昔、誰か忘れたけど小説家だったか評論家だったかが、「小説家には二種類ある、それは書くべきことを見つけないと書けない人間と、書くことがなくなってからしか書けない人間だ」とか言っていたような気がする。
内田百閒とかは後者かもしれない。
井上靖とか前者のような気がする。

なにが言いたいかというと、今、僕にはあんまり書くことがないということ。
別に強制されているわけではないから、書かねばいいだけの話だが、一応、自分ルールとして極力この誌面には書きつづけると決めたので書く。
それにしても何を書こう。

乱読はためにならないという人もいるらしい。なにやら読書量が少ないことを後ろめたく感じている裏返しのルサンチマンに聞こえなくもないが、確かに、考えてみれば、内容がありそうでなさそうな自己啓発系の本ばかり乱読してもなんのためにもならなそうだとも思う。
僕は、職業柄、仕事のために本を読むことが多い。ここだけの話、まあつまらない本を読まねばならないこともある。というか、ほとんど、かもしれない。
これは実感だが、つまらない本ほど、早く読める。いろいろ理由は考えられるが、おそらく「先が読める」からだろう。つまらない本は「先が読めて」ほとんど想定内で終わる。だから早い。
逆に面白い本は時間がかかる。
だから、面白い本は乱読できない。

ここ数年、読書から遠のいたと感じている。
さきほど書いたように仕事にまつわる本は読んでいる。が、果たしてそれを読書と呼んでいいか僕には一抹の疑いがあった。
読書は、こう、なんというか、役に立たない。と、こう書くとなんだか語弊があるが、「仕事読書」のように、目に見える成果として決して結実しないのだと思う。
もっと、じとっと身体の中に降りていって、いつのまにかその本のことを考えてしまっているような、そんな感じだ。即効性などない。言ってみれば、消費ではなく、浪費や蕩尽に似ているかもしれない。
世の中はあらゆる局面で結果が求められるが、読書だけは求められない。それでいいし、それがいい。

そんな忘れかけていた読書の役立たずな蕩尽的快楽に今年はもう少し浴してみようと考えているところだ。

そこで、せっかくなので浪費した読書を少し紹介しようと思う。
(ちなみに、タイトルの「座読書」は大滝詠一さんのアルバム「NIAGARA CALENDER」からの借用、とっても好きな曲である。そういえば大滝さんも偉大なる知の浪費家だ)

・「パルムの僧院」スタンダール、古屋健三訳、世界文学全集25。
講談社から出ているこの世界文学全集というのがなかなかすごくて、全103冊、中にはブルトンヌやパゾリーニも含まれていて、ラインナップが小気味よかったりする。ちなみに、全冊揃で、なんでも蒐集する癖のあった祖父の形見である。
死ぬまでには全部読んでおきたいと、計算してみると、一年に三冊計算でもあと三十年以上かかる。こう考えてみると、人が一生に読んでおける文学などたかが知れていることに気づき慄いてしまう。なによりつまらぬ本など読んでる場合じゃない気もしてくる。
で、「パルムの僧院」である。
僕は一応フランス文学科を卒業したが、ほとんど怠惰でどの作家も体系的に読んでいない。スタンダールもただ学生時代に「赤と黒」を読んだのみ。ジュリアン・ソレルは確かに魅力的な男だったが、どうも馬が合わなかった。しかし食わず嫌いもいけないし、あれから二十年以上も経っている、今なら結構いけるかもしれないと、手を出してみた。
これが正解だった。
能天気なほどスジがうねっている。スジがうねっているということは、単純に面白いということを意味する。
主人公のファブリスは今に置き換えれば、稀代のカリスマ美少年、それでいて抱える野心と欲望は黒いところがなく、すがすがしい。ジュリアン・ソレルとはその点が違う。
そんなファブリスが、こちらがひやひやするほど屈託なく冒険し、恋愛し、時に挫折し、末に出世する。
でありながら、この小説をただのロマンティックミステリーから救っているのは写実主義ということなのだろうか。確かにロマンティックミステリーというよりは、心理小説の成分がほとんどを占めている。
なにしろ先が気になる小説、先が読めない小説であるというところが身震いするほど面白い。

・「レトリック感覚」佐藤信夫。講談社学術文庫。
これは再読になる。大学一年時、指導教官がまず読めと必読書にあげた本だ。
当時は、「へえ、レトリックは悪者じゃないのね」ってなくらいだったが、それからなんの因果か売文屋になって、そこに書かれたレトリックの数々と分析の方法がとても革新的だったことにようやく気付かされた。
若いころにはわからない、時間が経ってわかる系の本の中の一冊。
そして、「言葉」なり「文」に携わる人間は通っておいて全く損はない、いや、通ってなければモグリであると言ってもいい本。

・「ルネサンス 経験の条件」岡﨑乾二郎、文春学藝ライブラリー。
結果から言うと、三十年に一冊クラスの重要な一冊。
僕は、一応、映画に携わっているものの、「美学」に劣等感がある。
考えてみれば、「文学」や「理学」は小学校のころから一応接しているはずで、なんとなくの肌感覚はあるのだが、「美学」となると教育としてなかなか腰を入れて触れた経験がない。
この「経験の条件」はかつての『批評空間』誌上に掲載されていたものを集めた岡﨑氏の論考集だ。僕は同雑誌を購読していたが、正直に言えば当時は「言論プロレス」ばかり追っていて、ついそんな美学劣等感から、読み飛ばしていた。
この「読み飛ばし」は本当に悪手だった。なんなら他は読み飛ばしても、この「経験の条件」だけは読まねばならなかった。
かつて一度だけ学生のシナリオの面倒を見たことがあったが、その時かつての指導教官よろしく必読書として挙げたのが、シナリオの教則本でもなんでもなく、(学生たちはきょとんとしていたが)柄谷行人の「日本近代文学の起源」だった。これを読んでおけばとりあえず文章を書くということがなんなのか、なんとなくわかるだろうと考えたからだった。それはなにより自分のための必読書であるという前提がある。だからことあるごとに僕はそれを再読するが、この「経験の条件」もそういう類の本になるはずだ。
正直言って、僕はこの本の五割も理解していないということを自信をもって表明できる。
よくわからない自信だが、冒頭に書いた通り、「先が読めない」、「想定の範囲外」であるという点において、無類に面白い本であることは間違いない。
未だ劣等感を抱かざるを得ない「美学」だが、その蒙が啓かれたことは確か。誰にでも薦めたい本である。


(いながき きよたか)




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