五歳の息子が聞いてきた。
「パパのコワいものはなに?」
彼は、というか、子供は、赤ん坊のころから自我を獲得するにつれ怖いものも獲得していく。そしてその怖いものをいつのまにか克服することによって強くなる。
例えば大きい音、暗闇、親からの分離等々。
五歳の彼は今、ちょうどそれらの怖いものを克服しつつあるらしい。
三才の彼は「鬼が来る」という言葉だけで怖がっていたが、今の彼は怖がりながらも強がってみせる。彼が編み出したすっとんきょうな必殺技で鬼を倒すと息巻いたりしている。が、パパが夜の窓の外を見つめ、『鬼、来た……』なんて深刻な顔してつぶやくと、『やめて!』と布団をひっかぶる。
『ねずみばあさん』が怖くて、頑として「おしいれのぼうけん」だけは読もうとしなかったが、この間は布団をひっかぶりながら最後まで僕の朗読を耐え抜いた。
そもそも怖いものが多い彼になにがしかの変化が起きているのは確からしい。
そしてふと気づいたのだろう、大人にとって怖いものとはなんだろうという疑問に。
さて、僕にとって怖いものはなんだろう。

よくお化けが怖いという言葉を聞いたりする。しかし、僕は「お化けが怖い」という言葉の意味が少しわからない。強がって意地で言っているわけではなく、本当にわからなかったりする。
そもそもお化けってなんだろう。
異形なるモノ、とかとりあえずそれっぽい意識の高い言葉でまとめてみる。
異形なるモノ……、ぜひ会ってみたいではないか。
とにかく、子供の頃、僕はグロテスクなものが好きだった。ウルトラマンシリーズの怪獣、仮面ライダーの怪人、水木しげるの妖怪、みんな僕を虜にした。
こんな思い出がある。
いとこのタケくんと遊んでいた時、二人で空き地の裏のなんだかよくわからないごみ溜めのような場所に忍び込んだ時のこと、一冊のボロボロのマンガ本を発見した。二人でドキドキしながら開き見た。めくるめくグロテスクな絵が続くホラー漫画だった。
タケくんはすぐに「捨てて!」と怯えた。が、僕は独り読みふけった。タケくんは震えながら僕からホラー漫画を取り上げると、どこか知らない場所に捨ててきてしまった。後年、記憶を頼りに調べてみると、それは日野日出志の『胎児異変―わたしの赤ちゃん』だった。
日野日出志! なんとワンダフルな漫画家に偶然出会っていたのだろう、僕は。

なぜお化けは怖いのだろう。なぜ僕はそれほどお化けを怖がらないのだろう。
それはおそらく『怖い』という言葉の捉え方の違うだと思う。
忌み嫌うもの、顔も会わせたくないもの、として怖いという言葉を使っているなら、お化けはそれに当たらない。だって、でなければホラー映画やサスペンス映画など閑古鳥が鳴くはずだ。
閑古鳥が鳴くどころか、ホラー映画は人気ジャンルとして認知されている。そもそもホラー映画やサスペンス映画の『怖い』を引き起こすための演出方法は他のジャンルの映画の模範になっている場合が多い。
怖いは客を集める。
つまり僕はお化けを忌み嫌ったり、顔を合わせたくないとは考えていない。
お化けは『怖い』が同時に『興味深い』。

今年はブレードランナーが久々に帰ってくる年でもある。この映画にまつわる言説は多い。大学時代、同映画が教材に使われたこともあった。その中で話されたことはブレードランナーは恐怖について描かれてある映画でもあるということだった。
人間の根源的な恐怖の対象は何か、それは想像しえないことだという。
だから人間は究極的に死を恐怖する。死の瞬間の想念、そして死後の想念はどれだけ科学が進歩しようが解明できない。というか、おそらくそんな想念はない。が、ないと断定できない。つまり想像の埒外だ。想像しえないことが恐怖ならば、死はその最たるものだろう。
だがレプリカントの未来は決まっている。むしろレプリカントは想像しえないものが過去に横たわっている。子供の頃の記憶がない、もしくはねつ造されているからだ。
レプリカントは死よりもむしろ過去を恐怖する。その証拠に、その恐怖を克服しようと彼らは写真を集めたりする。過去なき存在として彼らを創出せしめた父をその手で殺める。
この映画に登場するキャラクターたちも、そしてこの映画を見るファンも何に魅了されているかというと、恐怖だ。恐怖は人を魅了する。
僕はお化けにもブレードランナーにも魅了されている。

だが『怖い』にはもう一つの捉え方がある。
絶対に関わりたくものとしての恐怖、出会えば身震いし肝を冷やし、遠ざけておきたいものとしての恐怖だ。
それは僕にとっては『暴力』である。

僕にとっての『暴力』は根本のところで父と結びついている。
父は僕が本当に幼いころから家庭内で暴力を振るった。記憶にない時から。
そのせいで僕は単純に暴力を恐怖するようになった。(暴力に慣れたという側面もあるにはあるが、とにかく)魅せられるどころか、目にするのも想像するのもイヤだ。
映画や小説の中ならまったく問題はない。けれど暴力にまつわるもの、それを戦争などと言い換えてもいいのだけれど、そういうものに遭遇することに恐怖する。
さらに言えば、ようは父が怖いのだ。

父は老年になっても相変わらず暴力に近接している存在なのだが、僕の息子にとっては『面白いジジ』であるらしい。
多分、昨今の子供の中で、パパが怖い子はあまりいないだろう。少なくとも僕のような理由でパパが怖い子は、昔よりも圧倒的に少ないと思う。
それはよいことだ。よいことだが、怖い対象として生身の人間がいないことが、僕にとっては共感できない部分があるにはある。

だから、僕は息子に答えることにした。『パパが怖いのはジジだよ』
息子は意外な顔をする。
息子にとってジジが暴力の人だったということはもちろん不必要な情報だ。だから、僕は、子供のころ経験した父にまつわるあれこれを彼にもわかるように面白おかしく話してやった。
それは息子に対する、鬼なんかとうてい足元に及ばない生身の人間が起こす暴力の恐怖についてのささやかな教育であり、父に対するささやかな復讐でもあった。

(いながき きよたか)


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