今はもう語る人があまりいなくなってしまったようだけど、香月利一という人がいて、この人は日本におけるビートルズ研究の第一人者だったそうだ。
この人が編んだ『ビートルズってなんだ?』というアンソロジーが講談社文庫から出ている。
ちょっと気になったことがあったので、本棚から引っ張り出してきて、ぱらぱらめくったら、久しぶりに面白かった。

どんな本かというと、ビートルズが来日公演をした1966年から、ジョン・レノンが殺された1980年周辺まで、日本の知識人たちの残したビートルズに関するエッセイが年代順に並べてあるものだ。
著者総勢50人以上、ようは当時の同時代人たちが日本においてビートルズをどのように受容したかが赤裸々につづられているというわけだ。
ちなみにこの文庫は六刷で、1989年発刊のもの、ちょうど僕がビートルズのCDを初めて買った昭和最後の年である。今考えれば馬鹿な話だが、なんとなく当時はまだビートルズファンの中にも同時代を過ごしたか否かで優劣を競うような雰囲気があって、その価値観で言えばどうあがいても僕らはかなわないわけで、当時の人たちがどのようにビートルズを受容したのかを知るためにこの本を買ったのだと記憶している。

この本の面白さはビートルズそのものに対する理解が深まるところにはない。というか、まったく深まらない。その代わり日本人がいかに新しいものに弱いか、そのことを痛感させられる。そこに面白さがある。

今やビートルズといえば、その評価は定まりきっていて、まあ揺るがない、というよりそもそももう語る人が少なくなった。それは評価が下がったということを意味していない。空気のように当り前にそこにあるものになったのだ。そうビートルズは当り前なのだ。
しかし50年前の日本はそうではなかったらしい。この新しい音楽を作ったとされる輩たちが日本に襲来するということで、まさに頭の良いはずの知識人までが右往左往していた様子なのである。

中でもすさまじくとんちんかんなのは、小汀利得対する青島幸男、野坂昭如の鼎談だ。
(小汀利得さんという人は、あの山下達郎・大滝詠一の「新春放談」の元ネタでおなじみの「時事放談」出演者である、もう一方の片割れは、同じくビートルズ来日を批判した細川隆元さん)
ただの保守おじさんと化した小汀利得が「ビートルズは人間を堕落させる!」と叫ぶと、「頭ごなしに低脳だ! 低級だ!というのは教育的にも間違ってる」と青島が反論、野坂はビートルズそっちのけで、小汀に対し敗戦の責任について追及するという、もう斜め上すぎてニヤニヤが止まらないこと請け合いだ。
他にもビートルズを武道館に観に行ったという大佛次郎、北杜夫、遠藤周作などのエッセイもなかなかに香ばしいものがある。
一応、擁護派とおぼしき遠藤周作さえ「ビートルズは昔の宗教的祭儀の変形」などと言い出す始末で、いかに当時の人たちがビートルズをわけのわからないものとして扱い、そしていかに我々の先達が新しいものを苦手としてきたかがわかる。
以下、年代が下るにしたがって、中には良エッセイもあり、とりあえずビートルズの評価が定まっていくように見えるのだが、どれも一抹のバイアスがかかっている感が否めない。毀誉褒貶、いちいち的外れで、なんだか芯を食っていないのだ。

一応、もう一度言うと、この本はビートルズの研究にはあまり役立たない。
ようはビートルズを他のものに代用しても、この本の有用性にはかわりがないということだ。
例えば、そこに『ポケモンGO』だって代入することができるかもしれない……。

別にポケモンGOがビートルズと同等と言ってるわけじゃない。単に新しいものという成分だけ取ってみれば、同じというだけである。更に言えば、新しいものに対する我々のアレルギー反応と言ってしまえば、もうこれはどっちがどっちかわからなくなる次第。
試しに、小汀利得鼎談の発言の『ビートルズ』を『ポケモンGO』に代えて抜粋してみよう。

野坂:小汀さんは、ポケモンGOぎらいだそうですが?
小汀:大嫌いだ。だいたいポケモンGOだの、ピカチュウだのとそこいらで「ハアー」なんていって騒いでいるやつは超特別に軽蔑しているんだよ。だいたい人類進歩のためにならない、人類を堕落させる動きだからね、ああいうのは。
野坂:ポケモンGOと本を読むこととの、高級と低級の差はどこから来るんですか?
小汀:とにかくポケモンGOなんてのは人間を堕落させることにしか貢献しない
(中略)
青島:(やおら身を乗り出して)何を根拠にポケモンGOは低級だとおっしゃるの?
小汀:何を根拠にと言ったって、あんなうるさいものはだめだァね。
青島:そういう言い方をされるとむしろあなたのほうが低級なんだと思うな。ただ騒音だというだけでは非常に根拠が薄弱だとおもいますけどもね。
小汀:いや、ただもう騒音だよ、それから反社会的だよ。夜の12時半ころになってもワアッと集まって、ワアワアやってる。卑しいもんだよ。

保守おじさんが、『超』特別なんて、若者言葉を使っているところなんてほんとニヤニヤしちゃうわけだが、まあ、とにかくこんな具合に、ビートルズについて喋っているのか、ポケモンGOについて喋っているのかわからないくらい、彼らの話には中身がない。ほんとにこの人たち知識人だったのかしらと思うほどだ。
そして、逆に試しに今ネットで見られるポケGO言説をビートルズに変換しても多分時間が五十年巻き戻るだけなのではなかろうか。ほんと日本人て相変わらずアホだなぁと思うんじゃないだろうか。絶対そうに違いない。馬鹿らしいからあえてやらないけど。

どうやら、僕たちは、新しいもの、わけのわからないものがとても苦手な国に暮らしている。
もちろん新しいものに対する評価が定まるにはそれなりに時間がかかる。のっけはとてもとんちんかんなリアクションをしてしまうことだってあるだろう。でもそれはそんなに悪いことではない。ただ、よしんばそれを許したとしても、しかし、まだ悪いことが二つある。
一つは正当な評価にいたるまでにとても時間がかかるということ。
もう一つは、苦手な新しいものに対して憎しみを抱いてしまうということだ。
前者はもうしょうがない、時間をかけるしかない、もう少し賢明になれればいいけど、まあ頭が悪いのだとあきらめよう。
でも後者はそうはいかない、すこしたちが悪い。だって憎しみは時々暴力に変わったりするから。

ビートルズが世界を変えたみたいに、ポケモンGOが社会を変えるなんて僕は思ってない、けど新しいものには代わりなくて、相変わらず世の中は50年前と同じく過剰に反応している。たかだかポケモンGOにだ。
ばかばかしい、と一蹴できない一抹の不安がある。さっき代入してみたみたいに、ビートルズがポケモンGOになるくらいならまだいいけど、異物に対してとてもナイーブな日本の場合、ポケモンGOが、たとえば移民になり、たとえば障害者になりかねない。
誰か、それなりに発言力のある人物たちが、「移民は日本人を堕落させる」なんて言い出すかもしれない。いや現にちらほら目にしなくもない。そんな時、僕たちはそれを見てとんちんかんだ、斜め上だ、香ばしいだと笑っていられるだろうか。笑うだけならまだいい、そうだと同調してしまわないだろうか。同調して、憎んで、暴力に訴えないだろうか、そんなことを考えると僕はだんだんうすら恐ろしくなるのだ。


(いながき きよたか)




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