
『贖罪』も刑事から何があったのかと尋問のように訊かれ、「実は大学生の頃に……」と小泉さんが延々としゃべるということを思い切ってやったところ、絶対この方が面白いということを『贖罪』で経験したのです。『クリーピー』の時にはかなり確信をもって絶対この方がいいですよと言えたんですね。


・『シナリオに関して』

――シナリオの話に戻しますと、監督ご自身が単独でお書きになるときと、共作のときとは、作法が違うものですか。共作はどのように進めればいいものでしょうか。

黒沢:どうすればいいのか、聞きたいくらいです。
共作が平和なうちに進んだことがほとんどないので、それは大いなる悩みです。
これは僕の悪い癖ですし、非常に失礼だと分かっているんですが、もともと全部自分で書いてきたせいもあって、どなたに脚本を依頼しても最終的には僕の文章に変えないと自分が撮るというモチベーションになりません。申し訳ないけどすべてリライトさせてくださいということになってしまいます。これはたぶん脚本家に対して大変失礼なんだろうと思います。

――はじめはライターの方が書いたりするんですか。

黒沢:まちまちです。僕の本音としては、原作をいただいたら自分で書きたい、書かないと失礼だと思うのですが、やはり仕事が重なってきますと難しいわけです。書きたいのはやまやまだけれど、そのとき僕が他の映画に取り掛かっていると、だいたいプロデューサーが別のライターに依頼し、僕の映画が終わった頃に脚本が書き上がるほうが、効率がいいと考えるんですね。
ですから誰かに先行して書いてもらうことを提案されますが、結局僕が書き直します。

――ハリウッドなどは一人が書いて次から次へとライターに脚本が渡っていくのは結構普通の事だと思うんですが。

黒沢:その辺は逆に脚本だけをやっている方は、どういうモチベーションなり不満なりをお持ちなのかなと。

――ちなみに僕の場合ですが、共同脚本であれば、領地争いみたいな事には興味がないので良き往復ができればいいかなと思っています。ライターにプライドが高い人が多いというのは実感としてありまして、たしかに揉めてしまうことがあるというのは理解できますね。

黒沢:正直言いまして僕の本職は監督なので、脚本だけを書く脚本家のテクニックとかはよくわからないんですよ。僕が脚本を書くのは自分が撮る映画の為だけですから。人の為に書いたことは一度もありません。僕ではない誰かが監督する為に僕が書くと考えたら、どう書けばいいかまったく分かりません。
自分が撮るものですから、申し訳ないですけど自分がやりやすいような形で書いてしまいます。

――それが原点だと思うんですよね。僕はシナリオが文芸だとはあまり思わないもので、その映画を撮るために存在しているゆえに、究極的には一般の人が分からなくても、スタッフが共有できさえすればいいと思うわけです。

・『夫婦について』

――質問を変えます。
最近の監督の作品にはほぼ夫婦が出ています。
黒沢監督の本を読んだとき、『CURE』の後でしたか、『夫婦物の名人といわれて冗談じゃない』というようなことをおっしゃっていたと思います。
僕は黒沢映画の中の夫婦が大好きなんですが、それは結果的にそうなっているのか、何か考えることがあるのかそういうことを聞いてみたかったんです。夫婦って一体何だろうということを。

黒沢:何か深いところから出てくるわけでは全くありません。
僕にくる依頼には、不思議なことが起こる犯罪ものであったり、主人公が刑事だったり、様々な奇怪な現象が発生する話が多いのですが、奇怪な現象ばかりを立て続けに並べることは物語上も予算上もほぼ破綻してしまうので、変なことも起こるが、一方で主人公はどんな日常を送っているのかも描きます。
その時に、たった一人だと会話もないので描写しづらいのですが、帰宅し奥さんがいたりすると、交わす夫婦の会話の内容から、主人公の不可解な事件に対する関心の度合いを何気なく表現できるというわけです。そのために安易に夫婦という設定を持ってきているにすぎません。
子供のいる家庭を持つ人は子供とのやり取りでそれらを描くかもしれません。それに、割と多くの人がやるのが飲み屋での描写なのですが、僕はバーなどには普段全く行かないので、描きようがありません。僕が個人的に割と知っている関係は夫婦なので、まだ何も起こっていない描写の時にそれを使っているということです。みなさんもいちばん慣れ親しんだ人間関係をまずは描けばいいでしょう。どれが正解というのは無いと思います。

――つまり作家の日常から出てくるものだと、

僕の場合はそうですね、それだけのことです。

・『児童について』

――お答えに関連するかと思いますが、もう一つ聞きたかったことに、監督の映画の中にあまり児童が発見できないということがあります。

黒沢:それは大きいと思いますね。親子関係をあまり物語の主軸に置く気がしないということがあります。
アメリカ映画などではやたらありますが、自分の映画に年老いた父親なども全く出したいと思いわないですね。どうでもいいのです。
これは趣味ですし、僕はあんまりそういうことに関心がない。というか嫌です。
監督するにあたって子役は面倒くさい。子役って苦手なんですよ。現場でどうしていいやら。

――確かに、映画内においてあまり人間らしい扱いを受けている子供は少ないですよね。

仕方なく子供が出てきても、セリフがなく、ただいるだけということですね。
ためしにセリフを言ってもらうと、上手いんですけど、感心しながらも、なぜそんなに上手いのかと思ったりします。
僕は子役に対してひねくれているんですね。だからあんまり積極的には出さないですね。唯一の例外は『トウキョウソナタ』の井之脇海かな。当時小学校6年生でしたが、彼はまったく大人と変わらない俳優でした。

――『岸辺の旅』に関して、ちょっとぎょっとしたところがありました。妹を亡くした奥さんがピアノの部屋で亡くした妹の思い出を語るシーンです。これも長いシーンなのですが、ずっと表から子供の声が聞こえているんです。照明が落ちて妹の幽霊のようなものが出てくる前に、すでに外から『ギャア』という子供の泣き声が聞こえてくるのです。
『岸辺の旅』に関しては、後半でも子供が出てきたりすることもあり、黒沢監督作の中では、異色かなと。

黒沢:いやいや、割によくやる手なんです。
あざといやり方ではありますが、そこには登場しないが、語られている人物の話をし始めると、その人物がまるでどこかで叫んだかのような声がする。するとぎょっとする、そういうやり方は、まずそこにはいないはずの人物がどこかにいるように思わせるという手の一環だと思います。そんなに大したことではないです。

・『エキストラ』

――もう一つ聞きたいことがあります。
黒沢監督の作品には特徴的なエキストラのカットがいくつもありますよね。『クリーピー』でもものすごい数のエキストラが出てくるカットがありますが、いつかとんでもないことをするんじゃないかと不安な気持ちで観ていたりするんですが、あれは監督ご自身で動きは決めるんですか。

黒沢:エキストラは大好きです。
動きは助監督に任せますが、『クリーピー』の場合は今おっしゃったように、何気ないようにいて段々この人達どうする気なのという不安な感じになるように動きを付けてくれってお願いしました。
最初助監督から提案されたのはやり過ぎなくらいエキストラが目立ちすぎるだったので、少し抑えてもらったんですが、僕の漠然とした大きな狙いは伝えて助監督にやってもらいました。
信頼すると助監督もいろんな面白い動きを頑張って付けてくれますね。


(2018/1/20)

(この後、黒沢清監督には、ざっくばらんに参加者たちからの質問に一つずつ丁寧にお答えていただきました。本当にありがとうございました)


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