気が付いたら40になって、おまけに東京に住み、文士とは名ばかりの売文屋をやりつづけている。売文の方も最近はいまいち買い手がつかない。どうしたものか。
売れるなら売れるだけいいかと言えばそうでもなく、書くときなんかは必死でなんとか発注元に気に入られるよう書いてはみるが、出来上がった後しばらくして甘い文章だったなと気づいたりすると幻滅する。それを元に出来上がった映像が甘さに加えただの監督の自己満足で終わっていたりすれば文字通り死にたくなるというものだ。

僕は文化不毛の地で生まれ育った。かの地の人間が『文化不毛』などと聞けば憤るかもしれないが、僕だけの見立てなので許してほしいと思わないでもない。

実家の生業は窯業だった。中規模の町工場を営んでいた。工場は実家と離れた場所にあったが、それでも盆暮れのみならずなにかというと実家に工員たちが出入りし、酒盛りや麻雀をしていたと記憶する。
彼らの楽しみはなんといっても野球と酒と博打である。言及するのもバカバカしいが、一応触れると、文学らしきものやはやりの映画だって彼らの興味の俎上に上ったことはなかっただろう。
時折卑猥な言葉を混ぜながら、彼らは、金がないことを嘆きつつも、本場所が始まれば力士に、春夏は高校球児に、日々はプロ野球に勝手にオッズをつけてノミ行為に余念がなかった。時には工場の裏山に霞網を仕掛けつぐみを獲り網で焼いて肴にしたり、時には自生の自然薯を掘りとろろにして回し飲みしたりした。僕はその一部始終にまみれていた。
僕の印象では誰もが積極的に諦めた眼を持ち、さもなにかに期待することほどバカげたことはないと自分を戒め、肉体労働に従事して月給を得てはただ時間が経つことだけをよしとしていたようだった。

一度だけ文章を書いて生きていきたいと思い切って家族の前で告白したことがあった。
決死の告白だったと思うが、言い終るや否や家族は笑った。
「文章書く仕事なんかあるか」
「たとえば新聞記者とか」
「新聞記者なんかあほのやることだわ」
こういった具合だった。
そもそもなぜ僕が『文章』などと考えたのかわからない。なぜなのか。
なんにせよそれ以来僕は家族のなかにあってすこしおかしな子供という烙印を押された気がした。

家に本がないわけではなかった。家族にたった一人、読書を好む人間がいて、それは祖父だった。祖父は僕が小学校に上がる前に死んだが、死んだ後も、家族がどう処理していいかわからぬ類の蔵書ともいえぬ本が家や工場のあちこちに点在していて、僕は彼の残した文芸春秋だの中央公論だの岩波新書だのをなぜか手にし、なぜか読み漁った。それが『文章』などと考えた発端と言えば、言えないこともない。

当時はまだ街に一軒だけ映画館があったが、ポルノがかかっており、子供が近寄るべき場所ではなかった。
それでも映画はどことなく最後の娯楽と認識されていた気がする。
およそテレビは野球かニュースに限られていて、父親の目を盗んでしか他番組を見られなかったが、当の父親はテレビから映画が流れると、それが少し卑猥さを含んでいても平気で子供の前で見続けた。

窯業には窯番というのがある。ようは輪番で窯の火の番を回すのだが、僕はよく父親の窯番について工場で遊んだ。
窯のすぐわきにプレハブ建ての宿直室があった。火の近くにあるせいで冬でも汗ばむ暑さのせまい宿直室には万年床と安いテレビが置いてあった。父はそういう時に限って、僕の相手をすることもなく、手枕で始終テレビを眺めているのだった。独り遊びに倦み、仕方なく父の腹にもたれ、一緒にテレビを眺めた。
流れていたのは『ミクロの決死圏』だったと記憶している。テレビから流れてくる映画はいつも砂利にまみれた砂金だった。

その父はよく母を殴った。母も母でひるまぬものだから余計殴られた。
ある晩、寝静まった深夜、母の悲鳴で目を醒ました。何度も繰り返されることで、慣れていると言えば慣れていた。が、その晩の悲鳴はいつもより甲高く、胸が騒いだ。
雉が撃たれる直前ひときわ高く鳴くように、母の甲高い悲鳴が最後に響くと寝間は奇妙に静まり返った。しばらくして父が僕の部屋の外で低く呼んだ。そんなことはあまりなかったことだった。
両親の寝間に行くと母が額から血を流して倒れている。
「タオル絞ってもってこい」
父がそれでもおそろく冷静に僕に命じた。その冷静さがとても恐ろしく、同時に非日常の上に非日常を糊塗したような瞬間に妙にヒロイックになって、僕は急いでハンドタオルを濡らして倒れている母の血が止まらぬ額に押し当てた。
後に聞いたことだが、午前様をなじられ憤った父がガラス製の灰皿をぶん投げたのだそうだ。それが、過って(過ってというのもとても変な感じがするが)母の額に命中したということだった。
やがて救急車がやってきて、母は搬送された。付き添いたかったが、救急隊員に止められた、代わりに父が付き添い、家は僕と幼い弟だけになった。別に涙が出るという事もなく、ただ胸がザワザワし続け、眠れず朝が来た気がする。
ただ、こんな記憶は日常の一コマに過ぎない、毎日が鉄火の中であった。
翻って今の僕に繋がる記憶をたどる方が、たとえば文芸春秋やミクロの決死圏の記憶をたどる方が困難なのだ。

やがて僕は中学生になった。電車で一時間かけて通う中学校だった。小学生から比べ世界が一変したと言ってもよかっただろう。
雁字搦めの頚木から少しだけ解き放たれたのかもしれない。少なくとも家にいる時間を減らしても文句を言われなくなった。
僕は暗く狭く、無間の息切れを感じさせる家から外へ逃げ込んだのかもしれない。たとえば図書館に、たとえば美術館に、たとえば映画館に、そういったところにしか逃げ場所はなかったのかもしれない。
文化不毛の地にあって今の僕への繋がりをあえて探せば、そういうことかと今更ながら思い返してみるのだが、ただ、現在の座標が文化的かと自問すると決してそうではない。
かの地から遠く離れた現在の座標を同心円状に拡大しても、なんのことはない、どこまでいっても不毛だ。
映画界も漬かれば漬かるほど草も生えぬ底のない沼地に思えてくる、新刊に読むべき本も見当たらない。
してみると、諦めの眼を獲得した工員や、母を殴り、宿直室に寝転がりながらミクロの決死圏を眺める父がよほど文化的に思えてくるのは喜劇だろうか。

(いながき きよたか)


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