瀬戸やきそばの思い出


ゆえあって、22歳の頃、
母方の祖母の家に居候していたことがあった。
それは、本当にお恥ずかしい理由で、
ここに書くのもはばかれるので、詳しくは割愛するが、
簡単に言えば、家出である。
自宅は瀬戸にあり、母方の祖母は名古屋市の西区に住んでいた。
家出と言いながら、気安い祖母の家に転がり込むなど、
本当に根性がないと今更ながら、あの頃の自分にあきれ返るが、
まあ、その時は必死だった。
僕は、どうにか祖母にしばらく泊めてくれないかと頼み込んだ。
祖母は、見た目も言動も大黒様のような人だった。
あまり多くは語らず、僕を受け入れてくれた。
その優しさに甘え、僕は、しばらく祖母の家に住むことになった。

祖母は、生まれも育ちも名古屋の西区、生粋の名古屋人である。
いや、正確にはそうではない。
生まれはどうやら、山田村らしい。
もっと詳しく言えば、上小田井村である。
どういうことかと言えば、そこには、市町村合併の歴史がある。
昔の人を語る時、この市町村合併の歴史がややこしい。
今は、市町村が極端に少なくなり、
名古屋市なら名古屋市と大くくりで語れば事足りるが、
昔は、○○郡○○村というのがたくさんあった。
祖母の生家である上小田井村は、
現在は駅名としてしか残っていない。
明治の後期、五つの村が合併し、
上小田井村は山田村となり、
昭和30年代には、山田村は名古屋市西区に吸収され消滅した。
祖母は大正生まれのはずだから、
山田村出身ということになろうかと思う。
だが、彼女は事あるごとに実家、つまりザイショのことは、
昔のならわしで、「上小田井」と呼んでいた。

といういきさつを、僕は、祖母と住むようになっても、
知るには至らなかった。後年、調べてようやく知ったのである。
祖父母たちがどんな時代を生きたかということは、
知れば知るほどすこぶる面白い
(不謹慎だが、正しく面白いのである)
が、一緒に住んでいるというだけでは、
なかなかその全貌を知ることは困難なことが多い。
みな、ふとしたきっかけがなければ、
なかなか深く立ち入ることはしないのではないか。

もう、14年も前のことになるのだが、
2000年の9月、名古屋市は豪雨による水害に見舞われた。
記憶を頼りに思いだすので、事実とは多少異なるかもしれない。
僕は、午前中、整形外科に行きたいという祖母を
近くの病院まで車で送って行った。
その時は、まだ雨はそんなに降っていなかった。
が、祖母が病院を終えるころ、急激に雨脚が早くなり、
祖母を家に連れ戻した後、
あっというまに辺りは水浸しになったのだった。
テレビのニュースは、東海地方の水害について伝えていた。
特にひどいのは、名古屋市の北部、庄内川流域だという。
庄内川流域というのは、かつての山田村の辺りのことである。
祖母はしきりに、「カミオテャーは、ディャージョーブキャ」
と言いながら、各所に電話をかける。
祖母の情報網によると、どうやら、
「カミオテャーは、ディャージョーブ」らしい。
「カミオテャーってなに?」
そう聞く僕に、祖母は、
「カミオテャーというのは、
おばあちゃんのジャーショがあるとこだがね」と答えた。
念のために、通訳しておくと、祖母が言いたい事はこうだ。
「上小田井は大丈夫かな」
「上小田井には私の実家があるところだよ」
こうして、僕は、祖母のザイショが上小田井に
あるということを知った。

僕は、数か月にわたり祖母の家で暮らし、
その後、実家に連れ戻された。
祖母の家は、二世帯、いや、三世帯住宅で、
息子さん、つまり僕の伯父さん夫妻と、
その息子さん、つまり僕のいとこも住んでいて、
随分、迷惑をかけ、随分、心配をかけたのだが、
結局、元のさやにおさまり、
その後、すぐに実家を後にして、上京して、今がある。
他人に随分迷惑をかけ、
申し訳ない思いが今でもいっぱいなのだが、
それにしても、祖母との暮らしは良い思い出しかない。

その中でも、普段の暮らしの中のやりとりで面白かったのは、
祖母の言葉だった。
もちろん僕もお国なまりで話すのだが、
それは瀬戸弁といって、名古屋弁とはすこしちがう。
それに、僕たち若者の話す方言というのは、
祖母たちの世代が話すそれとは、なにか決定的な違いがあった。
祖母の話す名古屋弁は、
おそらく名古屋弁の中の名古屋弁だったと思う。

ここで、少し、名古屋弁についてうんちくを挟もう。
名古屋弁というのは、古い京都弁に近いそうだ。
その証拠に、古い名古屋の人は、
暖かいお茶のことを「おぶう」と呼ぶ。
今でも残っているようだが、
京都でも、そう呼ぶならわしがあるそうだ。
つまり、関西・中部・関東にかけて、
言葉はゆっくりと東へと流動していったらしい。
言葉は人である。
言葉の流動は人の流動だと考えると、なにげに感慨深い。

名古屋弁というと、
一般にあまりきれいではない印象があるかもしれない。
確かに、若者が喋る名古屋弁はそんなきらいがある。
が、祖母の喋る名古屋弁は、なんというか、
まったりして、聞いていて、非常になごんだ。
「やっとかめ」とか「ずつない」という言葉も、
普通に使っていたが、特別な言葉もさることながら、
特に名古屋弁で顕著なのは、音便である。
「はいる」は、「ひゃーる」になる。
さきほどの「かみおたい」は、「かみおてゃー」となる。
つまり母音が重なる部分は、繋げて音便することになるのだ。
「バイトにいかなきゃいけないから、俺は、帰るよ」は、
「びゃーといかないかんもんで、おれ、きゃーるわ」
となるのである。

祖母の場合、その生粋の名古屋弁に独特のカタカナ語が加わる。
昔の人に特有のことなのか、
祖母は、カタカナ語にめっぽう弱かった。
ウソのような本当の話だが、
『パソコン』というカタカナからして、書けないのだ。
祖母にはなんでもメモする癖があった。
そのメモに、どうしてか、
パソコンと書かねばならなかったらしく、
苦心しながら、『パ』まで書いて、僕にメモ帳とペンを渡した。
「きよたかさん、わたし、書けんもんで、
パソコンとそこに書いてちょぉでゃあ」
言えるのに、書けない。ウソのような本当の話である。

いや、正確には、言えもしない時が多々あった。
やはり、和語に慣れ親しんだ時間が長すぎると、
外来語がすっと入ってこないのだと思う。

ある時、お遣いを頼まれた。
「きよたかさん、お遣い行って来てちょぉでゃぁ」
自分が病院へ行っている間に、
買物をしてきて欲しいというのだ。
買物リストは、メモに残してるらしい。
そして、飯台に、一枚のメモが遺されていた。
メモ曰く、
『コンビネでヨグルド、マヨネズ、ソス』
かろうじて、マヨネズとソスは、わからんでもない。
つまり、長音記号の『ー』が祖母の中にはないのだろう。
確かに、昔の人は、たとえば、スーパーなどを書く時、
スウパアとなる。
ただ、コンビネとヨグルドがよくわからない。
多分……、多分だが、コンビネはコンビニのこと、
ヨグルドはヨーグルトだろう。
僕は、コンビニに向った。
コンビニに向いながら、考えた。
そっか、祖母にとってみれば、
カタカナ語であり、かつ略語というのは
ハードルが高いんだろうな。
僕だってコンビニが出現するまでは
コンビニエンスという単語の存在すら知らなかった。
略す以前の言葉を知らなければ、
略すこと自体が困難なのだろう。
で、祖母の中に見当たる近い言葉とは
コンビネーションということになるのか?
コンビネとはコンビネーションの略だ。
思い当たると、合点がいった。
コンビニについて、カゴの中に、
祖母ご所望の品を入れて行く。
マヨネーズ、ソース、そして、ヨーグルト……、
ヨーグルトの箱を手に取り、僕ははたとまた気がつく。
「いままで一緒に住んでいて、
祖母がヨーグルトを食べていた場面に
一度でもでくわしたことがあるだろうか?
いや、見た事がない。
じゃあ、どうしてヨーグルトなんかを。
そもそも、このヨグルドは、
ヨーグルトじゃないんじゃないか」
そして眼下に陳列されているヨーグルトの隣のヤクルトに
目が止まった。そこで、僕は天啓を得たのだった。
「祖母はよくおいしそうにちゅうちゅういわせながら、
ヤクルトを飲んでいた!ヨグルドとは、ヤクルトだ!」
僕は、三つの品を買って、祖母の家へと戻った。

病院から、祖母が帰ってきた。
何食わぬ顔して僕は、お遣いの品を祖母の前に出す。
それを見て、祖母は喜んだ。
「ありがと、よう行って来てくれたね」
そう言って、マヨネズとソスを冷蔵庫にしまうと、
祖母はヨグルドをおいしそうに飲み干した……。

祖母との思い出は尽きない。

(いながき きよたか)



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