先日、シナリオ作家協会の総会というものに参加しました。一応協会員ですし、シナリオライターがたくさん集まる場所に訪れる機会はあまりないので、野次馬根性(というと怒られてしまうかもしれませんが)丸出しで参加したのでした。

さて、先日、メディアが言うところの『共謀罪』、つまり「テロ等準備罪」法案が可決されました。それに先だって、あまり知られてませんが、わがシナリオ作家協会は(も?)、この『共謀罪』ことテロ等準備罪に対する反対の声明を出したのでした。
このことに関して、総会ではちょっとした悶着が起りました。
詳細に論っても長大でしかもつまらないので端折りまして、要点だけ記しますと、
・まず「反対声明を出しては?」と提案した協会員がいた。
・この提案を受け、協会としても、協会が『表現の自由』を脅かすやもしれないと考えるこの『共謀罪』の成立を看過できないと考え、声明を発表しようと考えた。
・しかしながら、提案の時点で、この法案の(強行)採決が差し迫っているだろうと目されていた。
・協会として声明を発表するには協会員たちの意見を反映させるべきところ、それを待つと『共謀罪』が成立してしまう恐れがあり、時間がないのでやむをえず、『共謀罪』採決前に、反対声明の発表を常務理事で決定した。
・そして反対声明が発表された。
以上が経緯でありました。
さてこの経緯をふまえ、総会で起こった悶着がどういうものだったか振り返ると、上記四項目中の「協会員たちの意見を反映させるべきところ」がもっぱらの火種でした。
ようは、この協会としての(協会員たちの採択を経ずなされた)声明発表が、「英断」だったか、「拙速」だったかが、悶着の要点だったと思われます。

まあ、『共謀罪』が表現の自由を脅かすか否かは少し置いておいて、今日の原稿のために僕の所見を簡潔に述べると、
・「なぜ、共謀罪採決前に発表せねばならないのか?」
・「そもそも正規の手続きを経ず特例で声明を発表すること自体、反対を表明している者たちがこぞって批判する強行採決という今回の国会運営そのものではなかったか?」
ということになります。

重要度で言えば、前者の方がより重要な気がするので、まずは後者から一言付しましょう。
僕は、もともと「反対」ということについていつでも一抹の違和感を覚えます。
ある理念に反対するとしましょう。反対する者はどうやら、その理念を砕くためには、なんでも利用すればいいと考えているように見えます。「反対」さえ達成されれば手段は厭わないと映る時さえあります。
例えば、敵の敵は味方と言わんばかりに、思想信条の合わぬ者とも手を組むとか。(これは、第二次大戦中、大日本帝国が節操なく採った戦略の一つでした。しかしこの戦略が何をもたらしたかは言うまでもありません)
例えば、ある理念の打倒が目的なのだから、たとえ手段が敵が採った到底容認できないもの(ここでは強行採決)でも、利用できるならする(ここでは協会員たちに諮ることなく常務理事のみで反対声明発表を決定)。なぜなら「反対」の結果が得られればいいのだから、とか。
果たして「反対」する者はこのような態度をとっても、「反対」するがゆえに、まさしくやむを得ないのでしょうか。
僕はそうは思いません。
手法が汚いなら、理念も汚いはずです。手法が同じなら、「反対」だろうが「賛成」だろうが、同じ穴のムジナでしょう。

さらに僕が問題にしたいことは、前者の「なぜ、共謀罪採決前に発表せねばならないのか?」という点です。
言い分はわかります。おそらくこういうことでしょう。
「採決をさせないために発表するのだ。成立してからでは遅い」
しかし、(もしかしたらこれも消極的意見に聞こえるのでしょうが、)厳然たる事実として、現在の国会は自民党とその仲間たちが多数を占めているので、たとえば、僕が「反対」を表明しても、誰が「反対」を表明しても、成立する法案は成立します。
これを踏まえれば、ハッキリ言って、反対声明が「前」だろうが「後」だろうが、大勢に影響はありません。むしろ「拙速」を踏むことの方がよほどマイナスが残ると言えると思います。それよりはしかるべき手続きを踏んで「反対」を表明し、なぜ反対かを詳らかにし、廃案に続く道を模索したほうがよほどポジティブだと思います。
肝心なことは、「前」でも「後」でもなく、いつでも「反対」することだと言いたいのです。
「反対」は、その表明をしてひとまずその役割を終えるものではないはずです。少なくとも「反対」するならば、「反対」し続けることがまずは肝要であるはずです。しかし、昨今の「反対」はとても刹那的に映ります。
『ある法律が成立しそうだ、この法律は問題だ(と思う)、だから「反対」しよう、しかし「反対」もむなしく法律は成立した。成立してしまったが、我々は少なくとも「反対」はしたのだ……』
こういう思考回路はとてもロマンチックです。当事者にはある種の陶酔がもたらされるかもしれません。しかし陶酔は「反対」を殺す毒のはずです。
ではどうすればよいか……。
僕は、「忘れぬこと」だと考えています。
「忘れぬこと、いつでも覚えておくこと、ことあるごとに考え直し、その都度思考を整理すること」だと思います。

日夜、めくるめく時事問題が縷々流れ去っていきます。一つ一つは縷々どころか、とても重要で問題視されるべき事柄ながら、リニアルな日常生活の中にあって、濁流に押し流され、気付けば跡形もなく、耳目を集めるものだけが俎上に上るという具合です。

例えば僕はこんなことを思い出します。
約一年半前、パリで同時多発テロが起こりました。ヨーロッパの最も有名な都市のひとつで起こった大規模テロは日本においても耳目を集めました。
この同時多発テロが何を意味するか、僕はずっと考え続けなければならない気がしたものでした。
片や、当時、フェイスブックを覗いてみると、かなりの人間が俄然アイコンにトリコロールを透かしてみせていました。これを見て、僕は「やばいな」と思いました。トリコロールアイコンにした者から順に、すぐにこのテロは忘れ去られるだろうと直感しました。
それが事実になったか僕には確かめようもないのですが、少なくとも、こうは言えると思います。パリの同時多発テロはフェイスブックのトリコロールアイコンとして消費された、と。

再び『共謀罪』についてです。
僕は、この法律に反対です。恐れを感じるし、単純にソワソワしてイライラします。この国が僕の知っている国でなくなっていくのを、僕は今後見なければならないと覚悟を迫られているような感じがします。
しかし、単にここで「反対」を表明し、この「反対」を消費してしまうことにはさらに「反対」です。
なので、僕は、このことをずっと覚えていることにしましょう。例えば次の選挙、もしくは次の次の選挙、それがダメなら次の次の次、という具合に、忘却することを忘却することにしましょう。


(いながき きよたか)




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