地質班


紅茶に浸したマドレーヌの香りをきっかけに幼少期のとある夏を思い出す「失われた時を求めて」にならって、そういう事象そのものを『プルースト効果』と呼ぶそうだ。
けれど、香りや味覚だけがスイッチとは限らない。たとえば、コーヒーを入れるとき、頭を洗っているとき、そういった行動そのものがスイッチとなって、決まってある記憶を思い出すことがある。
行動と記憶は、いつのまにか頭の中で対になっているのかもしれない。面白いことに、思い出される記憶は、行動とはおおよそかかわりがない。脈絡なく、ランダムである。
一つ、マドレーヌと幼少期の夏との間に、脈絡がない部分が、とても文学的だと思うし、現に人間にはそういう経験が実感としてある。
これをどうやら「無意志的記憶」というらしい。
そうしてみると、ルーティンというのも悪くない。
日々の退屈なルーティンの中に「無意志的記憶」を見つけ出すのは結構趣があるではないか。

実は、幼い息子と風呂に入る時、決まって思い出す記憶がある。彼の髪の毛を洗ってやる時、僕は坂道のことを思い出すのだ。
僕が生まれた家は、坂道の途上にあった。駅から続く坂道を延々と歩くと、家にたどり着く。そんな坂道を歩いている記憶だ。
幾度となく歩いた坂道なのに、決まって思い出すのは、小学生のころのことである。
ちょうど坂道を降り、国道に差し掛かる手前の住宅街の曲がり角に、「カド屋」という駄菓子屋があった。看板もかかっていなかったから、おそらく「カド屋」は通称だったろう。しかし疑いもなく、僕たちは「カド屋」と呼んでいた。隣には、いやいや通わされた公文があった。公文を終え、カド屋で駄菓子を買い、坂道を登って、僕は家に帰るのだ。そんな景色を、東京に住まう僕の家の風呂場にいる髪を泡立てた息子を目の前に、思い出す。
脈絡がありそうでない。もしかしたら、本当は切実な文脈があるのかもしれないが、それは残念なことに、絶対的にわからない。

この「無意志的記憶」をきっかけに、僕はいつも「坂道にある家に暮らす人々」について、考えるようになった。
実家の人々は、とにかく騒々しく、気性が荒かった。両親の間には喧嘩が絶えず、警察のお世話になったこともしばしばである。信じられないことに、父に傷つけられた母を救急車に乗せたこともある。夜間の救急病棟に駆け込み、医師から苦言を呈されたりもした。
「もしこういうことが続けば、警察の方に相談すべきです」とさも痛ましそうに医師は言ったりした。中学か高校か、とにかく十代だった僕は、すでに警察の世話になっていることは告げられなかった。そして、警察の世話になり、その上でまだこんなことを父と母が続けていることを言えなかった。
長年、僕は「なぜだろう」と考えつづけてきた。なぜ、荒々しく生きねばならなかったのか?
ここ数年、僕は息子の髪の毛を洗いながら思い出すこの「無意志的記憶」に触れ、もしかしたら、それが「坂道」と関係あるのではないかと思うようになった。
世にあまたいる「坂道にある家に暮らす人々」に申し訳ない思いがしないでもないが、僕の家が他人の家より騒々しかったのは、坂道のせいかもしれないと無性に思うのだ。もしかしたら、思いたいだけなのかもしれないが。
ただ、その証拠に、坂道とは無縁の平地に暮らした母の実家の人々は、平穏だった。
名古屋城にほど近い、かつて町人たちが暮らした平地に母は育った。そこに住む彼女の家族は、日々商売に打ち込む、鉄火気質とは無縁の人々だった。そんな生まれ故郷に育った母が、「坂道」に嫁いで数年、平穏だった性格はなりをひそめいつのまにかささくれ立っていった。
父や祖母は「坂道」がゆえに、きっと、もともと荒々しかったのだ。それに感化されていった母を、僕はもっと悼むべきものとしなければならないのかもしれない。

僕は今東京に暮らしている。東京の西の方の、坂道の少ない場所に居を構え暮らしている。仕事に追われている時を除けば、できるだけ息子の髪の毛を洗ってやりたいと思っている。幸いなことに、「坂道」ではない家に暮らせている。
「無意志的記憶」が醸成されていくこの家で、それがなぜ呼び起こされたのか。やはり脈絡がなく、気まぐれだ。気まぐれではあるが、ひどく曖昧な悔恨としてある「坂道の家」が、このところ少しだけ寛解しつつあるような気がする。
そう思いながら、僕は幼い息子の髪の毛を洗う。
ただ、時間は思っている以上に早回しですぎていくらしい。
だから、息子の頭を洗うことは、早晩、なくなるルーティンに違いない。彼が少年になれば、父と共に入浴することはなくなる。つまり、僕の坂道にまつわる「無意志的記憶」も、用はなくなるというわけだ。
少し、寂しい。
が、おそらく、新たに始まる定常処理によって新たな「無意志的記憶」も呼び覚まされるだろう。そう思えば、少し楽しみでもある。


(いながき きよたか)



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