先日、五歳になる息子と車に乗っている時のこと、試しに志ん朝の「そば清」を聞かせてみました。
果たして五歳の男児に落語は楽しめるものかと興味が湧いたのでした。
すると、冒頭、マクラの部分から彼はバカ笑いを始めたのです。
『ほお、わかるのか』と思ったのもつかの間、息子の言った一言ではっとしました。
彼はバカ笑いしながら「なに言ってるかわかんなーい」と言ったのでした。(一応、彼は「そば清」のおはなし自体は絵本で読んで知っていたのですが……)
やがて、志ん朝が羽織を脱ぎ本編に入るくらいになると、すでに彼の集中力は切れ、他ごとを始めました。あまつさえ「雨ふりくまの子、聞きたーい」とステレオの変更を訴えました。(それは彼のフェイバリットソングです)
でも、なぜ彼はバカ笑いしたのでしょうか。「言ってることがわからない」だけではバカ笑いはできないはずです。注意深く見ると、それは客が「笑っている」からのようでした。笑いは笑いに誘われる、ということを僕らは経験的に知っています。

やはり落語は抽象度の高い表現物だということがわかりますね。
常々思っていることがあります。それは「教養」を修めるためには、まず「抽象度」を上げねばならないということです。
(同時に、一応、誤解されそうなのでつけ加えると、必ずしも「教養」の有無が人間の優劣にはつながらないと僕は考えています)
思えば「抽象度」が高くなければ、子供はおろか大人でも落語は楽しめないかもしれません。確かに「なに言ってるかわからん」と言っていた大人もいたような……。
ただ「笑う」だけなら、なにも落語ほどの抽象度はまったく必要ありません。というか、むしろ邪魔なくらいです。

最近「この世界の片隅に」という映画を観ました。言葉による評がとても難しい映画です。個人的にはとても「感動」しました。
方や、数ヶ月前になりますが「君の名は。」という映画も観ました。こちらもあちこちで引き合いに出される話題の映画で、個人的にとても「感動」しました。
両方「感動」したのですが、この「感動」という言葉、どうにも曖昧で仕方ないですね。その証拠に、前者と後者の「感動」は僕にとってはっきりと別物でした。
「感動」、つまりそれは「泣く」ということでもいいのですが、明らかに僕は、「君の名は。」には泣かされ、「この世界の片隅に」では、いつのまにか泣きました。
これが両者の「感動」の違いだと思います。

不謹慎ですが、エロビデオで説明するとわかりやすいかもしれません。
僕らは「エロビデオ」を見る時、まず、勃たせたいという欲望を前提に、他人がセックスしているのを見て、「勃つ」というより、おそらく「勃たされている」のです。
ちょっと前話題になった「感動ポルノ」という言葉も、結局「ポルノ」がこうした回路の上でなりたっていることを前提として、それを揶揄していたのだと思われます。

なんだか「君の名は。」を指して、「ポルノ」だと言ってるように聞こえてきましたが、いや、そうです。そうですよ。あれは過度によくできた「ポルノ」です。
「感動したい」と思った人が集まって来て、「感動している人」を見て、自分も「感動させられる」、それもおそろしくよく出来た「感動」です。
たまにありませんか、一生涯大事にしたいエロビデオ。自分の欲望スイッチを何度でも押してくれる「ポルノ」。
ここまでの言説に接し「なんだかすごくディスってない?」と思われるかもしれませんが、はっきり言ってそれは心外です。
そう思うことこそ「君の名は。」と「ポルノ」を差別している証かもしれません。もしかしたら「アート」に対して「ポルノ」を見下しているのでは?
僕は「君の名は。」と、怖ろしくよく出来た「ポルノ」に全身全霊の敬意を払っています。
なぜなら、僕は仕事柄「ポルノ」を作ることがいかに難しいかを知っているし、時に人は「ポルノ」が必要であることも、男性である以上、痛いほど身に沁みているからです。

しかしです。
では、方や、抽象度の高い表現物はどうでしょうか。「ポルノ」に対して、「アート」と言ってもいいし「人文知」と言ってもいいです。(「アート」という言葉にアレルギーを示す人がいるのは充分に承知しながら、この際あえて「アート」と言ってみようと思います)
人生には「ポルノ」さえあればよく、「アート」は必要ない……、なんてことに賛成する人はまさか誰もいないですよね。
でも、最近では現状としてそうなりつつあるきらいがあります。
まあ、仕方ないか、と思わないでもないのです。「アート」は「ポルノ」のような回路をもっていません。欲望スイッチをまったく押してくれないのです。
「アート」は「泣きたい(勃たせたい)」→「泣かせてくれる(勃たたせてくれる)」ことを全然してくれませんし、自らの「抽象度」によって理解の深度もまちまち、望んだ結果をお望み通り叶えてくれるようなものじゃないからです。
まあ、つまりあんまり役には立たないということです。
と言って、「アート」が死滅すると怖ろしいことが起こります、おそらく。(なぜかをここでくどくど説明するのは、その行為自体が「アート」になりそうであるが故、非常に困難なのですが、僕はそう断言します)
想像するだに怖ろしいのですが、たとえば、この世が「役に立つもの」で埋め尽くされたとしたら……、きっとそれは怖ろしいディストピアでしょうね。

何度も言うようですが、本物の「ポルノ」を作ることは、とても困難でかなりの習熟度が必要とされます。作家としてそれを欲望しない人はいないと思われます。そして表現物という意味ではなんら「下」ということはありません。
そして、資本主義社会は、本物の「ポルノ」がより資本を生産できるようにできています。それは仕方ないこと、というより自明なわけです。
しかし、極端に「ポルノ」しか売れなくなった社会は悲惨です。
「泣きたい」時にいつでも「泣きたい」欲望のスイッチを簡単に押してもらえる状況しか望まない者は、つまり「ポルノ」の奴隷だからです。
僕たちを「ポルノ」の奴隷から救うものを、僕たちは確保しなければなりません。

(いながき きよたか)




mail
コギトワークスロゴ