夜学後記第3回


さる二月に行われた第四回『映画夜学』。
ゲストは映画プロデューサーの井関惺さんです。
今回は、井関さんのご好意により、二回に分け、夜学本編の再編集版をお届けしたいと思います。

プロフィール:井関惺(プロデューサー)
昭和41年日本ヘラルド映画に入社。宣伝部、国際部を経て、ヘラルドエース設立と同時に取締役に就任。イギリスと共同製作の大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」やフランスとの合作となった黒澤明監督作品「乱」に参加。その経験を経て独立し、香港と共同で柳町光男監督作品「チャイナシャドー」、中国とはチェン・カイコー監督作品「始皇帝暗殺」、ジェイコブ・チャン監督「墨攻」などの大作を共同製作し話題を呼んだ。またアメリカとはマックス・マニックス監督「レイン・フォール夜の牙」を製作。他のプロデュース作品にベルリン国際映画祭で審査員特別賞を受賞したウェイン・ワン監督「スモーク」などがある。

(聞き手:関)



・配給会社からプロデューサーへ

関:僕の偏愛する映画の一つに『スモーク』があります。いつもそのエンドロールに日本名を見つけます。それが井関さんのお名前でした。いつかお話しを伺えればと思っていたのですがこうしてその願いが叶って光栄です。今日は聞きたいことが山ほどあるのですが、まず、日本ヘラルドに入社するに至った経緯を伺いたいと思います。

井関:もともと大学時代に日本ヘラルド映画でアルバイトをしていました。映画の割引券を企業に届けたり集金したりしていたのですが、その時の上司が会社を辞めライバル会社へ行くと大騒ぎになって、引き止めるために彼を部長にして新しい部署を新設したんです。そこで、彼に部下がいなかったためにアルバイトだった僕が社員になったというわけです。
一年間やった後、宣伝部に移りました。当時洋画の会社は日本映画を配給できなかったんですね。なぜかというと我々が日本映画をやると、当時の劇場を抑えていた二大勢力である東宝・松竹に睨まれ他の映画もかけてくれなくなってしまうからでした。しかし外国映画を配給していると、どうしても作る側へ行きたくなりました。
こういう話があります。当時の宣伝部部長は常々「宣伝はクリエイティブな仕事だ」と言っていました。宣伝は単純に広告を出す仕事ではなく、お客様に対してこの映画はこういう見方をしたら面白いですよというポイントを見つけ出す役割なんだと。ただどうしても面白くない映画もたくさん来る。そうなったらやっぱり自分たちで作りたいと思い始めてしまう。
そしてとうとう手塚治虫さんのアニメーションをやらせてもらうことになりました。手塚さん本人とお仕事をしたのは『千夜一夜物語』と『クレオパトラ』です。その後大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』、黒澤明監督の『乱』と続いていきます。

・手塚、黒澤、大島……。

関:手塚さん、大島監督、黒澤監督とはどのように関わったのでしょうか?

井関:手塚さんはものすごく忙しい方でした。一本目がヒットしたので二本目もということになり公開日も早い段階で決まっていました。しかし手塚さんから絵コンテが全然上がってこない。どんどん遅れて、結局アニメの色付けが間に合わず、劇場に頼んで公開を二週間延ばしてもらいました。それでも絵コンテの予定枚数が想定よりはるかに多く、二週間延ばしても間に合わない事態になりました。責任を取って会社を辞めようとまで思いましたが、エンピツ画の仮絵ラッシュを見ている時、ふとこれをこのまま使えばいいのではないかと思いつきまして、その旨手塚さんに提案したんですが、「嫌だ」と言われてしまいました。「でも色をつけていたら完全に間に合いませんよ」と食い下がると手塚さんは「じゃあ、作業して色がついたところを毎日映画館で取り換えろ」と言うのです。現実的にはかなり難しい作業ですが、譲歩して一週間に一度取り換えるということで落ち着きました。結果、映画公開終了までに計四回取り換え、最終週にすべて色がついたものが完成しました。
こんな感じで手塚さんは割と話しやすい方だったのですが、大島さんは話せても聞いてもらえない、黒澤さんは最初からなにも言えないほどでした。

黒澤さんとは丸二年、二十四時間勤務でつき合いましたが雑談ができるまでに四カ月かかりました。別に怒る方ではありません、ただなぜか喋れない。僕はプロデューサーと言えど配給しかやったことのない素人で、いわばお目付け役として会社から現場に送られていたようなものです。好かれるはずはありません。
作家というのは不思議なもので目の前で働いた人間しか信用しません。陰で一生懸命働いている人がいることに気付かないものです。配給会社なんて影の存在ですからね。だから現場にいないと黒澤さんに信用してもらえなかったんです。けれど何もやれないのにただそこにいるというのは本当に地獄のように苦しいものでした。
黒澤さんと喋れるようになったきっかけは、ある日突然麻雀をやらないかとその時仲の良かった照明の佐野武治さんに誘われた時でした。天下の黒澤明が麻雀をやるのだから、どれほど賭けるのか気になりましたが、聞いても教えてくれない、わざと負けるわけにも、また勝つわけにもいかない。よくわからないまま、しょっちゅうやっていました。
黒澤さんの現場はとにかく準備が大変なので、準備の間はできれば黒澤さん本人にいて欲しくないわけです。だからスタッフは黒澤さんが麻雀をやっていてくれると助かるんです。 ロケが終わると大きなテーブルを囲んでメインスタッフが集まって食事が始まります。僕は早めに来て黒澤さんが座るであろう席から一番遠い席に座りました。しかし、みんな意地悪で、「ココは俺の席だからダメだ」と、結局黒澤さんと向かい合わせの席に座らされました。黒澤さんは周りに何十人いても誰か一人の目をまっすぐ見て話す人でした。目の前にいるのが僕なので話しかけられる確率が一番高い。黒澤さんは何度も同じ話をするので何十年も一緒にいる黒澤組のスタッフたちは聞き飽きています。僕は初めて聞く話ばかりだったので面白かったのですが、ご飯が食べられない。スタッフは心得ていて、お酒が入る前に黒澤さんに早めに麻雀の話を振る。お酒になると話が長くなるからです。スタッフはなるべく早く切り上げて準備したいんですね。そして僕は黒澤さんと麻雀に向かう。結構重要な役割を担っていたんです。
(結局戦々恐々としていた麻雀の賭け率は、蓋を開ければ、『賭けていなかった』ということだったそうです)
実は、『クレオパトラ』も『戦場のメリークリスマス』もクレジットに僕個人の名前は入っていません。最近は関わった人が全員入るみたいですが、当時は会社と代表者一人の名前くらいでした。でもなぜか『乱』の時は入れてくれました。たとえ麻雀しかやっていなくても、クレジットに名前が入ったことでこれをやったという証明にはなりました。
『乱』が終わり、へとへとになり二度と黒澤明と仕事なんてやるものかと思っていましたが、数年後に誘われた時には、その時の仕事を投げ出してもやりたいと思ったものです。不思議ですね。
現場に最初から最後までいたのは『乱』だけです。あとから考えてみればすごく影響を受けています。別に最初からお金のかかる映画を作る気はないですが、結果僕が発案する映画はどうしてもお金がかかってしまうのです。

『戦場のメリークリスマス』の時、僕は主に宣伝をやっていて、大変なことがたくさんありました。これは本当に誰も当たらないと思っていた映画でした。
二つの事件が起こりました。
宣伝費を一億五千万円預かっていたのですが、当時の社長の奥山さんから、封切り三週間前に、「映画の売り上げ見込みが二億四千万しかないから宣伝費を一億に減らせ」と言われました。すでにテレビのスポットも新聞広告も決まっていましたし、封切り直前に言われても五千万など減らしようがありません。どうしようかと思案していると当時の専務が「俺が減らしたと報告だけするから、悪いけど一千万だけ減らしてくれ、それで乗り切ろう」と言ってくれました。その時点で我々は、「売れないと言われているが、この映画は五億ほどはいくだろう」と思っていたんです。そして一千万だけ減らして、奥山さんを誤魔化しました。
もう一つ、問題が浮上しました。これまた封切り三週間前に劇場主たちが、「この映画は当たらなさそうだから外す」と言い出したのです。そこで僕が説得に当たりました。
会議には二十数人の劇場主が集まりました。一番若くて四十代、平均年齢は六十を越えていたでしょうか。そこで僕はいくつか質問しました。
「この中でビートたけしを知ってる人はいますか?」
二人が手をあげました。
「坂本龍一は?」
また別の二人が手をあげました。そこで、僕が「みなさんの中で中高生のお子さんをお持ちの方は?」と聞くと、パラパラと手が上がりました。
「お子さんたちは全員必ずビートたけしと坂本龍一を知ってますよ。あなた方は知らないかもしれませんが、若い層には絶対浸透しているから大丈夫なんです」と続けたのです。
すると、劇場主の一人が「よくわからんがうちの息子がこの映画を観たいと言ってるんだよな」と、その一言でおさまりがつきました。
ただそれくらい誰もが当たらない映画だと思っていました。配給している会社の社長が直前に宣伝費を削れと言い出すくらいですから。
結果として映画は大ヒットで、配給収入で言えば十億ほどでした。
そしてこれがすごいところで、大島さん自身もこの映画のことをそこまでわかっていなかったのです。
大島さんも黒澤さんもそうですが、彼らは映画を作りながら変化していきます。テーマを決めてその通りに作るのはクリエイティブじゃないんです。書いても喋っても伝わらないものを伝えるのが映画というメディアですから、テーマは観ている観客が決めるもので監督が答えるものではないんじゃないでしょうか。
大島さんも黒澤さんも共通してテーマについては喋りたがりませんでした。映画を作り終わってから大島さんが「この映画はきっと人は人に惹かれうるというものを描いたんじゃないか」と他人事のように言っていました。
僕には企画をプレゼンテーションする時に言われるとすごく腹が立つ言葉があります。それは『何故、今なんですか?』という質問です。それは観客が発見することだと思います。作り手は当然作りたいと思って作っているわけです。配給会社で育った人間の立場から言えば、『なぜ今か』を発見するのは配給会社の仕事です。今うけるという理由をつけて売っていくのは配給会社の仕事で、クリエーターの仕事ではないと僕は思うんです。でも残念ながら今は企画書にはテーマを書かなければならないし、何故今かというくだらない質問に答えなければなりません。映画から何かを探すのは配給会社やお金を出す人たちの責任です。今は彼らが責任逃れをしているとしか思えない。駄目になってきた原因の一つはそこらへんにあると思います。

・中国の映画産業について……。

井関:これは僕らの世代の責任でもありますが、最近はどんどん予算が落ちてきてしまっていますね。これは本当に危機だと思います。デジタルになって安く作れるようになっているし、一概に低予算が悪いとは言えないんですけど、かけるべきものはかけないと映画の品質が落ち、画面がやせ細ってしまいます。一番心配なのは、製作費が安くなるとスタッフの給料まで安くなるということ。真っ当に暮らせるギャラがないと才能はどんどん逃げてしまうものです。プロデューサーの皆さんは値切らずに払って欲しいと思います。でないといつか映画を作れなくなってしまう。
今現在、中国とやりとりしているんですが、あちらは日本より遥かにギャラが高いですね。

関:あと3・4年で中国の映画産業がアメリカのそれを抜くのではないかという記事が出ていたんですけど、それだけ客が観に行き、クリエーターも増えているということでしょうか。

井関:映画産業のマーケットナンバーワンはアメリカです。かつて、日本は二位でした。しかし、中国がずっと下の方から上がってきて三・四年前とうとう興行収入二千二百億で日本に追いつきました。
現在では、日本はほぼ横ばいに対して中国は六千億規模です。追いつかれてから、わずか三年で中国は三倍伸びました。国内でのスクリーン数が爆発的に増えたんです。

関:中国は、映画を輸出してお金が入ってきているのでしょうか。それとも、全て国内での収入なんでしょうか?

井関:現在はほぼ国内マーケットです。それで充分なので外国を相手にはしていません。八年ほど前に『墨攻』という映画をやった時に、七千万元という興行収入をあげました。日本円で換算すると十四億円ぐらいです。その年の中国国内の映画の三位になりました。しかし、今、七千万元というとみんながっかりします。今は最低で二億元、日本円で四十億はいかないと誰も喜びません。そのかわり同時に製作費もとても上がっています。
日本と一番違うのは、メインスタッフのギャラが高いという点ですね。
ただ、中国政府は隠していますが、バブルはもう終わっていると思います。今のところ映画にはお金は出ていますが、今後どうなるかは、ちょっとわからない。

・プロデューサーに必要なこと……。

関:日本はずっと横ばいということですね。僕らは産業拡大のために何をしたらいいのでしょうか?

井関:とにかく僕らができることといったら面白いものをつくってみせるしか手がないのではないでしょうか。
何がいい映画なのかという客観的基準はありません。しかし少なくとも自分がいい映画だと思うものを作るべきです。
僕は自分がつくった映画は、5年間は悪口を言わないという自分のルールを設けています。作った当のプロデューサー本人が「実はこの映画良くないんだよ」と言うのはみっともない。
とは言うものの、なかなか上手くいかないですよね。どんな映画でもやりたかったことのかけらが残っていればいいと思うんですが、実感として、思った通りにいった映画なんてはっきりいって一本もないです。それでもやるしかない。
これをやればヒットするんじゃないかと、逆算方式で作る方法も確かにあります。マーケットを制圧する方法です。ハリウッドはそれをやっています。マーケティングデータを取り、プロモーション戦略を立てていく。東宝、松竹、東映はテレビ局と一緒にやることによってプロモーションをしていますが、一方我々はそれだけの力を持っていない。僕らがそれをやろうとするとたとえばフジテレビを巻き込まなければなりません。しかし、まず向こうが僕らを必要としていないし、やったところで元々作ろうとしていたものから変わってしまう。だから、他人がなんと言おうと自分が信じたものをやるしかないんです。

関:以前井関さんとお会いしたとき、「日本映画界は製作委員会というやり方で成り立っているから、いいプロデューサーが育たない」と仰っていました。
ではプロデューサーは何をしていけばいいのでしょうか?

井関:僕は製作委員会が大嫌いです。プロデューサーだけでエンドクレジットの半分以上を占めている現状を異常だと思います。アメリカのプロデュース協会はクレジットを三名までと決めています。事実アカデミー賞はオスカー像を三つまでしか用意していません。
アメリカの場合、プロデューサーがファイナルカット権を持ち利益の分配権を持ちます。
プロデューサーとはギャラをもらう側ではなく、ギャラを払う側なんですね。
しかし残念ながら日本の場合はギャラを貰う側です。ギャラを貰っている以上、まず権利があること自体おかしいことに気付くべきです。このことが根本的に間違っていると僕は思います。
外国は理論的にはギャラの五十パーセントがクリエイティブチームに入ってきます。それを今度はプロデューサーが分けるんです。監督に何%、主演に何%と配るのが役割なので、本来はプロデューサーがギャラを貰う必要はないんです。その代り利益の分配権を貰うべきです。もちろん利益は欲しいですけど、原理的にはそうなんです。僕はそれがプロデユーサーだと思います。

関:共同制作をやる時にも、原理的にはそういうことをやろうと思ってプロジェクトを動かしているのでしょうか?

井関:そういうことです。例えば、アメリカやヨーロッパなど日本以外の国では、そういう進め方をしても変な顔はされません。「パーセンテージを持っていくの?」とビックリされるのは日本だけです。日本だけ独自の発展を遂げてしまったのです。


(後編へつづく)

(文責:いながききよたか)



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