南予のとある半島の突端に位置する蒋淵という場所に十日ばかり出張していました。
自ら書いたシナリオの撮影を手伝うということは、どこか御法度のような気持ちがするのであまりしませんが、ごく限られた予算と有志の映画というわけで、今度ばかりは止むを得ず、恥を偲んで行って参った次第です。

自主映画だけに人選が面白く、撮影部照明部は外国人部隊でした。(部隊と言っても三人ですが)スウェーデン出身のカメラマンに、ブラジル出身の女性撮影助手、アメリカ出身の照明技師という構成です。
こちらの拙い英語と彼らの流ちょうな日本語がコミュニケーションの頼りです。

監督に所縁が深いという理由で、かの地が選ばれたわけですが、何気なく暮らしていれば一生訪れることのない場所でしょう。普段出不精のくせに、ある強制性をもってそういった地方を訪れることが僕は大好きです。それに撮影というのは現地に住む方々と否が応でも濃密に接せざるをえません。濃密に接した蒋淵の人々は我々に圧倒的な歓待を与えてくれました。感謝しかありません。

とある空き家を借りて撮影していた時のこと、撮影のため取り外した和風ペンダントライトのシェードが部屋の隅に置いてありました。
撮影とは、一事が万事大掛かりで、良い画のためにはなんでもせねばならないものです。
と、アメリカ人照明技師のヴィンスが、シェードの天板を指さすのです。そこには長年放っておかれた埃が溜まっておりました。
「拭いてください」
ヴィンスは言いました。
もし撮影がゆるやかなものであればそれもいいことでしょう、しかしえてして時間との闘いです。掃除をしている余裕は、少なくともその時にはありません。しかし、ヴィンスは天板の埃を拭うことを頑として譲りません。
僕は濡れ布巾を用意し、ヴィンスと二人でお借りした空き家の和室にぶら下がっていた和風のランプシェードに溜まった埃を、忙殺される撮影の合間に拭いました。
綺麗にし終わり、彼はこの行為のことを指しこう英語で説明しました。
「conscientious」
日本語にすれば、いわゆる「良心」と習った単語でしょうか。
しかし、更に彼の添えた言葉によれば、なんとなく、普段我々が使っている良心という言葉ではおさまりのつかなさが、この「conscientious」という言葉にはあるように感じたのです。
それは、なんというか、日本語でいうところの「共感」や「同情」に近い語感がありそうです。少し長めに説明すれば、やらないよりはやったほうがいいこと、なんらかの助けや道義心に基づいた行動が必要とされる時、それを一度目にした以上はしたほうがよいこと、するべきこと、となるでしょうか。
僕は、このヴィンスの口からでた「conscientious」に接し、「なるほどなぁ」と合点がいく気がしました。彼らの行動規範や社会的価値観を一気に垣間見た気がしたからです。

僕にはこの「conscientious」が身に備わっていないことを告白しなければなりません。敷衍して差し支えなければ、「日本人には」と言ってもいいかもしれません。
ことに我々は自助努力という言葉が好きで、弱者に対してとても厳しい傾向があるように思います。足を引っ張り合うことをかなりの場合よしとして、「普通」でないものを白眼視する場面がとても多いと感じます。
そういった点では、「conscientious」はとても必要なことです。

あまりに形式的に話しすぎるきらいがあることは重々承知の上、話を進めるとします。
二十年ほど前、しばらくイギリスに暮らしたことがあります。以来、つよく感じることに、東洋と西洋における他人との接し方の違いがあります。
おそらく、我々は「他人のいやがることはしない」という規範に則って行動しているのに対し、彼らは常に「他人が望むことをしてあげる」という規範が身体に沁みついているのです。
どちらが社会をより良くするという話ではないつもりなのですが、ただ、時と場合に応じて、それぞれが善となり悪となるだろうという直感があります。
ふと、僕は考えます。
実は、良い良心と、悪い良心があるのではないかと。つまり、「good conscientious」と「bad conscientious」です。

蒋淵での撮影は続きます。
数日目、撮影のため借りたまた別の家屋は坂の中腹にありました。上り下りしながら機材を運んでいると、ふと生き物の気配に気づきました。撮影場所から少し離れた柿畑のある空き地に産み落とされたばかりの子猫がたった一匹、親に見放されたようで、転がっていました。意識はないように見受けられます。照りつける太陽が小さい身体をじりじりと焼いています。
「手を差し伸べてどうする」という考えと、「見放すべきではない」という道義心の狭間に立ち、僕は機材を置き、子猫をそっと軒下の日陰に移しました。手に取るとそれは必死に抵抗し鳴き声を上げます。あとで考えれば、その必死の抵抗と鳴き声が何を意味していたのか、僕は深く考えねばならなかったわけですが、

「生きていた。しかし……」
少々動転しながら、それでも引かれる後ろ髪を振り切り、撮影場所に戻りました。
途中、親猫と見受けられる敵意むき出しの顔をした猫を見かけ、僕が歩を進めると同時に飛びのき、逃げ去りました。普段立ち寄らない種類の人間たちの出現に少々パニックを起こしているらしいのでした。
「確かに、これでは、我が子を助けようにも助けられないな」
子猫を救うために僕たちができたことは、おそらく、撮影をなるべく早く切り上げて、その場を離れることだけだったかもしれません。

やがて、スタッフたちが次々と仔猫を発見しました。それなりに騒ぎにはなります。なんとか助けなければという、「conscientious」の声が聞かれました。
しかし、助けて東京へ連れ帰ることなどできるはずもなく、それは一時的な「conscientious」になるはずです。
ヴィンスは仕事の合間を見て、親に見捨てられた、いや、親が助けたくとも助けられない状況に追い込まれた衰弱する子猫の世話をしました。
しかし、聞いたことがあります。いったん人間の臭いがついてしまえば、野良猫はたとえ生まれたばかりの仔猫でも見放すと。

この仔猫の世話はきっと「conscientious」です。
しかし、それが「good conscientious」か「bad conscientious」か、僕は決めかねているのです。


(いながき きよたか)




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