我が家のメディアはもっぱらラジオでして、だいたいTBSラジオがデフォルトだったりします。
家人との話題も「あの時、強啓さんが……」だったり、五歳の息子が突然「過払い金!」とか言い出したりと、影響はなはだしいところです。
で、先週の金曜日デイキャッチ内のボイスを家人が「聞いてみろ」と勧めてきました。
聞き逃したのでTBSラジオクラウドで聞いてみたところ、宮台さんが例のベルトルッチ「ラスト・タンゴ・イン・パリ」半強姦疑惑について喋っていました。
要は監督が演技のリアルさを追求したかどうか、とにかく、濡れ場のシーンであらかじめ女優に内容(詳しくは小道具のバターの使用法だったそうな)を意図的に伝えなかったために、女優自身が強姦されたかのような気分になったという疑惑です。このことが時を経て明るみになり、モラルハラスメントに当たるや当たらざるやが議論になっているのだそう。

映画・映像作品に携わる身としては、なかなか考えさせられるニュースです。
なぜなら、たとえばこのベルトルッチの態度を仮に芸術至上主義=『芸術のためならばたとえ善ですらかしずくべきである』という態度だと置き換えれば、映画に少しでも携わった人間は多かれ少なかれそういう現場を経験しているからです。

思い出します。この世界に飛び込んだ一年目のことを。僕は制作部としてひーこら働いていました。
「車止め」という仕事があります。撮影中、音も同時に録音する時、周囲の必要でない音を止まらせるため、道路に出て車=騒音を止めるのです。
その監督はドキュメンタリックに撮る方で、本番が10分に及ぶこともありました。つまり、10分間、交通を遮断せねばなりません。クラクションを鳴らされれば本も子もないので、三角コーンで行く手を遮り、運転手一人一人に根気強く待ってもらうようお願いします。と、とある運転手の方がお腹を壊している模様でした。カメラは延々と回っています。僕の判断では交通を再開できません。とにかく待ってもらうしかありません。やがて、運転手さんは、顔を真っ赤にして、怒りとも羞恥心とも取れぬ表情で「もういい」とあきらめた様子で言いました。ついに間に合わなかったのです。
撮影後、僕はとてもいたたまれない気持ちになりました。そしてこうも思いました。「見ず知らずの人にこんなことを強いてまで作る意味があるのだろうか、この映画は」と。
その後も、大なり小なり、こんな経験をいくつも経験しました。映画の撮影には必ずこの手の「芸術至上主義」と「いたたまれなさ」の相克にさいなまれるものです。

レイプとウンチを漏らすことでは、レイプの方が幾分ハイクラスのように聞こえるかもしれませんが、尊厳の破壊という意味では一緒です。
芸術のためには誰にウンチを漏らさせようと、誰をレイプしようと構わないのでしょうか。
僕はすぐにこんな小説を思い出しました。
芥川龍之介の『地獄変』です。
迫真の屏風絵を描くため、牛車に閉じ込めれらた自分の娘が焼き死ぬのを黙って見届ける絵師の父というムナクソなアレです。

ある程度真面目に高校時代の国語に取り組んだ人なら覚えているのではないでしょうか、いわゆる谷崎―芥川論争というやつを。
論争の主題は「文芸的な、余りに文芸的な」小説に重要なものはプロットか、はてさて詩的精神か、でした。両者の文学的対立はここにとどまりません。文学史的問題「唯美(耽美)主義か、芸術至上主義か」に及びます。
ちなみに、谷崎はプロット派で唯美主義。芥川は詩的精神派で芸術至上主義でしたよね。

こう見ると、ベルトルッチのレイプも、とある監督のウンチ漏らしも、結局、唯美か芸術至上かの対立で語ることができてしまうような気がします。
そして、ひもとけば、それはおそらくカントの「美と崇高」問題にたどりつくのではないでしょうか。
(美と崇高、ややこしい問題です。一つだけ言えることは、きっと、レイプやウンチ漏らしは、崇高さを元に行われはしても、決して美ではないと思います)

ただ、芥川も決して芸術至上主義の権化などではなく、「地獄変」の主人公良秀が結局自死するところを見ても、そこになんらかの葛藤なりがあったと見て取るべきなのでしょう。
やはり「芸術のためならなにをしてもよいのだ」という態度は崇高かもしれませんけど、寝覚めがわるいですよね。

ひとまず個人的な答えを言ってしまうと、はっきりいってベルトルッチが行ったようなこの手の演出なり、制作態度に僕は嫌悪感を抱きます。
いや、違います。より正確を期すならば、芸術を前にすれば善を後回しするのもやむなしの場合もあると意識的に「崇高さ」を操作しようとする態度に嫌悪感を抱く、と言うべきでしょうか。
「地獄変」に出現するような、業火に焼かれる娘を目の前に、憐憫より先にどうしようもなく高揚を抱く人間は、確かに現実にいます。そして彼らの存在は致し方なしとも思うわけです。
ただ一方で、悪いとは思いながらも「芸術のためなんだもん、仕方ない、見逃してくれよ」という人もいます。これは、まったく同意できません。怒りすら覚えます。
さて、「どっちも一緒じゃん」、でしょうか。でも現に大きな隔たりがあります。
前者はどうしようもなく芸術的な、余りに芸術的な者であり、後者は芸術に対する言い訳を再生産する者です。
微細な差異でありながら、僕はここを無視するわけにはいきません。

ただ、どちらにしろ、僕は結局「崇高さ」を相手に途方に暮れるだけなのかもしれません。
そして「崇高さ」よりも「美」の方によほど興味があるのです。
それはたとえば坂口安吾が書いたような法隆寺に代わる停車場の美であり、バラック屋根やネオンサインの美です。それは「崇高さ」のために多くの人が死んだ後、それでもウジのように湧き出すおびただしい生活の「美」なのです。


(いながき きよたか)




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