本音を言えば電話が嫌いだ。
携帯電話をもって久しく、もう固定電話だけの時代の感覚を忘れたが、今や電話をかけてくる相手が誰かわからなければほとんど着信に応対することはない。
相手がわかっても、下手すれば気乗りがしない場合取らない。仕事上やむを得ない場合はもちろん応対するが、取らずに済むならできるだけ電話したくはない。
と言って、電話で話すこと自体が嫌いなのではないらしい。とにかく、その時間、その場所に自分がいるということを相手に悟られることが、どうやら気持ち悪いらしい。
後ろめたいことがあるわけではないが、電話の内容とは別に、「ははーん、今、ここにいるんだね、あなたは」と予断を許すこと自体に居心地悪さを感じる。

電話に限らず、突然の訪問などもそうで、配達業者など、あらかじめ来ると分かっている者以外から呼び鈴を鳴らされると、異様な警戒心が湧いてしまう。
現代は、コミュニケーションを図る相手の身元確認を過剰に迫るようになった。それに慣れると、いつしか身元確認できねばコミュニケーションを図ることが怖くなる。なんだか幽霊を相手にしているような感覚、と言えば近いかもしれない。

はっきりとした身元確認の元でしかコミュニケーションを取りたくないという感覚が強まれば強まるほど、反比例するように、僕は『不在』の感覚がいかなるものか、という考えにとりつかれる。
というのも、生業であるシナリオに限らずこの『不在』という現象を表現することが、実はとても困難だからだ。

シナリオを準備する時、一番難しいのは人を感動させることでも、笑わせることでもない。『不在』をいかにうまく表現できるかだと、頭を抱えてしまうことがよくある。
例えば、家の中が映されているとする。
その画面の中に一人、女が映っているとする。女には夫がいて、その夫は物語上既出だ。
女が家の中で紅茶を飲んでいる。それが映されている。
さて、この時、観客は夫が『不在』だと感じるだろうか。
感じるはずがない。観客は女の『実在』をただ観るだけだ。
もし、作劇上、夫の『不在』を語るなんらかの必要性があるならば、シナリオライターはあれこれ駆使して、『不在』を訴えねばならない。
玄関に夫の靴がないカットをモンタージュすればいいだろうか、女の携帯に『今日は遅くなる』というメールが届けばいいのか、しかし、そんなカットを積み重ねていくうちに、気づくだろう。『不在』を表象しようとしてはずなのに、いつのまにか夫の『実在』ばかりが顕在化してくることに。
『不在』証明をいかに描くか、それがライターの力量につながっていると僕はしばしば感じてしまう。

『不在』証明の困難さが付きまとうのはなにも映画に限らない。文学にも絵画にもさらには哲学にも付きまとう。
たとえが幼稚でいささか心もとないが、『ウォーリーをさがせ』を考えると、僕は途端に徒労を感じるのだ。
知っての通り、おびただしい人物が配された細密なイラストの中から、主人公のウォーリーを探し当てることが主眼の絵本だ。
しかし、例えば、イラスト上にウォーリーがいるという約束が反故にされたら僕たちはどうすればいいのだろう。例えば、探し当てる主眼がいつのまにか、ウォーリーがいるかいないかというテーマにすり替わっていたらどうだろう。ウォーリーがいないことを証明することは長大な検証が必要になってしまわないか。
つまり『ウォーリーをさがせ』という絵本からたった一体、ウォーリー自身を消すだけで、たちまちそれは奇書になりかわるのだ。

幼稚と言ったが、実はこのウォーリーの例えを哲学の場に移し替えても大概は言い得てしまうのではないか。
アンセルムスもトマス・アクィナスもデカルトも『ウォーリー』ならぬ、『神』をさがしつづけていた。
神の存在を証明しようとしていたのである。
その方法は、否定につぐ否定によるものだった。つまり『不在』の可能性を摘むことによって『実在』を証明しようとしたのだ。
こう考えると、『不在』は遠く西洋の哲学につながっているともいえる。あながち僕のひっかかりも思いつきだけのものではなさそうだ。

ここで僕は、この『不在』を見事に描いた映画を一つ思いだす。
ミケランジェロ・アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』という作品だ。原題は、『l’eclisse』、蝕を意味するイタリア語だが、邦題訳はなかなか成功している。
あらすじはほとんどなく、アラン・ドロン演じる証券マンとモニカ・ヴィッティ演じる優雅な暮らしを続ける女が出会い、親しくなり、しかし、ただただ二人は無為の時間を過ごしていく。それだけだ。
白眉はラストシーンである。
男と女は約束する。明日の八時、いつもの場所で、と。その場所は、何度も反復される。そこは、まるで形骸化した、核戦争を生き残った後の無機的な都市としての約束の場所だ。
明日が来る。
路線バスが何度も通り過ぎる。人々が映し出される。誰もが何かを待っているようで、それでいて誰もが通り過ぎていく。やがて夜が来る。街灯が点る。路線バスから降りる客、乗る客。街灯はまぶしい。それはまるで核爆発か、太陽のように。
映画はそこで終わる。強烈な『不在』の感覚を客に突きつける。それは今まで不毛な愛を続けた男と女の不在であるばかりか、大きなカタルシスの後の人間の不在であるかのようでもある。


(いながき きよたか)




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