忙しいのか忙しくないのかいまいちわからない毎日を送っています。最近シナリオを一本書きました。必ずやよい作品になるでしょう。

実は明確に『お盆』というのがいつなのか、いまいちわかりません。とにかく八月の中旬はなんとなく世間は夏休みなんだなぁというくらいで、周囲がいつからいつまで休みで、いつから仕事を始めているのかいまいちつかめないので、物事があまり動いていないような感覚になります。
僕も先日『お盆』にかこつけて帰郷してきました。帰郷と言っても残務があったので、実家で仕事をせねばなりませんでした。ほぼ実家のみなさまに顔を見せるというただの通過儀礼です。
僕の郷里は名古屋なのですが、行きかえり荷物も多いので、だいたい車で帰ってしまいます。家族を乗せて、四時間半から六時間のドライブです。

トイレ休憩のためサービスエリアに停まりました。夫婦ともどもお互いの実家への手土産にどら焼きを用意していたのですが、天気は快晴、傷むといけないと思い、妻と手分けして、紙袋を一つずつぶら提げてトイレを済ませました。
と、こんな日常の一コマはだいたいすぐに忘れてしまうものなんですが、そのまま愛知県に到着し、両実家への通過儀礼や、残務を終え、三日後再び東京へ引き返す車の中で、ふと妻が、「あのさ、すごくどうでもいいことなんだけど、ずっと気になってることがあって……」と、切り出したために、普段は忘れてしまうようなことをいまだに覚えていることになったのです。

妻の疑問はこうでした。
「行き掛けに手荷物をもってトイレに入ったでしょ? 女性のトイレには荷物かけがあるからいいんだけど、男の人はどうするの? 手に持ったままするの?」
なかなかハッとさせられる質問です。そして含蓄も深い。
一応この質問に答えますと、
「男性の小用のトイレには大抵荷物台のようなものが備えられてあって、そこに置いて用を足すんだよ」
妻は『なるほど』と頷いておりました。

考えて見れば、原理的に、男性にとっての女子トイレって、はたまた女性にとっての男子トイレって、永遠の謎なんですよね。我々は特殊な事情でもない限り、一生に一度も異性のトイレに入ることなく死を迎えるのです。
そういう意味では異性のトイレは月の裏側と同じです。
つまり先ほどの妻の疑問は、『月の裏側はどうなっているのか』とほぼ同義だというわけです。

性差に関する学問に暗いので迂闊なことは言えませんが、改めて考えてみるとトイレって性差で強烈に境界線が引かれている場所の一つですよね。
そういえば、先日、誰の話だったか忘れましたが、BBCで放送されたトイレについての討論番組のことを思いだしました。いわく、トランスジェンダーはどちらのトイレを使用すべきかについて、レズビアンフェミニストとトランスジェンダーのアクティビストが激論を戦わせたそうです。
このセクシャルマイノリティにとってのトイレ問題というのはあながち侮れるようなものでなく、去年でしたか、アメリカで大きな社会問題になったことでも知られています。
ノースカロライナ州で、出生届に記載されている性別のトイレを使用するべきであるという法案が可決されたことが発端でした。

ちなみにBBCでの討論によりますと、当事者の使用したいトイレを使用できるようにするべきというトランスジェンダーのアクティビストに対し、レズビアンフェミニストは「言っても、あなた元は男性でしょ? トイレという聖域に男性が侵入することにレイプ被害者はとてつもない恐怖を感じるはず」と、トランスジェンダーのトイレフリーを認めない構えだったそうです。
コレ関係に迂闊に口出しすると結構ヤバそうな印象があるので、滅多ことを言うつもりはありませんが、この場合のレズビアンフェミニストは『フェアネス』を求めているのではないんでしょうね。端的に女性の地位保全を求めているのだと思います。それはそれで重要だと思いますが、翻って考えますと、どうしてもこの発言は差別をなくすということにはならない気がしてしまいます。

『差別をなくす』には二通りの考え方があると思います。一つは『フェアネス』を追求すること。もう一つは『虐げられている当事者の地位向上』です。
この二つは似ているようでまったく別物ととらえていいと僕は思っています。
前者は双方の歩み寄り、後者は下位を上位と同等にすること、ベクトルのありようが違っています。
ちなみに、トイレ問題で言いますと、僕はジェンダーフリーのトイレを作ればいいのではないかと安易に考えたりしますが、ダメなんでしょうか。
たとえば、実際、アメリカではやっていた意識が高いドラマなんかだと、オフィスにトイレは一つだったりしますよね。(『アリー・マクビール』がそうでした。ただあれはかなり現実とは乖離している設定なので鵜呑みも困りますが)
いずれにしろ男性も女性も同じ場所で用を足す、これで解決するような気がしますが……。
もしそれがダメなら、セクシャリティに応じたトイレをすべて作るか……。
ただ、セクシャリティだけに限っても、およそ価値観が多様化しすぎているように思います。いや、価値観の多様化をネガティブに考えているわけではありません。価値の百花繚乱はむしろ望ましいと思います。ただ価値は承認と背中合わせであることに注意せねばなりません。残念ながら、我々が生きているこの世界では価値がすべてやすやすと承認されえないのが現実です。まさにそこにこそ現在我々が直面しているさまざまな問題の根があるように思います。

さて、しかし、トイレは聖域という主張もよくわかります。
これもドラマの話になりますが、『スーツ』だと、トイレはよく密談の場、本音をポロリする場として描かれるとか。
確かに考えてみれば、公衆のトイレは、日常で『胸襟を開く』ならぬ『下半身を剥き出しにする』唯一の場所です。本音を思わず口にする磁場であることも頷けるような気がします。
妻が改めて驚いていたのは、男子トイレでは仕切りもない便器に横並びになって大の大人が性器を丸出しにして用を足すということでした。普段、あまりに何気ない日常なので気にも留めませんでしたが、考えればこれって日常におけるギリギリの非日常なのかもしれません。
そういえば、かなり親しい間柄の友人でも、いや、親しいからこそ、油断して男子トイレで隣り合わせてしまうとザワザワしたりします。むっつり黙り込んであたかも「おしっこに集中しているんだぞ、俺は!」というパフォーマンスに終始するのもなんか変だし、かといって政治がどうの外交がどうのという政談も歯が浮くし、そこで交わされる会話こそ大人が試されているような気がします。
今、ふとある男子トイレでの一コマを思い出しました。
それは川崎市高津区は溝の口の場末の居酒屋での出来事でした。男子トイレで用を足していると、気分よく酔っぱらったおっちゃんが入ってきたのです。隣同士で用を足しているとおっちゃんが言うのです。
「やだねぇ」
「え? どうしたんですか」
「どんだけ呑んでも、ションベンになって出てっちまう。もったいないねぇ」
「ああ、ほんと、そうですよね」
「わかってても、酒、止められないねぇ」
まさにこういうトイレでの会話こそ、大人のたしなみですね。


(いながき きよたか)




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