やや擦られすぎている話題というきらいもあるが、最遠の記憶で、やはり一番先に思いだされるのは、三島由紀夫の「仮面の告白」だろう。なんと三島は産湯の記憶があるという。盥の縁のスベスベの感触をありありと覚えているとかなんとか、おまけに汗の匂いさえ覚えているという。
作中、三島自身が「後年聞かされた話によって形作られた半記憶のようなものかもしれないが」とひとまず註しているものの、本人にとってはそれが真実であるかのようだろう。
記憶というのは、とかく厄介な代物だと思う。

生来、最遠の記憶というものに僕は興味があるが、胎内の記憶と言われると、それが夢野久作でもない限り、途端に興味が薄れる。
なんでも子供は胎内の記憶があり、親を選んで生まれくるのだとかなんとか。なんと、体のいい「感動」を生み出す回路を作り出したものか。
いずれにしろ、僕はそういった類の「悪魔の証明」にも似た、本人がそう言っているのだから、そうに違いないという反証不可能な事柄にまったく興味を持てない。というか、なくなればいいとさえ思う。
信じることが、すなわち堕落の第一歩だということを肝に銘じた方がいい。
(新興宗教以外の宗教はこの信じること自体を問題にしている。信仰とは何かを考えれば、尚、信じることが堕落の一歩ということがわかるだろう)

先日、知人と食事をしているとき、記憶について話題が及んだ。いわく、幼少の頃をあまり覚えていないという。記憶の空白があるというのだ。思いだせるとしても、小学生以降、同席の関さんなどは高校に至ってもあまり記憶がないという。
別の機会、とあるプロデューサーと話しをしている時のこと、彼はふと場違いさを感じるときがあるという。すべて偽りの日々で、ある時から自分が別の道を歩いてしまっているのではないか、という漠然とした根源的な不安を抱くという。
もしかして、記憶は恣意的に形作られているのではないか、しかも自らの手でというよりも、環境や近親者によって。
おそらくこれは間違いではない。人が簡単に洗脳されることを、僕たちは経験上見知っている。
いずれにしても、記憶には濃淡がある。

どこかで読んだが、人は思い出を動かせないのだそうだ。つまり、動的な記憶を保持できないという。例えば、あることを思い出す時、人は一枚の絵のようにして記憶を引っ張り出す。その一枚の絵は動かない。思いだすという作用は、その絵を紙芝居のようにして、一枚一枚引っぺがして、自ら文脈をつけることを言うのだそうだ。
これは、確かにそうらしいと思わせる。なぜなら僕はいつだって記憶を夢のようには動かせない。

最遠の記憶は、今もある実家が舞台だ。
おそらく幼稚園に入園する前のこと、僕は泣いている。
一昔前、カメラと言えばまだフィルムで、フィルムはフィルムケースに入っていた。フィルムケースを誰かにもらい、僕はそれを大事にしていた。だが、きづくと蓋がない。自分の不注意でなくしたに決まっているが、どうしてもそのことを承服できず、祖父に「なぜなくしたのか」と八つ当たりせずにはいられなかった。八つ当たりしながら泣いているのである。
祖父はとても困った顔をしていた。
普段から和装をする人で、着流しにどてらといういでたちの祖父は僕を「自分でなくしたのだろう」と責めることもせず、ただただ困っていた。
彼のそれがわかるから僕も余計泣いた。
子供は僕たちが思うよりずいぶんわきまえていることが多いものだと思う。
最遠の記憶と言えば、もう一つある。
これは先の記憶とどちらが先かわからないのだが、とにかく、三歳の誕生日の日、僕は三月生まれだから、幼稚園入園をすぐに控えた寒い日の夜、父が僕を呼んだ。
父は決まって、自分の前に息子を立たせるとき、「きをつけ!」と姿勢を正させた。
木目調の幅広なガスストーブが絨毯の上で燃えていたのをよく覚えている。
直立不動にさせられた僕に父はこう言った。
「今日からお前は三歳だ、三歳と言えばもう分別がつく歳だ。よって、今日からお前を大人として扱う」
内心、すぐに意味は分からなかったが、妙に緊張したことを覚えている。やけに子供の期間は短いのだなと思ったような気もする。

こんな調子で、僕には幼年期のさまざまな記憶が残っている。翻って、思いだしてみるに、高校生あたりの記憶に乏しい。
小学校の担任の名はすべて言えるのに、中学高校の教師の名をほとんど記憶していない。
記憶には粗密ができる。その理由を考えてみる。
おそらく経験の濃密さが関係しているのではないか。苛烈さを伴う期間はよく思い出として残る。反対にルーティンのさなかは記憶が埋没する。
してみると、よほど僕の幼少は苛烈だったらしい。確かに思い当たる節がないわけではない。


(いながき きよたか)



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