最近、再び美術館巡りが再熱しています。先週も、どうしても観ておきたくて、豊田市美術館でやっていた岡﨑乾二郎による『抽象の力』に会期ギリギリに飛び込みました。
展示は盛況(下の階で東山魁夷がやっていたということもありますが)、久しぶりにじっくり時間をかけねばならないものでした。

20代、働くようになって、どうしてか触れなくなったのですが、中学生・高校生の頃、心の支えは本と共に美術作品でした。
1990年に名古屋市美術館で『日本のシュールレアリズム』という展示が行われました。誘われるように迷い込んだ僕は、福沢一郎、古賀春江、北脇昇、靉光、松本竣介、山本悍右などに触れ、文字通り数日熱に浮かされました。その後の心象を決定づけられた感があります。
他にも美術作品にはずいぶん触れたのですが、当時から不思議に思っていたことがあります。
美術館には美術作品が並べられてあります。その一つ一つの前に立ち、僕は「これが好きだ」、「これは好きではない」という価値判断を行うことについてです。
人は好悪の気分をいだきます。しかしなぜでしょう、その好悪の源泉はどこから来るのでしょうか。そして、なぜ私は(あれではなく)これが好きなのでしょうか。

この好悪の源泉がわからぬばかりに、好き嫌いで価値を判断することを妙に避けていた時期があります。自分のみならず、他者からそんな好悪の判断を聞くこともできれば避けたい気分でした。
いつも考えていたのです。「なぜあなたはそれが好きなのか」、この問いの反復の果ては、玉ねぎの皮をむくかのように、きっと彼の答えに到達しないだろう、と。

にもかかわらず、僕はやはり心底で好悪の判断をしてしまうことを否定できずにいました。
高校生のころ、にわかに写真に興味が湧きました。メイプルソープは好きでした、アラーキーは嫌いでした。マン・レイや植田正治、山本悍右、長谷川三郎などの写真が好きで、当時はやり出した90年代的写真が大嫌いでした。
しかし、自分の中でいかに理屈を組み立てても、なぜか汲みつくせない気がして、いつしか「好きと嫌い」という価値判断をなんとか自分から追い出したいと思うようになったのです。

志ん生が『饅頭こわい』をやる時、披露するマクラの中にこんな話があります。
「人間には好き嫌いがある。それは土に埋めたへその緒の上を初めて通ったものを人は嫌いになるからだ」。
つまり、好き嫌いに理屈はないというわけです。
まあ、たいていの人は「理屈がない、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」と言って話を終わらすかもしれません。
でも、もしかしたら、こういった、『理屈はないのだ』といった姿勢や、どうせ汲みつくせないのだからもはや『好きと嫌い』をあきらめるという態度こそ、昨今の「人間の分断」を進めているのかもしれない、僕はそう思うようになりました。

ロラン・バルトの『明るい部屋』という写真について書かれた本があります。その中でバルトは、ストゥディウムとプンクトゥムという概念を導入し写真を批判/批評しています。
ラテン語でストゥディウムは、「study」の語源でしょう。翻訳者はそれを「一般的関心」と訳し、さらにバルトはこう書いています。
「それは好き/嫌いの問題である。ストゥディウムは好きの次元に属し、愛するの次元に属さない。(略)教養文化(ストゥディウムはこれに根ざしている)とは、制作者と消費者のあいだで結ばれた一つの約束事だからである。ストゥディウムとは一種の教育(知と儀礼)なのである」
バルトは、決してストゥディウムをよしとしていません。
それはなぜか、おそらく芸術作品に属するようなものは、決して言語に還元されえず、自明的に教育できないものだからなのでしょう。
しかし、僕は、「その前に」と思うわけです。
あらかじめ芸術作品は言語に還元されえないわけだから、直観に従って、ただ好き嫌いを言えばいいと、傲慢にふるまう前に、まずは「言語に還元されえない」ことを身をもって体験するべきではないかと。

バルトは、ストゥディウムに対し、プンクトゥムという概念を用意します。
ラテン語で「刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目、そして骰子の一振り」のことだそうです。
ストゥディウムを越えて、ある時芸術作品は我々を刺し、穴を空け、斑点を残し、裂け目を残すというわけです。
これは直感的に理解できます。たしかにある種の芸術作品を見たとき僕たちは雷に打たれることがあるからです。
しかし、「直感的に理解できる」と言う時の「理解」は、バルトがこの要素に「プンクトゥム」と名付けたからであり、それを充分に吟味し、批判/批評したからのはずです。
「プンクトゥム」は必ずしも、『理屈じゃない、俺が好きなら好きなのだ』という傲慢な立場に立って得られるものではないのです。

時に人は批評を退ける態度を示します。時に「批判」と聞くと途端にその響きにアレルギーを示す人がいます。
彼らは好きと嫌いが志ん生のマクラのように霊的に判断されると考えるでしょう。(僕は志ん生のこのマクラが「大好き」なのですが、それはまさにその内容を信じているから好きなのではないのです。このマクラが持つ滑稽さを無邪気に信ずるのはまさに滑稽ではありませんか)
しかし、僕は、バルトに沿って言えば、「ストゥディウム」(知と儀礼)の用意があってはじめてそれを破壊しうる「プンクトゥム」がやってくると考えるべきだと思います。
ほとんど愛の次元に属し、時にわが身を傷つけ、その傷が愛の証であるような「プンクトゥム」に至るために、批評/批判は必要なものなのです。

さて、なぜ僕はそれが好きなのでしょうか。
その答えを用意するためには、まず対象をよく吟味し実験し時に疑うことにしましょう。 その後、僕は発見するのです。確かにその対象が僕に傷を残したことを。本当に僕がそれを好きなのだと。


(いながき きよたか)




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