不意に家人が「あこがれの人って誰?」と言いだした。
なぜ突然僕の「あこがれの人」が気になったのかわからないが、とにかく、僕は考え込んだ。
今「あこがれの人」はひとまずいない。
しかし、かつてはいたような気がする。

僕は、家人のその一言で、かつて自分が詩人にあこがれていたことを思い出した。
萩原朔太郎、中原中也、金子光晴、吉岡実、ロートレアモン、マラルメ、アポリネール、ボードレール……上げればきりがない。
中でも特にランボーに熱を上げた。小林秀雄訳だ。
『嘗ては、若し俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であつた、誰の心も開き、酒といふ酒は悉く流れ出た宴であつた。』
この書き出しだけで、僕の中二心がいっぺんにズッキューンとなった。なんせ旧字体ってとこがとってもいい。辞書を引き引き、ルビを書き書き、意味も分からず読んだものだ。
しかし、「あこがれ」たのはそこだけでない。ランボーの生き方、死に方にも感染した。
16歳かそこらで詩を書き始め、20歳ですっぱり詩から足を洗ったなんてまさに早熟の極みでかっこがいい。その後ランボーは一切文学を省みず、アジアからアフリカへ、熱砂の中を商人として放浪し、最後はエチオピアでたった一人、妹に見守られながら骨肉腫で死んだ、37歳で。
少年の僕がランボーを読むとき、「果たしてこんな人生を送れるだろうか、いや送れないな、でもちょっとはできるんじゃなかろうか」、そんな風に未来をおもいながら、不安いっぱい期待少々の日々の中で成長していたのかもしれない。いや、きっとそうだ。

でも、僕はランボーにあこがれているとは、一言も、誰にも打ち明けられなかった。かろうじて大学入試の面接の時、後の指導教官に「ランボーが好きで……」と一言口にしたくらいだ。(それで結局ランボーなど研究しなかったのだが……)
なんか同級生とかに言うのが恥ずかしかった。どうしてだろう。

当時、同級生は、なんだろうビーズとかミスチルとか?にあこがれてたんだろうか。「はぁ、いい歌詞だなぁ」と誰かが言っていたような気もする。(あんまり覚えてないけど)
マンガで言えば「スラムダンク」で泣いて、テレビの真似して、ビーズやミスチルをカラオケで熱唱しとけばとりあえずオッケーって感じだった。
ふむ。
でも、僕はどうしてもそういうのがしっくりこなかった。
で、マジで悩んだりした。ランボーとミスチルの違いはなんだろう……と。
(思うのだが、絶対ミスチルで盛り上がってる方が、ランボーで盛り上がるより人生楽しいと思うんだよね)
別に「あこがれ」に正解なんてないのだが、それでも当時うしろめたい気分がしていた。一種の倒錯かもしれないと自分を疑ったりした。

ところで、先日、これも家人に勧められニコ生でやってた東浩紀さんと宮台真司さんの対談を見た。
その中で、(うろ覚えなので不正確だったらごめんなさい)、東さんが「中学の頃、ドストエフスキーとおニャン子の何が違うのか本気で考えた」と言っていた。こうもつけくわえていた。「脳の働きの観点から言えば、そう大差はない」
確かに、と膝を打った。
それを敷衍して、宮台さんは答えた。ばっさりざっくり言うと、
「ドストエフスキーは片道切符、おニャン子は往復切符」
ってことらしい。
ようは、おニャン子は、とりあえず盛り上がって憂さを晴らして、それでまた日常に帰っていけるもの。ドストエフスキーは一旦感染すれば生き方そのものに影響を及ぼしかねないもの、つまり片道切符である。
この場合、ランボーがどっちで、ミスチルがどっちなんだろうか。まあ、きっと、ランボーがドストエフスキーなんでしょう。
でも、中には「ミスチル」(まあ、またはおニャン子)で生き方が変わった人もいそうで、なんとなくやっぱり「何が違うのか」という問いに百パー答えられていないもどかしさがある。

確かに、ランボーの詩は僕をもう後戻りできないところへ連れてったかもしれない。でも、それも「あこがれ」とか言ってる時点で文学オタクの自己満足に過ぎないのかもしれない。
問題は、妙に同世代の少年少女とずれていたことだ。肝心なところで、(例えば恋愛とか友情とか、そういう局面で)齟齬が生じていた。
詩なんぞにあこがれていたから、それも「あいだみつを」とか「銀色なんとか」とか「三代目なんとか」にあこがれてればなんとかなったのかもしれないけど、そうじゃなくて、ランボーだもの。

でも、どうしても「ミスチル」や「あいだみつを」には感染できなかった。
その理由を探るべく、とりあえず同一線上で、三者に相撲をさせてみようと思う。

「いつの日もこの胸に流れてるメロディ
切なくて、優しくて、心が痛いよ
陽のあたる坂道を昇るその前に
また何処かで会えるといいな
イノセントワールド」
これが、ミスチル。続いて、
「つまづいたっていいじゃないか
にんげんだもの みつを」
これが、みつを。で、
「俺は、善と幸福とへの改宗を、救ひを豫見してはゐた。俺にこの幻が描けるか。地獄の風は讃歌なぞご免だと言ふ。神の手になつた、麗はしい、數限りないものの群れ、求道の妙なる調べ、力と平和と高貴な大望の數々、あゝ、俺が何を知らう」
がランボー。

わかった。やっぱり、ダントツ、ランボーがかっこいいのだ。かっこよくてたまらない。ランボー、横綱。ミスチルとあいだみつをなど序二段、いや、序ノ口、いやまだ入門さえしてねえわ。
恋愛と友情を質に入れても、ランボーにあこがれた僕はある意味正解だったのかもしれない、ミスチルとあいだみつをとランボーを並べればそれがわかる。
だって、かっこいいもん。これ読んだら、そりゃ後戻りできないよ。

昨今、「詩」は肩身が狭い。でも、それは「ポエム」と混同されているからだと思う。
はっきり言うけど、「詩」と「ポエム」は違う。
独断で定義してみる。
「ポエム」は自分が陶酔しているもの。
「詩」は最低限他人を陶酔させるもの。
してみると「ポエム」は確かにスジも悪けりゃ性質も悪い。
そして「詩」はその正反対にいる。
だから、僕は時々「ポエム」っぽい言葉で自己陶酔している人にこう言いたくなる。とりあえず「詩」でも読んでみよっか、と。

ということで、僕は家人に、「僕のあこがれは「ランボー」でした」と打ち明けた。すると、家人はすべて悟ったように、「あー、それ、モテないやつだわ」と一蹴した。
いいのさ、モテも質に入れてランボーにいれあげたんだから。
ちなみに、家人の「あこがれ」は……、おっと、誰か来たみたいだ、このへんでやめておこう。


(いながき きよたか)




mail
コギトワークスロゴ