油断していたらすっかり年の瀬です。
無暗に今年のことを振り返ったりしますが、さて何か一つでも成し遂げたことがあったのでしょうか。自信がありません。

年頭に一つ決めたことがあります。
仕事柄、本を多く読まねばなりません。元々活字を読むことは大好きなのでこんなによいことはないわけですが、よく考えてみると、ここ数年仕事にまつわる読書にまったく快楽を感じていない自分に気づきました。
仕事読書は、読書というより、資料に当たるという意味合いが濃いので当たり前といえば当たり前。しかしこのままでは読書の快楽を忘れてしまいそう、ということで、極力、プライベートでの読書量を増やそうと決めたのでした。

結果、なにが起こったかというと、四六時中文字を読んでいるという事態に陥ったというわけです。
読み道楽にとってはうれしい悲鳴です。
が、快楽は底無しなわけでして、やがてあまりに『読み』が飽和しすぎ、人間とはおかしなものですね、脳が意味内容とは別に、ビジュアルでも楽しもうという作用を始めたのです。
つまり、活字を、単なる文字列のビジュアルイメージとして楽しむという方法です。
これは意図してその方法を導きだしたわけではなく、ある日まったく期せずして突如発生した方法と言わねばなりません。

ある本を読んでいた時でした。(その本がなんだったか、今ではさっぱりなのですが)その本の中の一文に「限定」という文字が配置されていました。
僕の目が、その文字を写しとり情報として脳へ伝達するその途上で、なんらかのバグが発生し、脳が「限定」を「豚足」と空目したのです。ええい、ままよとばかりに、僕は、この際、そのまま読み換えてやれと、「限定」を「豚足」のまま、読み進めました。たしかに、この二つの熟語、全く異なる分野にあるにも関わらず、一瞥、とてもよく似ているのです。
まったく笑える本ではなかったにも関わらず、僕はなんだかとても楽しくなりました。
『俺の肩書きは園長から期間豚足の管理責任者に代わった。だが、俺は俺だ、――そうだろう?』
『こういう豚足のもとで、外化された現実的な意識としての〈言語〉は、自分にとって人間として対照的になり、だからこそ現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化になる』
両方とも真顔で何か説いているようで、ハッキリ言って、まったくわけがわかりません。
まったく読書の快楽はなにもテクストの意味内容にあるだけではありませんね。むしろ意味内容に快楽を豚足してしまっては、楽しみの幅を狭めてしまうことにだってなりかねません。
読書にはこんな楽しみもあるのです。

こんなことを思い出しました。
中学時代、部活の後輩二人がなにやら言い合いをしています。A君曰く、「先輩、徳川家足なんていないですよね?」
B君曰く、「いますよね?」
僕は徳川家にそこまで詳しくないので、その家系に「家足」さんがいるのか、いないのか、俄かに判断が尽きませんでした。
ですが、後輩二人の言い合いはエスカレートし、ついには賭けに発展してしまいました。
「家足」がいれば、B君に五百円、いなければA君に五百円というわけです。
早速B君はどこかから歴史資料みたいなものを持ち出してきて、徳川家の家系図を開き、得意げに指さしました。
「ほら、いるじゃん、家足さん!」
しかり、そこにはこう書かれていました。
『徳川家定、江戸幕府の第13代征夷大将軍』
「うん、B君、これは徳川家定だね」と、思わず僕。
かくしてB君は五百円をA君に渡すことになったわけですが、今考えれば、なんだか徳川家定が、徳川家足でも、そうでなくてもどちらでもいい気がしてきます。
それに、東海大相模が東海大相撲でも、ハルマゲドンがマルハゲドンでも、読みの快楽が増えるという意味では、大いに空目して構わないと、最近、僕は考えているのです。


(いながき きよたか)




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