先日、この『本棚』を監修してくれているN氏と呑んだ。
現在のN氏はなにしろ勤勉で読書に余念がない。先日話題に出したバルトの『明るい部屋』を早速読んだかと思えば、現在はローティに手を出しているという。ドストエフスキーも五大小説のうち四つ読んでいて、五大小説以外の『地下室の手記』を特に気に入っているという。聞くところによると『ホメロス』も『ファウスト』も読んだらしい。
話題はドストエフスキーの翻訳を手掛ける亀山郁夫氏に及んだ。

僕の悪い特技は、読んでいないのにさも読んだ風に話しをできることなのだが、亀山さんについては10年ほど前話題になった『誤訳』の人という印象が強い。(僕は亀山訳を読んでいないし、誤訳の真偽は僕には当然判断できない)
だいたいこの『誤訳』というやつは亀山さんに限らずよく話題になる。野崎歓さんもやり玉にあげられてたし……。(戸田奈津子さんの場合はちょっとまた違う気もするが)
が、N氏によれば亀山訳はとても読みやすくよい翻訳だという。
彼がそういうのなら、そうなのであろうと思い、僕もぜひ『カラ兄』は亀山訳で読もうと考えたところだが、さて、少々この『誤訳』について、ひいては『翻訳文学』について考えたわけだ。

僕はどうも翻訳文学に苦手意識がある。
かつて、やっぱり海外文学も一応読んどかなきゃと思い、手を出したのが新潮社の『グレート・ギャツビー』、野崎孝さんの翻訳。どうにもつらく通読できず。
それに好きな日本作家の誰もがあまりにフォークナー、フォークナー言うから、読んどかなきゃと、これも新潮社から出ている『サンクチュアリ』、加島祥造さんの訳、五年に一度くらい手を出すが、その都度挫折する。
比較的相性が良かったのはラテンアメリカ文学でガルシア・マルケスやボルヘス、プイグなどを鼓直さん、野谷文昭さんの訳で読んだ。
が、しかし、一応見栄でフランス文学科に入ったものの、入った以上は読まなきゃと手を出したスタンダールもバルザックもセリーヌもジュネも今思えば苦心した。
それに比べて日本の小説は僕にとって一つ不安材料が消える。翻訳を噛ましてないから。

それにしても、翻訳の巧拙とは一体何だろう。それは翻訳についてどう考えるかでずいぶん話が変わってきてしまうような気がする。
上記のように、僕が翻訳文学に苦手意識を持ったのは、今思えばおそらく翻訳の文体と文脈がどうしてか硬化していて、激しく読みづらかったからだと思う。なぜ硬化した文体になるかというと、考えるに、原文の息遣いへの配慮だと思われる。きっと翻訳文が読みづらければ、原文も読みづらいのだ、そしてその文体を読み下せないのはおのれにその素養がないからだ……、と当時の僕は考えていた。
けれど、決してそればかりではなかろう。ただ単純に読みづらさが翻訳者の腕前に起因する場合もあろうかと思う。
それぞれ翻訳者はそれなりの研究者であろうから、原典に対する理解度は我々などきっと及びもしないだろうけれども、時にそもそも日本語としてどうかと思うような文章で翻訳が仕上がっている場合もある。これは困ったことだ。
では翻訳者はただただ読み易さに腐心すればよいかというと、それもまた問題が生じる。原典を著しく離れ、読者の読解力にかしずいてばかりいると、ここぞとばかりに『誤訳』などという難癖がつけられる。
じゃあ、巧い翻訳ってなんだろう。
それは、原典の息遣い、意図、文体を充分くみ取り、その上で日本語として少なからず同時代に生きる人間たちが読み下すことが出来るギリギリの文章で編まれたものを指すのだろう。
しかし果たして、この『巧い』という判断を我々は下せるのだろうか。巧拙を論うためには、そもそも原典を読み、翻訳を読み比べなければその判断を下せないはずだ。でも、当然、ロシア語もスペイン語もイタリア語もできない僕に判断など下せるはずはない。
うーむ、考えてみるだに翻訳文学って難しい。

ただかつての僕はどちらかというと翻訳文学に対してハードコアな立ち位置だった。原文礼賛というか、なんなら恣意的にかみ砕いた文章なら直訳の方がまだましだと感じたりしていた。
多分、こんな立場にいる人がきっと誤訳誤訳騒ぐんだろうと思う。
今は少し考えを改めている。
それはこの仕事をし始めたことと関係しているかもしれない。
世に『原作厨』と呼ばれる厄介な人たちがいる。
原典礼賛に留まるならまだましだが、行き過ぎた原典原理主義で発展的に展開される派生作品(例えば実写化やアニメ化)を激しく憎悪する人たちだ。
原理主義と聞くと原典を忠実に守り抜くピューリタンをイメージするかもしれないが、それならまだいい方で『原作厨』の本性は、本来「自分が見たい作品が見たい」人たちのことである。
これを翻訳文学に置き換えると、やはり行き過ぎた誤訳指摘者はどこか『原作厨』の匂いがすることに気付く。それでは、そもそも外国文学を翻訳するという原理に反している。だって『原作厨』なら原作読んでおけばいいもの。
しかし、外国文学の場合あまたの原作をそのまま読むのは難しい。だから翻訳者が必要なのであるが、今の僕が彼らに望むマナーは『マイルドな創作者たれ』ということだろうか。
個性を出しすぎず、かといって出さなさすぎず、原文に忠実すぎず、かといって恣意的にすぎず、読みにくい原典ならば少しだけ開かれたものにして、とにかく原典の空気感を日本語で感じられるような……。
いやはや、いささか求めすぎのような気がしないでもないが、それを承知で言うならそういうことだ。

書いていて思いだしたが、そういえば新約聖書を書いたというマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは、作者ということにはなっていない。精霊が彼らに取りつき彼らに福音を書かせたということになっている。だから聖書の作者は精霊ということになっている。彼らはいわば翻訳者だ。(正確には福音記者と呼ばれる)
もちろんこれは建前だし、一種のキリスト教プレイみたいなもんだから、話半分に聞いておいてよろしいと思われるが、もしかしたら翻訳文学に関しては新約聖書スタイルが望ましいのかもしれない。

いずれにしろ、日本は世界にも類を見ないほどの翻訳文学大国だ。一説には西洋思想に関する思想書が自国語でこんなに読める国はないらしい。いつの時代も日本は思想を輸入してきたという伝統がそうさせているのだろうが、この伝統は翻訳者たちの高い技術なしには育たなかっただろう。
せっかくこんな翻訳文学大国に生まれたのだから、僕たちはもうすでにあるかつての翻訳名著をがんばって読み砕くべきだし、新たに現れる共時的な翻訳作品を楽しめばよいのだと思う。


(いながき きよたか)




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