huber. 紀陸武史

第二回

・Huber.(ハバー)という会社をご存知でしょうか。
「TOMODACHI GUIDE」というツアーガイドマッチングを行っている会社です。
そもそも以前、僕も、このインタビューにもご登場いただいた芳賀さん(『プロのおしごと』vol.5~vol.8に登場)が関わっているということでその存在を知り、たまさか代表の紀陸武史さんと知り合う機会を得たのですが、さて、「ツアーガイドをマッチング? それってどういうこと?」という興味が湧いたのでした。
僕自身も海外で暮らした経験を持っていますし、それにグローバリズムとナショナリズムがぶつかり合う現代において、「旅」とはどんな意味を持つのか……、突っ込んで言えばそんな興味です。
興味が湧いたら、また好奇心の虫が疼きだします。
ねほりはほり話を聞きに行かざるを得ません。
Huber.の代表:紀陸武史さん、そして役員をされている芳賀薫さんを交え、失礼ながら、いろいろな疑問をぶつけてみました。
そのお話はとっても興味深く、「今」を様々な角度から考える示唆に富んでいました……。


紀陸武史(きろく たけし):
1977年、東京都生まれ。株式会社Huber. 代表取締役CEO。ソフトバンク 孫正義社長の後継者育成を目的として設立された「Softbank Academia」の外部一期生。300名の在学生の1人として、孫正義氏の経営哲学を学んでいる。前職はフリーランスのビジネスプランナーとして、電通にて未踏領域(ビックデータ・機械学習・IoTなど)の新規事業・サービス開発のPMとして活動後、2015年4月に株式会社Huber.を設立。
「世界中の人たちを友だちに」という理念を掲げ、パーソナライズされた旅行体験を望む訪日外国人旅行者と、国際交流を望む日本人(主に大学生)をガイドとしてマッチングするプラットフォームサービス「Huber. TOMODACHI GUIDE」のベータ版を2016年2月にリリース。現在に至る。


芳賀薫(はが かおる):
東京都国分寺市出身 。
1997年 武蔵野美術大学映像学科卒 。CM製作会社ピラミッドフィルム企画演出部を経て、2004年よりTHE DIRECTORS GUILD に創設メンバーとして加わり現在に至る。
現在、株式会社Huber.の取締役としても活躍している。



・ハバーのその先の価値。

いながき:しかし、どのようにマネタイズしているんでしょうか。

紀陸:マッチングとリサーチです。

芳賀:マッチングはどんどん増やしていかないといけないし、これに共感してくれる大きな会社もすごく多いです。
ただ、一方でリサーチという価値もある。実際にゲストにガイドがついてまわるっていうのは実はすごいことで、例えば、人気なお店があるとします。みんなに好かれてるのはわかってるんだけど、どのように選ばれてるかはわからない。
でも実際マッチングでお店に訪れると生の声が聞けるわけで、これはものすごいビッグデータじゃないかと考えています。ただのリサーチポイントから出入りを計測するだけじゃなく、実際アナログにデータを取っているわけですから。

いながき:他にはできない測定的なことができるわけですね。

紀陸:ゴールデン定性情報って僕は呼んでます。僕たちの大きなコアバリューは、その『気付き』なんですよ。海外の人と接遇する日本人はたくさんいるけど、旅にくっついていく人はいない。彼らは日本のお墓を見てクールと言っていたりする。同行することによってカルチャーギャップに気付くことができるというのが、何かをほどくきっかけなんです。だって一番最初からスノーモンキーが人気だったわけじゃないじゃないですか。温泉の中にサルが入っているのをどこかの誰かが見て、「可愛いな」と思ってスマホで撮影して発信する。そこから全部が始まったわけです。

芳賀:日本人にとっては普通で見慣れていることでも、外国の人からするとすごい発見だったりして、そこに行く大きな要因の一つになるんだ、とわかるんです。

いながき:その気付きってすごいですね。

紀陸:例えばまだ海外の人が来ていない観光地の皆さんは、観光庁やリサーチ会社が提供するリサーチデータを元にいろいろ考えます。手がかりがないから、とにかくたくさんの人来ている「中国と台湾と韓国への対応が重要だ」と考えるかもしれません。けれど、もしかしたらその観光地はスペインのある種の層の人たちに好まれるかもしれない。そういう可能性を、データが逆に殺してしまってる側面があると思っています。

これからは人も、地域も、個性の時代です。
住んでよし、訪れてよしの、個性を生かしたまちづくりをする時代です。
だからこそここですべきは、いろんな国の人をその街に連れてきて、彼らを連れ回して反応を見て、なにがその街の持っているコンテクストに一番合うのかをほどいていくことだと思います。それを小さくも続けていけば、その街を貫くひとつのコンセプトみたいなものにいち早く出会えます。
素直に街の魅力に気付けば、適切な人たちに向けて、適切な情報を発信することができて、素直に好きになってくれる人を呼び込める。本物のブランディングができると思うんですよ。


・鎌倉である意味。

紀陸:鎌倉から始めたのも意味があります。
鎌倉に来るお客さんというのは日本らしい体験を求めてるリピーターがほとんどです。何故かというと、実は鎌倉は観光に後ろ向きなんです。年間二千二百万人訪れるんですが、一人当たりの消費金額は六千円なんですよ。すごく少ないんです。なぜなら地面を掘るとすぐに骨や文化財が出てきてしまうので高い建物を作れない、つまりホテルがないんです。お金を落とすところといえば神社仏閣ですが、宗教法人なので税金の対象になりません。
また目貫通りである小町は多くの人が来るので地価があがり、県外企業が9割を超えています。つまりいくら観光客が来ても税金がしっかり取れず、街に還元されません。街の人からするとそんなにいいこともないし、折角静かに暮らしているのだからこれ以上人は来なくていいと考えます。
しかし、宣伝しなくても国内海外問わずポテンシャルがあるから集まってしまう。だから鎌倉の改札を通り越して来る訪日旅行客の大半は、口コミ情報を頼りに鎌倉に来ていました。僕たちのまさにターゲットとなる人たちです。そういう人たちと向き合ってサービスを作っていくことがすごく大事だったわけです。
また鎌倉は新しいものと古いものが混ざり合っている街です。もともと住んでいる人々に加えて、10年ほど前から感度の高い人たちどんどん移住してきて混ざり合っています。海も山もあり、都内から一時間ほどで行けて優秀な大学も近辺に沢山ありました。この環境ってシリコンバレーに近いなと。しかもそこには日本らしい体験を求める海外の人たちが集まっています。それでここしかないと思ったんです。
その時、鎌倉に住んでいた芳賀さんに町々を案内してもらったのも、大きなキッカケになりました。


・一緒に歩くこと。

芳賀:ゆっくり歩きながら案内するのとか、歩きながら話すって結構いいですよね。

紀陸:理解し合う速度が速くなる感じがしますね。

いながき:確かに。一緒に歩くというのは信頼が生まれやすいんですかね。

芳賀:相手のペースを考えたりするからかな。『旅』の時間を共有することの中に、そういう瞬間がすごくあって、一緒に移動したり動きながらする判断って、無限にある。会議室での議論の最中って実は、判断の数は少ないけれど、歩いてると判断することがたくさんある。一緒に旅をするって、実はものすごい量の判断を一緒にしたことになるのかもしれないですね。

紀陸:人の脳にはミラーシナプスがあるって言いますよね。直接会って相手の話を聞くと、その人の気持ちが憑依して共感を促すという。それがあるから人間は社会を作れると言いますけど、そのためには一緒にいる必要があります。一緒にいると相手のことを考えるポイントがすごく増えるんでしょうね。印象深いことがたくさん起きる瞬間を共有するって単純にそれだけでも心が近くなる。深く理解できる。その深く理解したことが好きになるか嫌いなるかはわからないですけど。

いながき:好きになる確率の方が高い気がします。共同作業は目的に向かっていきますから。

紀陸:同じ釜の飯を食うっていうやつと一緒ですよね。社員旅行って同じ宿に行って、同じ飯を食って、同じ風呂に入って。あれって仲良くなるんですよね。そこに集まったストーリーもあると、もっと仲良くなる。


・半生について。

いながき:紀陸さんご自身はどのような経緯で現在に至ったんですか?

紀陸:僕は高卒なんです。当時はバンドでメロコアやってました(笑)。
専門学校時代、アルバイトでコールセンターの仕事をしました。そこがたまたまGMO前身の会社で、熊谷さんもよく顔を出されてました。そこがどんどん伸びていき、インターキューというプロバイダを始めて、GMOになって上場することになります。19~21歳ぐらいの時です。会社がすごく伸びていくのを目にして、ベンチャーがどういう風に伸びていくのかという原体験を得ることができました。
その後に専門学校を辞めてバンドに集中しようとしたら、すぐにそのバンドが解散しちゃって。その後、他のメンバーは別のバンドを作って活動し始めたんですけど、僕は全然動けなかった。その時に、僕はベーシストとして一流になりたいわけではなく、バンドという活動自体が好きだったのだ、と気付きました。自分らしく生きるってどういうことだろう、自分が一番好きなものって何だろうと悩みました。
そんな時にアルバイト雑誌を見ていたら、SCEIが学歴不問、ゲームプランナー求むという求人を出してまして。そういえば、ゲームは昔からずっと好きでやり続けていたし、プランナーになれたらきっとやりがい持って働けるぞ!と思いまして。だいぶ安直ですが。(笑)
それで手書きの企画書を送ったんです。でも、返事が来ない。だから三度くらい送りました。そうしたら、「会ってみないか」とSCEIから連絡をもらったんです。で、SCEIに入社することができました。
それからプレステ2の立ち上げやグランツーリスモなど複数の内製ソフトのプランニングを一年ぐらいやりました。もともとゲームを作りたいと思ってそこに入ったんですが、ゲームのシナリオは作家さんがやるものだと知らず。プランナーだからプランニングできると思って入ったのに、やるのはシステムインターフェイスの改善や、簡単な意見出しばかりで、やりたかったストーリー制作などは仕事の範疇ではありませんでした。
それでどうしたら自分の作りたいゲームが作れるんだ?と考えていたら、「そうか、自分でお金を稼いでこの人たちに頼めばいんだ」と気づき、大きく稼ぐなら起業しなきゃイカン!と思い立ちました。だいぶ安直ですが。(笑)
もともと学がないので働きながら勉強して力をつけるしかありませんでした。それが2001年ぐらいだったんですが、やるならインターネットかな、と考えていました。
それですぐSCEIを辞めて、大手システムインテグレーターに転職し、いろいろ勉強して、1年くらいでパソコンを部品から作ったり、ネットワーク構築できるくらいにはなりました。
で、ざっくりインターネット理解したと思い、今度は営業だと考えたんです。物が売れないと何をしてもダメだと思ったので。
インターネットの知識を活かせる営業職ってなんだろうと探していて、ソフトバンクにマンション向け光ファイバー事業の営業として、派遣で入ることになりました。
四十人ぐらいいた派遣の中で、3ヶ月くらいで成績は一番、二番になりました。
そしたら2004年頃、あるきっかけでソフトバンクの派遣社員は皆契約解除になる、という事態がありました。ただその時、一部の優秀な人材だけ正社員登用されたんです。そこで正社員になり、今度は四百人規模の営業部隊に所属することになりました。その中で、2年ほど頑張って、東日本でトップの営業成績を出せるくらいになり、東京23区のうちの18区ほどを任されるマネージャーになって、部下が二十五人ぐらいできました。
そうするうちにマンション向け光ファイバー事業の撤退が決まり、この四百人いた営業の大半がコールセンターへ行き、マネージャークラスの四、五十人だけが本隊のADSL事業に異動することになりました。
その時に僕は、いろいろとプロモーションに口を出したりする営業だったこともあり、本部の企画職に配属することになりました。僕は元営業として、数千人の営業スタッフのモチベーションを上げるというミッションを課せられ、ヒューマンリソースの世界に入っていくんです。
数千人の営業スタッフの心の動きがどうなっているんだろうということを常に研究しながら、どうしたら彼らの生産性が上がるのか、どうフォーカスしたらやる気がでるのか、キャリアプランをどう可視化すれば良いのか、などなど考え続けました。僕は元々人間観察が好きなのでこの仕事にハマったんです。
人の評価をするんですよね、だから役員や幹部の方たちと直接やりとりをしていました。この経験で得たものは本当に大きくて。今でも深く感謝しています。
そして、2010年に会社を辞めることにしたんです。
孫社長は常々「漢が志を持ったなら、何はなくとも挑戦すべきだ」と仰られていて。自分の中に「これだ!」というものが見つかったのなら、いつか挑戦するぞと思っていました。
仲間四人とセールスプロモーションの会社を設立し、不慣れながらも経営者の仲間入りをして、いろいろ足りないながらもおっつけて、ようやく仕事を得られるようになってきた矢先でした。起業して半年、東日本大震災が起きました。
輪番停電が始まり、電力供給に不確実性が出て、携わってたイベントもすべてキャンセルになってしまいました。立ち上げたばかりの会社だからキャッシュもないし、ほっておいたら三か月で潰れてしまう状態でした。
余震に震えながらこれからどうしよう…と考えてましたが、1週間もして状況が見えてきた時、自分よりももっと過酷な状態になっている人たちの姿がそこにありました。その人たちの姿を見てるうちに「無力な自分にも、震災に対してなにかできることがあるんじゃないか」と思うようになって。それで土日の時間を使って東北に支援をしに行ったんです。そこでだんだんと仲間が出来ました。
時を同じくして、孫さんの後継者育成を目的としたソフトバンクアカデミアで社内から二百人と社外から百人公募がありました。一万人から百人選ばれるんですが、それに受かったんです。そこで孫さんから直接経営哲学を学べる機会に預かりました。
会社経営、東日本大震災の活動、ソフトバンクアカデミアでの学び。
この時、フィードバックループが物凄い回っていたわけです。小さな会社の経営者が、孫さんから学びつつ、身の丈を超える震災復興という大きな課題に向き合っていく中で、多くの人の力を借りながらできる限りのことをしていった。この時期に、僕は本当にたくさんのことを学びました。
あの時って普通なら三、四年かかるものが、十分の一の時間で動いてしまったりした時期でした。向き合う課題が大きすぎたので、普段ならまず関わることのないあらゆる業界のプロフェッショナルの方々と出会い、プロジェクトを通して彼らから学ぶ機会を多く得られました。この時に、社会の利害構造を理解できたように思います。
同時にYahoo!Japanの皆さんや、被災地に入っているNPOの皆さんと復興デパートメントを立ち上げたり、出版社や自治体と連携して、猪苗代でオートキャンプのライブフェスのイベントを立ち上げたりもしました。
それらの活動を通して、僕は前よりは世の中をうまく捉えることができるようになってきて、たくさんの社会課題があることに気がつきました。そしてソフトバンクアカデミアの講義を通し、10年先、30年先、300年先の未来を想い描きながら、社会に必要とされる事業を創り上げたい、と願うようになり、自然とテクノロジーの世界に魅力されていきました。

そして仲間たちと立ち上げた会社を退職し、フリーランスのプランナーとして電通に行くことを決めました。電通で一年くらいIOT、ビックデータ、人工知能のプロジェクトに関わらせてもらって、ここでも多くのことを学びました。そしてようやく本当に自分がやりたいことが見えてきた。36歳の頃です。
そしてこのハバーを起業しました。

いながき:一つ一つが濃密で、まさに平成太閤記みたいですね(笑)。


・東日本大震災が気づかせたこと

紀陸:僕はすごくラッキーでした。何かひとつでもボタンを掛け違えたらこうはなっていません。
震災がとても大きかったんです。何よりもあの時、自分の仕事も社会も情勢不安定でした。そのまま仕事を無くしたら生きていけなくなるかもしれない。そういう時には二択しかありません。どうしようと焦るか、平気でいるか。自分の場合は、生活に関して恐怖はありませんでした。最低限自分が生きていくことはなんとかなる。それ以上に困っている人たちが東北にいました。経営者をしていての自分は自由な選択ができる立場です。であればほっておけないと……。できることをやらないと嘘になります。四の五の言わずに行かなきゃと思えた自分がいました。そして、そういう選択をする自分がいたことを知れたことがとても大きくて、人生を迷わなくなりました。自分の喜びって、誰かが喜んでくれること、喜ばせることなんだなとわかったんです。自分の活動欲求の一つを知ることができた。

いながき:ルソーは人間には「憐れみの情」というものが備わっていると言いました。要は道端に傷ついている人を見れば人間は誰しも助けたくなるでしょうってことなんですけど、震災ってそれが試されたんだろうなと思うところがあって、かと言って僕は率先してボランティに行っているわけではないんですが、そういうことをすごく考えさせられましたよね。

紀陸:すごく印象的だったのは、輪番停電のときでした。街灯もない真っ暗な道を、沢山の人がとぼとぼ列を作って帰っていたんです。電車も走ってませんでしたから。疲れもあって、自家発電で運営していたセブン・イレブンに立ち寄った時の話です。
レジに並んでいる時に、何となく自然に、みんなが声を掛け合ってました。僕も声をかけてました。「どちらに帰られるんですか?大変ですよね。」って。普段だったら絶対に声を掛け合わない人たちが声をかけ合っていたんですよ。不安だから何かを確かめようと励まし合ってたんです。
それを見たときに日本も捨てたもんじゃないなと思いました。これはきっと一時的なものかもしれないけど、本当に危機的なことが起きた時、人は団結できるんだと信じれたんです。変わらないとあきらめていろいろ投げ出してきた自分もいたけれど、日本人も変われるかもしれないという光明を見た気がしました。人の善意を信じられるようになったし、それがたくさんのことを解決したのを目の当たりにもしました。
事実、時間が経つにつれて社会は平静を取り戻し、声を掛け合うことはなくなりました。けれど国民の半分が同じ原体験を持ったことがある日本ならば、あの時に目にした、共感、共助の社会を再現できるんじゃないかと思ったんです。世界のどこでもない、日本でこそ育つイノベーションの芽になるんじゃないかと。瞬間的に国民の半分以上が、同じ恐怖体験を共有した国なんてそんなにないですから。僕らの中には、その原体験があるんです。

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